西国版「本能寺の変」であっけなく滅亡…「吉田郡山城の戦い」で毛利元就と結び完勝した戦国大名の名前
プレジデントオンライン / 2025年1月31日 18時15分
■非業の死を遂げる10年前、反乱勢力を討つため広島へ出兵
大内義隆(おおうち・よしたか)
永正4年11月15日(1507年12月18日)~天文20年9月1日(1551年9月30日)
戦国時代の守護大名。周防(すおう)国(山口県南部)の在庁官人・大内氏の第16代当主。第15代当主・大内義興の嫡男。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務め、領土を広げる。フランシスコ・ザビエルと2回接見し、領土でのキリスト教布教を許可する。しかし、その政治に不満を抱いた家臣に謀反を起こされ、「大寧寺(たいねいじ)の変」にて一族と共に自害した。享年44歳(満年齢)。
戦国武将の運命を決めた城。今回は西国一の覇権をめぐって、安芸国(広島県西部)は吉田郡山城を中心に争われた大内義隆と尼子詮久の一大合戦を取り上げたい。
天文9年(1540)正月9日、周防国の大内義隆は首都・山口を発して、同国防府に本陣を置いた。そして先手勢の到着を待って、安芸国への遠征準備を整え始めた。目的は現地にある親尼子(あまこ)派の国人たちを制圧することにある。
出雲(いずも)国の尼子家は、義隆にとっていたく目障りな存在であった。
――8年前の天文元年(1532)には、豊後(ぶんご)(大分県)の大友義鑑(おおどもよしあき)が「大内包囲網」を構築した際、安芸国人・武田光和(みつかず)・伊予(いよ)守護・河野晴通(こうのはるみち)と同国海賊・村上義忠(よしただ)、豊前(ぶぜん)国人・城井正房(きいまさふさ)らに加担して、義隆をどん底に落とそうとした。
■義隆が迫られた究極の選択、出雲の尼子家と戦争するか?
この包囲網は7年のさまざまにわたって続き、義隆は苦しい戦いを強いられた。だが、義隆は弱気を見せることなく、最終的には、2度も海を越えて、豊後国の大友家めがけて大軍を乱入せしめた。
勝利が見えてくる頃、京都の将軍・足利義晴から仲介が入り、義隆は大友家と和睦。ここに「勇士之芸」を堂々と見せつける形で包囲網を終了させることに成功したのだ。
ひとまず海の向こうの大友家は落ち着いた。次に目を向けるべきは勢力を拡大しようとする尼子家である。
義隆は、亡父のごとく上洛して、畿内情勢に介入することを検討しており、それには尼子との敵対関係を解決する必要があった。
シンプルに考えれば選択肢は2つ。尼子と和睦するか、または戦争するかのどちらかである。
■尼子詮久は義隆と和睦せず、義隆が治める安芸へ軍勢を出した
義隆は慎重に熟慮したらしく、畿内では「尼子ハ大内方所縁事相決」(『大館常興日記』天文7年9月8日条)、「尼子事、大内ト令致参会、同時ニ可上洛由沙汰候」(『石山本願寺日記』天文9年4月20日条)という噂が流れていた。つまり、大内義隆と尼子詮久の間に縁談が持ち上がり、やがて2人が直接顔を合わせて、支え合いながら上洛するというシナリオが進んでいたようなのである。
だが、詮久は義隆たちの期待を裏切った。
安芸国への軍事行動を停止しなかったのである。このため、義隆は戦争を選んだ。まずは尼子家の進出で掻き回されている安芸国の平定である。
義隆が安芸国への遠征を決意する理由はさまざまにあるだろうが、同国の毛利元就(もうりもとなり)の存在があったのは間違いない。
元就はもと親尼子派だったが、亡父・大内義興の頃、方針を親大内派に切り替え、天文6年(1537)嫡男・隆元(たかもと)を人質に差し出している。
■義隆は山口の街を栄えさせ、毛利元就の子を大切に育てた
人質といっても冷たい扱いをされるわけではない。有力武将の子息である場合、ゆくゆくは大名直属の家臣となるため、英才教育を施される。
隆元も通例がごとく、義隆のお膝元・山口で文化的生活を保障され、義隆から「隆」字まで授けられた。一字拝領である。
もちろん隆元を育成するのは、義隆個人の趣味ではない。長期的戦略で、安芸国の支配権確立を確立するための布石としての厚遇だろう。
