「親子3人心中」を止めたのは夫の一言だった…「70年以上愛される理容室」を切り盛りする108歳理容師の逆転人生
プレジデントオンライン / 2025年2月4日 17時15分
※本稿は、箱石シツイ『108歳の現役理容師おばあちゃん ごきげん暮らしの知恵袋』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■終戦から8年後に届いた1通の郵便
終戦を迎えても夫は帰ってきませんでした。今日か明日かと待ち続け、夜など、わたしたちが暮らす隠居の横の細道を通る足音がすると「はっ」となり、足音がどちらに向かうのか、息を詰め、耳を澄ましていたものです。
近所や隣町では、どこぞの誰それが帰還したとか噂になっていました。それを聞くと、「次はうちのお父ちゃんかな」なんて。娘と息子とね、お父ちゃんが帰ってきたら「何を食べてもらおうか」「何から話そうか」、いろいろ思い浮かべては気をまぎらわせていました。
消息がわからないまま月日だけが過ぎていきました。終戦から8年、昭和28年(1953年)のことです。娘は障がいがあるため学校には行けず、毎日家にいて、息子は小学3年生になっていました。ある日、お国から1通の郵便が届きましてね。胸騒ぎがしましたけれど、開封すると「箱石二郎 満州吉林省虎頭に於いて戦死、1945年8月19日」とありました。
しばらくはなんのことだか吞み込めませんでした。力が抜けてしまって、頭も動かない、何も考えられない、という感じになりまして、声も出せなかった。手紙には「4月何日に遺骨を渡すのでどこそこに取りに来るように」とあって、真偽も確かめようがない。半信半疑のまま息子を連れて上京し、指定された場所に行きました。名前を呼ばれ、白い布に包まれた小さな箱を引き取り、そっと胸に抱きました。
■骨箱の中には「ただの板切れ」
葬儀は箱石家の菩提寺、目黒にある祐天寺でやりました。もともと箱石家は神道だったそうですが、当時、箱石家の中心となっていたのは、夫の父・朝政さんの何番目かの奥さんで、その方が改宗したんでしょうね。夫の妹やわたしの叔父夫婦、妹夫婦も来てくれて、祭壇に遺骨をのせて、お経をあげてもらうという、小さな小さなお葬式でした。その後、代々の墓が青山墓地にあるので、祐天寺からは車で移動する手はずになっていました。
そのとき、遺骨を抱いて歩いていたのは息子です。まだ小学3年生ですから、お父さんへの思いや慣れないことへの緊張があったのでしょうね、車に乗るときに、何かにつまずいて転びかけました。「あ!」と声が出て、と同時に、遺骨が入っている箱の中で「カラカラカラ」と音がしました。乾いた軽い音でした。
そっと中を見ると、箱に入っていたのは夫の遺骨でもなんでもない、ただの板切れが1枚……。一瞬、歩けなくなってしまって立ちすくみ、「いったいこれはなんだろう、なんなんだろう」と、考えても考えても答えはまとまりませんでした。「ふざけんな!」。車の中で息子が大きな声で叫びました。
いつもなら言葉遣いに厳しいわたしでしたけれど、叱れませんでした。同じ気持ちだったですからね。これは、息子にとっても大きな傷を残した出来事でした。
■もしかしたら、どこかで生きているんじゃないか
でも、参列してくれている身内もいるし、騒ぎ立てるわけにもいかず、納得できないまま、板が1枚入った遺骨箱をそのまま埋葬しました。板切れに夫の魂が込められているとでもいうのでしょうか……。なんの説明もありませんでしたからね。「箱石二郎さんのご遺骨です」と渡されたのが板切れ1枚です。誰がどう決めてこうなったんでしょうか。当時、うちだけじゃなく、たくさんの家に板切れが届けられたのでしょうね。馬鹿にしてますね。夫が死んだのは「1945年8月19日」となっています。それが本当ならば、終戦の4日後ということになりますよね。死ななくてよかったんじゃないでしょうかね。
敗戦が決まったあとでも、中国などアジアの山奥にいた兵隊さんたちの中には、日本が降伏したということを知らされてなかったり、聞いても信じなかった人がいたそうです。戦後80年近く経って帰国した横井庄一さんや小野田寛郎さんのような方もいらっしゃったんですから。
