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鈴木修さん、あなたがいなければ日本から軽自動車が消えていた…カリスマが生涯こだわり続けた"意外な性能"

プレジデントオンライン / 2025年2月3日 7時15分

2016年10月、業務提携に向けた協議についての記者会見で、笑顔で言葉を交わすトヨタ自動車の豊田章男社長(左)とスズキの鈴木修会長=東京都文京区 - 写真提供=共同通信社

■浜松の弱小メーカーを世界のSUZUKIにした

スズキ株式会社の元最高経営責任者であり、中興の祖とも言うべき鈴木修さんが昨年末、94歳で亡くなった。

あまりに有名な自動車界のカリスマであり、あの豊田章男会長が「憧れのおやじさん」と公言するほどの人物だった。個人的には本格的なインタビューができなかったのが心残りだが、会食の場で数回お話したことはあり、そのフランクで圧倒的なキャラクターは今も憶えている。

昔から修さんの言動次第で「スズキの株価が変わる」(実際に12月25日は微妙下落)とか「軽自動車の行く末が変わる」とも言われ、影響力はハンパじゃなかった。また70代後半で会長から社長に復帰し、85歳まで会長兼社長を続けるなど、疲れ知らずの生涯現役っぷりもさることながら、成し遂げた業績がとにかく凄すぎる。

代表職を務めた期間は実に30年以上。1978年の社長就任時には3232億円だった売上高は、30年で3兆円と10倍。代表は退いた後だが直近24年も世界売り上げ5兆円超えと過去最高で、販売台数は国内2位と、あの日産を超えるレベルにまで育てあげた。

今回は業界人なら誰でも知っていることだが、スズキにおける修さんの偉大なる功績を、商品づくりを軸にお届けしたい。

■「アルト」大ヒットの裏にあった独自アイデア

まずはなんといってもスズキアルトだろう。軽自動車のカローラとも言うべき1979年生まれの永遠の軽ベーシックだが、このクルマの存在やインパクトは修さんなしではありえない。私と同じ「おっさん世代」なら中学生ぐらいで目の当たりにした「アルト47万円」の衝撃を今も覚えているはずだ。

衝撃的だったアルトの価格
画像提供=スズキ株式会社
衝撃的だったアルトの価格 - 画像提供=スズキ株式会社

当時の軽はほぼ60万円台スタート。そこにいきなり47万円の超低価格で登場したのだから価格破壊っぷりったらない。

しかも時代は軽全体が排ガス規制もあって人気下降中。ホンダは軽から一時撤退。「戦後のオート3輪」の如く消え去る存在とも目されていた。オマケにスズキは排ガス規制対応新エンジン開発に失敗してムードも最悪。

さらに言うと1977年にはカリスマ創業社長、2代目社長、現職社長だった伯父が3人とも急逝。結果翌78年には2代目の娘婿である修さんが社長に就任。40代の若さでいきなり双肩に会社の未来が托されたわけで、恐るべきプレッシャー。その状況下で、見事にピンチをチャンスに変えてしまうから凄い。

なぜならそこで修社長はとんでもない大ホームランを放つのだ。その裏には、とんでもない独自玉手箱アイデアの数々があった。

■「ビールに対する発泡酒」作戦

実は当初、アルトは78年に発売予定だった。だが、社長に就任した修さんにはいまひとつしっくりこない。そこで発売を1年延期し、開発者と相談しながら秘策を次々と織り込んでいく。

まず当時の軽乗用車には贅沢税的な「物品税」が課せられていた。税率は15~30%と50万円の軽ならざっと60万円弱になってしまう。そこでアルトは急遽、軽乗用車ではなく税率ゼロの「軽商用車」として発売する。その分荷室は狭くなるが、発想転換で「ビールに対する発泡酒」の如く、軽乗用車を庶民の足たる新・節税商品に変えたのだ。

オマケにアルトでは、ラジオはもちろんシガーライターに左側の鍵穴まで排除。デラックスやスーパーデラックスなど当時の常識たるグレード構成や新車のエリア別価格も廃止し、業界初の全国統一価格を実現。

結果、全国テレビネットに完全同一の「アルト47万円」CMを流せたわけで、実は商品以外にも画期的なマーケティング手腕が入りまくり。

結果アルトは大ヒットし、当時軽トップ常連のマツダやスバル、ホンダを差し置いてスズキが初めてシェアナンバーワンに立つ。それはその後ダイハツと切磋琢磨しながら今まで続くのだ。