義隆時代の山口は、宣教師の目から見て、「当国(日本)に在る大なるものゝ一なり」(1551年9月29日付トルレス書簡/『異国叢書』上巻)と伝わっており、その大都市ぶりが伺える。京都からも公家が集まり、新たな首都を思わせるほどの先進都市で、その統治者から愛する息子を重く扱ってもらっている。元就は、義隆に頭が上がらなかっただろう。
そして義隆もまた元就・隆元父子は安芸国支配に欠かせない重要なカードと見ていた。
その義隆が安芸国に向かって動きはじめたのは、尼子詮久が出雲本国にいないタイミングであった。
詮久は東方の播磨(はりま)国へ遠征していたのだ。今その背後をつけば、初期の戦況はかなり優位に動かせるはずである。
■義隆と毛利元就の協力で、尼子勢を撃退しつつあったが…
安芸国現地では、すでに毛利元就が動いていた。天文9年(1540)6月16日、元就が尼子方の頭崎(かしらざき)城を制圧。城主を出家引退させた。
大内水軍は、伊予方面の海賊や武田水軍と交戦し、着実に戦域を前進させていた。この間、義隆は参戦勢力を増やそうと、かつて尼子と連携していた大友義鑑や肥前国の松浦興信(まつらおきのぶ)まで「尼子が石見(いわみ)国や安芸国を狙っている。早く援軍を出してほしい」という主旨で出兵を要請した(さすがに義鑑は口実を設けて断った)。
大内軍の動きは大きく見て順調ではあった。尼子軍が身動き取れないうちに尼子方の各拠点を次々に制圧していた。
親尼子派の国人たちは、いずれも小勢力である。降伏する将は受け入れ、逆らう者は討ち果たす。所詮(しょせん)は、王道の進軍を続けていけばいい。かつて包囲網を乗り越えた大内家の威勢は名実ともに西国一であった。
■尼子詮久は石見銀山城を制圧、大内軍の勢いが止まる
これに対抗するため、尼子詮久は夏から秋のうちに播磨国遠征をいったん取りやめ、西へと軍勢を進め直すことにした。その過程で、詮久は別働隊の尼子国久(くにひさ)を大内方の石見銀山城に進ませて、これを制圧せしめたせ。国久は尼子家精鋭の新宮党を率いており、正念場で頼もしい働きを見せた。
これで詮久本隊が安芸国に乱入している間に、石見国から派遣された大内軍に退路を塞がれる心配が消え去った。詮久は安心して安芸国へ向かう。
安芸国は尼子方の将士が奮闘して、大内軍の侵攻を停滞させていた。このため、まだ大内軍の安芸国平定は完了してはいない。
一応、詮久は間に合ったともいえるが、結果を思うと、すでに遅かったともいえる。
■次に尼子詮久が狙ったのは、毛利元就の本拠地・吉田郡山城
9月4日、安芸国に入った尼子詮久は、そのまま元就の本拠地・吉田郡山城(広島県安芸高田市)の近くまで軍勢を進めて、郡山城の北西にある風越山に布陣した。撤退しやすく、周囲を見渡しやすく、詮久にとってまたとない地形である。
この時の尼子の兵数は、毛利方の記録によれば、尼子軍は「打入之時三万也」の大軍であったという(「毛利元就郡山城籠城日記」/『毛利家文書』286号。以後「籠城日記」と略す)。
元就の兵数は不明だが、正面切っての戦いにはならない人数だったのは確実で、詮久も元就が決戦を挑んで出ることはないと判断しての動きを取っている。
まず、「先懸之足軽数十人」による城下の焼き討ちが行われた。いわゆる威迫(いはく)で、早期の降伏を促す兵法の定石である。だが元就も少数の兵を出して、足軽たちを速やかに打ち出して迎撃した。
この結果は詮久も予想していたであろう。尼子軍の威力偵察といったところか。元就は嫡男を義隆に預けた身の上である。抗戦の構えを崩さない。
■郡山城を攻めあぐねる尼子軍、駆け引き上手の毛利元就
20日近く、尼子軍と毛利軍の小競り合いが続く。尼子軍勢は郡山城の包囲陣を完成しようと、近くの城に中規模の別働隊を派遣したようだが、これも元就に迎撃された。
詮久と元就の駆け引きは、元就が上手であったようだ。
播磨国では反尼子方が健在である。このまま長期戦が続いてはまずいと判断したものか、詮久は本陣を移動した。より南の「三塚山」(青光山)に布陣しなおし、防御化を進めた。9月23日のことである。
おそらく大内軍の援軍との戦闘を視野に入れた動きだろう。方針を郡山城の短期制圧から後詰決戦に切り替えたのである。
これはごく個人的な想像だが、ここまでの流れは元就の計算通りだったように思われる。郡山城攻略に都合のいい風越山をわざと手薄にして、ここに詮久を入らせる。すると、もし詮久が南方の諸城を攻略して郡山城を孤立させようと別働隊を出したなら、その動きは郡山城から丸見えである。対策がしやすい。