夫の葬儀から71年経ちましたけど、ずっと心の中に引っかかっています。「本当に、あの板切れはなんだったのかな……」。今でもふと考えるときがあります。答えは出ないんですけどね。だからでしょうかね、夫の戦死をなんとなく完全に受け入れられてないというか。
「もしかしたら、どこかで生きているんじゃないかな」という思いが、胸の奥から何度も何度も湧き上がってきました。「いつか帰ってくるかもしれない」と、そういう気持ちがずっと、今もあります。
■両親も他界。頼れる人がいなくなった
終戦から2年後の昭和22年(1947年)、父が死に、その翌年に母も亡くなりました。両親2人とも闘病の末の旅立ちで、静かに見送ることができました。
わたしと2人の子どもは、両親がいなくなった隠居にこれまでどおりに住んでもいい、姉や兄、妹から許され、そうさせてもらっていました。そこで、もう嫌な陰口など叩かれないように、昭和23年に理容師免許を取り直して、正式な看板を掲げた理髪店として夫の帰還を待っていたんです。
けれど、夫は帰らぬ人となりました。両親の死後、姉が婿を取り跡を継いでいる本家との関係が、少し変わってきました。これまでも何かと厄介はありましたけれど、お互いに助け合い、気を使ってそれなりにうまくやっていたんです。でも次第に、あちらは迷惑だというのを隠さないようになってきました。
夜は、親子3人で“もらい風呂”に行くんです。本家の家族が入浴を済ませたあとを見計らって行くんですけど、追い焚きの薪を1本燃やすのにも神経を使わなければいけなくなり……。毎日のことですからね、こたえました。
■「猫いらず」を飲めば楽になれる
子どもたちのためには、ここにいるのが一番いいと思っていたし、ここしかいられる家がありませんでした。でも、そんな毎日に息が詰まり、悲しく、心細く、わたしはだんだん追い詰められて、自分を見失ってしまいました。
その果てにわたしは、悪い考えを起こしました。「親子3人で死のう。お父ちゃんのところに行こう」。思いついたのは、ネズミ取りの薬「猫いらず」です。当時、「猫いらず」を飲んで自殺した人の話を聞いたことがありました。大変な猛毒だそうです。あれなら手に入れることができる、死ねる、そう思いました。
まったく浅はかなことでしたけれど、あのときのわたしは「もう、それしかない」と思い込んでいて、ほかの考えが浮かばないほどだったんです。頼れる父はいない、やさしい母も死んでしまった、夫ももう帰ってこない。後ろ盾がなくなり、これからわたしはどうやってこの子たちを育てていけばいいのか。
あの、なんというか、夫の遺骨としてなんの説明もなく板切れを渡してきたこの国、世の中の誰ひとり信じられないような気持ちになって、子どもを抱えてどう生きていったらいいのかわからなくなってしまったんです。
■「お母ちゃんと一緒なら、いいよ」
はじめはわたしひとりで死んでしまおうとも思ったんですけれども、残された子どもたちが不憫です。それで、娘の充子に聞きました。「もう、お父ちゃんを待つこともなくなったし、お母ちゃん、疲れちゃった。お母ちゃんと一緒にお父ちゃんのところに行こうか?」。そうしたら充子はすぐに答えてくれました。
「うん、いいよ。お母ちゃんと一緒なら、いいよ」って。そこで覚悟が決まりました、息子が帰ってきたら、3人で「猫いらず」を飲んで心中しよう。
「急用ができたから、息子をすぐに帰してください」と小学校に連絡し、家じゅうの雨戸を閉めて、息子の帰りを待ちました。息子は「どこかに急用ができて、留守番か何かのために帰されたのかな」くらいの気持ちで下校したみたいですけれど、帰ってみると、雨戸を閉めきって、真っ暗な部屋の中にただならない感じのわたしがいて、とても驚いていました。
息子にも、「みんなでお父ちゃんのところに行こう。みっちゃんは一緒に行くって言ってくれたよ。だから、英ちゃんもこれ飲んで。3人で死のう」と言いました。そうしたら「やだー! 俺は死にたくねぇ! 絶対やだー!」と大声で叫んで、泣きながら飛び出していってしまいました。