■ニッポンの軽全体の救世主

アイデアはそれだけじゃない。この商用節税商品のアルトの波はその後のダイハツ・ミラクオーレ、三菱ミニカエコノ、スバルレックスなどの競合を生み、消え去ると言われていた軽マーケット全体をも復活させる。

ある意味、修さんはスズキどころかニッポンの軽全体の救世主とも言えるのだ。だからこそ、その後、軽の税率問題や存在意義が問われる度に、修さんの発言が重みを持って報道され、影響力を発揮してきたのだ。

もしやこの方の手腕がなければ、我が国の軽は本当に途絶えていたかもしれない。

次の大ヒットはワゴンRである。ご存じ1993年生まれの元祖ハイトールワゴンで、今の“スペース系”軽自動車の元祖。その後、2003年から2008年まではトヨタカローラを凌ぎオールジャンルでも1位になった。軽単独でも2013年に今のホンダN-BOXが軽トップに立つまで、ほぼ毎年1位か2位だった。

元祖ハイトールワゴン、ワゴンR
画像提供=スズキ株式会社
元祖ハイトールワゴン、ワゴンR - 画像提供=スズキ株式会社

このクルマもまたアルトほどではないが、修さんの大きな影響を受けている。

まずワゴンRのアイデアが生まれたのは意外にも1987年。当時はスタイリッシュな軽セダンが人気で、「軽のワンボックス乗用車」という新し過ぎるコンセプトには踏み切れなかったそう。修さんの言葉を借りれば「商品化せず、ひと呼吸置いた」とか。

だが、これが幸運を呼び込む。その後89年に軽の規格改定でエンジン排気量が660ccになり、ボディサイズもデカくなり、新発想のクルマが求められていた。そこで若い開発者の好きにやらせたところ大ヒット。そしてここにも修さんの重要な手直しが入っている。

■鶴の一声でボツになった幻の車名

当初、車名は若い人にウケるカジュアル感覚の「ZIP(ジップ)」だったそう。しかし発売直前で開発を手がけた戸田昌男氏(後に社長)の「今度の新車の名前は良くないね」の声をきっかけに、修さんが動く。

戸田氏と同様の感想を持っていた修さんは、この手のボディはワゴンタイプだと聞き「スズキにもセダンが“ある”。セダンもあるけどワゴンも“ある”。だからワゴンあーる(R)」とダジャレ的に命名してしまうのだ。

企画時にはバブルだった日本経済も発売時には崩壊。自転車運搬レールなどのユニークな装備や贅沢すぎる装備を省き、シンプルかつ抑えめにする。その結果、このポップだけど良コスパで親しみやすい名前を貰ったワゴンRは大ヒットする。

おそらくバブル崩壊後に、オシャレで割高な“ジップ”のままだったら一過性のファッショナブル商品で終わっていた可能性もある。良いアイデアも料理次第で運命は変わるのである。

最新型が大ヒットしているジムニー
筆者撮影
最新型が大ヒットしているジムニー - 筆者撮影

今月には5ドアの追加が発表された大人気の軽&小型本格クロカン4WDのジムニーも修さんの息がかかっている。

今となっては一般クルマ好きにも愛されるスズキの代表車種だが、実に特殊なクルマで、そもそもは森林警備隊や雪山を走る電力会社や農家、レアなマニアしか買わないモデルである。

■知られざるジムニー誕生秘話

もともと国内では軽4駆の年販数は100台くらい。そんなニッチ市場で、世界を見回してもこの軽自動車+αサイズで本格悪路に耐える4駆はない。

なにしろ、いまだに屈強なラダーフレームボディを採用し、縦置きエンジンのパートタイム4駆システムやわざと手応えを鈍くダルにしたボール・ナット式ステアリングを備えているのだ。一般消費者はまず買わない。