詮久が別働隊による諸城攻略を模索するなら、郡山城への攻撃は確実に緩む。そうすると時間稼ぎが可能になる。
義隆は必ず援軍を寄越してくれる。ならばこうして踏ん張ることこそが最適解なのだ。
■大内軍が厳島から上陸し、ついに郡山城で決戦が始まる
10月4日、周防守護代・陶隆房(すえたかふさ)、長門(ながと)守護代・内藤興盛(おきもり)、豊前守護代・杉重矩(しげのり)らが厳島から上陸した。
12月11日、元就も尼子方の退路を防ぐため、かつて詮久が在陣していた風越山を焼き払わせた。後詰決戦を見込んでの動きだろう。
翌天文10年(1541)正月3日、ついに陶隆房が後詰(ごづめ)として吉田郡山城の南東に位置する山田中山に着陣する。その「勢数一万也」という(「籠城日記」)。ここでようやく大内軍と尼子軍が対峙(たいじ)することになった。しばらく小競り合いが続いたあと、大内軍が移動を開始する。正月11日、陶隆房が吉田郡山城の西に陣地を移して、詮久の退路を完全に遮断する構えをとったのだ。
正月13日、両軍の決戦が行われた。世にいう郡山合戦(こおりやまかっせん)である。確かな史料は残らないが、ここまでの動きから、双方示し合わせての決戦に見える。
どういう戦闘があったか復元は難しいが、毛利方の記録「籠城日記」は、陶隆房が作戦を主導していたように記しているので、隆房の采配は無視できないレベルで適切だったのだろう。
■周防守護代・陶隆房が大内軍を指揮し、激戦で多数の死傷者が出る
激しい戦闘があったが、尼子・大内両軍とも多数の死傷者を出した。毛利家の軍忠状を見ると、少なくない中間(ちゅうげん)身分の者(戦闘補助員)が首捕りの手柄をあげているので、正規の兵員ではない者たちも参戦したことだろう。
被害の大きさでいうと、尼子軍の方がかなり大きかったらしい。
どちらかが総崩れという劇的な展開は誘発しなかったものの、その夜、勝負が明らかになった。
出雲へ撤退する尼子軍を追撃、国境の川に多くの兵を沈める
詮久が夜のうちに全軍の帰国を決断したのだ。尼子軍は本国に向けて撤退を開始。大内軍および毛利軍は容赦なく追撃をしたらしく、特に「石州江乃川(ごうのかわ)(島根県江の川)」を渡河する兵たちは船あるいはその身を沈められ、凄惨な死を迎えたことが伝えられている「籠城日記」)。
その後、備前・備中・安芸・石見諸国の者たちが勢いづき、大内家に一味同心の姿勢を取り始めた。播磨や美作方面でも反尼子派も勢いづいた。
また、義隆自身も多賀高永(たがたかなが)(もと尼子家臣。出雲国の情勢に詳しい)の進言により、この勢いで尼子の本拠地を攻める決断を下し、「雲州乱入」の準備を開始する(「二宮俊実覚書」/『宮家旧蔵文書』561号)。
■大内・毛利連合軍が郡山合戦で勝利し、義隆は安芸国を平定
郡山合戦の勝敗は毛利元就の巧みな作戦と、大内義隆の確実な動きと、現場の人々の働きが見事に噛み合った結果と評していいだろう。
戦勝報告を受けた義隆は、安芸国現地に残る抵抗勢力を続々と打倒・降伏せしめていった。こうして同年の夏までに厳島神社神主家、武田家を滅ぼし、義隆は安芸一国の平定を達成した。
大内義隆はここに「武徳之家」として中国に君臨するにふさわしい完全勝利を収めたのだった。
大内義隆は後の織田信長に先駆けて、大規模な関所の撤廃、宣教師の布教許可、新たな都市計画など、先駆的な為政者として、天下の注目を集めていた。ところが、巨大化した大名にありがちな現象として、家中の統制を徹底できず、西国版の「本能寺の変」ともいえる「大寧寺の変」で、あっけなく滅亡させられることになる。
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歴史家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」
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(歴史家 乃至 政彦)
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