息子は、わたしの甥っ子である本家の長男に、「お母ちゃんが死のうとしている!」と助けを求め、甥っ子と2人で、充子とわたしが「猫いらず」を飲もうとしているところを止めてくれて、親子3人は一命をとりとめたのです。
■思い出した「亡き夫との約束」
それから4、5日ほどでしょうか、雨戸を締めきったまま、心中しようとした気持ちを引きずって過ごしていました。時間も止まってしまったような空白でした。いろいろな思いが浮かんでは消えて……。
そんな中で、鮮明に思い出したことがありました。「子どもたちを頼む」、それは夫が出征前に残していった言葉です。「お金は全部使ってしまってかまわないから、とにかく子どもたちをよろしく頼む。子どもたちのことは、どんなことがあっても守ってくれ!」。
夫の、命をかけての願いを、わたしは忘れかけていたんです。「3人でお父ちゃんのところへ行こう」だなんて、とんでもないことでした。なんて馬鹿な考えだったんでしょうか。夫との約束を破るところでした。
やっと正気づいて、こんな弱虫ではダメだ、これまでの、実家、姉・兄・妹に寄りかかっている気持ちでいてはいけない。ここからもう一度、気持ちを入れ替え、わたし自身を立て直さなくては夫に申し訳が立たない。
「子どもたちを育てるために、どんなことがあってもくじけずにがんばる」。そう強く強く、心に決めました。そこからは弱い気持ちを断ちきって、「こうしてはいられない」と、わたしはその日すぐに、雨戸を全部開け放ち、店を再開させたんです。
■「わたしが生まれ変わった記念日」に
学校から帰ってきた息子は、店に立つわたしを見て、全身の力が抜けてしまったようで、その場にへたり込んで泣いてしまいました。「お母ちゃんが、いつものお母ちゃんに戻ってる!」と言ってね。心中事件のあとは、授業中でも「もしかしたら、今頃、みっちゃんと2人で死んじゃってるんじゃないか……」と、気が気でなかったそうです。心底ほっとしたんでしょうね。本当に本当に、本当に申し訳ないことをしました。
「娘と息子と、一日も早くここを出よう。そして3人で伸び伸び楽しく暮らそう。そうなるようにがんばろう」。そう決意し、この日は、わたしが生まれ変わった記念日になったんです。
つくづく死なないで良かったと思います。子どもたちの命も奪って犯罪者になるところでした。ものごと、思い詰めていいことは1つもありませんね。それからは、自分を冷静に見る、もうひとりの自分を大切にするようになりました。
そして、下を向いて足元を見つめてばかりいないで、目線を上に上げていなければと気づきました。そうしないとね、心に光が入ってこないんですよ。
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理容師
1916年(大正5年)生まれの108歳。理容師生活94年目の2023年、米国のリサーチ会社から世界最高齢の現役理容師に認定される。栃木県那須郡大内村で農家の5人きょうだいの4番目として生まれる。12歳で奉公に出て、14歳で上京。理髪店で働きながら理容師資格を取得。1939年、22歳のときに結婚し、東京・下落合に理髪店を開業。2児をもうけるも、長女は脳性麻痺に。1944年、夫の二郎さんが軍隊に召集され、旧満州で戦死。その報せが届いたのは終戦から8年後だった。実家に疎開の相談に行った夜に空襲で理髪店は焼失。その後、2人の子どもを抱え故郷の栃木県那須郡那珂川町に戻り、1953年に「理容ハコイシ」を開業、70年以上営業を続けている。102歳までひとり暮らしで身の回りのことはすべて自分でこなした。常連のお客さんが来れば今でも店に出る。2021年の東京五輪では息子と二人三脚で聖火ランナーを務めた。2024年11月10日に108歳を迎え、「世界最高齢の現役理容師」のギネス世界記録を申請中。
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(理容師 箱石 シツイ)
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