1970年生まれの初代が11年間、1981年生まれの2代目が17年間、1998年生まれの3代目が20年間も作られて、2018年生まれの今の4代目に繋がっている。

それだけ細く長く作られるプロの道具としてのクルマなのだ。

1972年に発売された初代ジムニー
画像提供=スズキ株式会社
1972年に発売された初代ジムニー - 画像提供=スズキ株式会社

そして案外知られてない事実だが、ジムニーはそもそもスズキが生み出したクルマではない。原型は軽3輪メーカーのホープ自動車が作っていた「ホープスター・ON型4WD」だ。ホープ自動車の小野社長と懇意にしていた修さん(当時は常務)の英断で、製造権を買い取りスズキで作って売り始めるのだ。

正直、ビッグビジネスではない。ただ、ホープ自動車では67万円で作っていた4駆を、スズキなら30万円ちょいで作れるという見込みと、細く末永く売れるだろうという先読みからの判断。これがまた実に見事に当たることになる。

■なぜインドに進出したのか

長くなってしまったが最後は今やスズキのビジネス全体の4割を占めるというビッグディール、インドビジネスだ。

現地に乗用四輪車がろくに走ってない1982年に進出。今や年間400万台超と中国、北米に続く世界3位のマーケットに育ち、これからも間違いなく伸びる。スズキはコンスタントにインドの四輪市場でシェア4割台(一時は5割超え)を獲得し、いまに至る。まさしく頭打ちの日本とは逆のスズキの新・生命線であり、これまた修さんの判断で進出したのだ。

当時現地で売ったのは、日本のアルトをベースに800ccエンジンを載せた「マルチ・800」だ。その原点には、発展途上のインドではスズキのコンパクトカー作りとコスト競争力が生きると判断した面もあるはず。

スズキ マルチ・800
スズキ マルチ・800(写真=MartinHansV/PD-self/Wikimedia Commons)

とはいえ80年代当時、ここまでインド市場が伸びると予想したわけではなかった。修さん曰く「瓢箪からコマ」。かねてからスズキは小さなメーカーだったので「どんな小さな市場でもいいからナンバーワンになって社員に誇りを持たせたい」が原動力。

そして偶然パキスタン出張中の社員がエアインディア機内で「印度政府が国民車構想のパートナーを募集」の現地新聞記事を読み、申し込んだあげく決まるのだ。

偶然の要素は強いが、「常にどこかでナンバーワンになろう」という修さんの勝負師マインドが呼んだ勝利の引きの強さを感じる。

■「価格」こそ最大の性能である

その発想の原点にあるのは、商品の「安さ」であり「コストパフォーマンス」だ。他社よりもとにかく安く、「安価=正義」、その徹底ぶりが凄まじい。

そこが価格は高くともデザインや質感、利便性で他社を圧倒するAppleのスティーブジョブズや、個性的な自動車作りやF1レースで世界を驚かせたホンダ創業者の本田宗一郎さんらとは一線を画すところで、カリスマ経営者としてのカラーが本質的に異なる。

一般的にモノ作りアーティストとして讃えられるのは前者だろう。それに比べ、修さんはマーケター的であり、消費者マインドと時流の読みっぷりが凄い。ジムニーを見ればわかるが、商品は他人のデザインだったりアイデアでもいいのだ。新たなプライスで、新たにビジネスが生み出せればいい。

そして私は思うのだ。商品にはデザイン、メカ、パワー、快適性、先進性などなどいろんな性能があるが、実は「価格」こそが最大の性能なのではないかと。

カッコよくて凄い製品を多少無理でも人が買う。それも素晴らしい。その人がより新しい快楽を味わえるからだ。だが、スズキがそうであるように、安くていいものを、より多くの人が買うもまた素晴らしい。それはクルマという素晴らしい商品を、より多くの人が味わえるということだからだ。

つくづく偉大なるモノ作りを具現化した、誇るべき日本のカリスマ経営者だと思う。

心からご冥福をお祈りいたします。

※参考資料『俺は中小企業のおやじ』鈴木修著 日本経済新聞出版社

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小沢 コージ(おざわ・こーじ)
自動車ライター
1966(昭和41)年神奈川県生まれ。青山学院大学卒業後、本田技研工業に就職。退社後「NAVI」編集部を経て、フリーに。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。主な著書に『クルマ界のすごい12人』(新潮新書)、『車の運転が怖い人のためのドライブ上達読本』(宝島社)など。愛車はホンダN-BOX、キャンピングカーナッツRVなど。現在YouTube「KozziTV」も週3~4本配信中。

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(自動車ライター 小沢 コージ)

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