髪はごっそり抜け、内臓が破壊される…プーチンが裏切り者の粛清に使った「検査では見つからない毒薬」の正体
プレジデントオンライン / 2025年2月12日 18時15分
2007年5月23日、モスクワのマラト・ゲルマン美術館で、ドミトリー・ヴルーベリとヴィクトリア・ティモフェエワの画家による元ロシアスパイのアレクサンドル・リトビネンコを描いた絵画を鑑賞する訪問者 - 写真=時事/AFP
■通常の検査では見つからない毒物
原因は特定されず、経過観察のため入院した。
「サーシャ(注:リトビネンコ氏の愛称)はぐったりして何ものどを通らず、呼吸するのにも苦労していました。普段とても元気で、病院にかかるのは初めてです。だから私もショックでした」(妻マリーナ)
リトビネンコは英国の制度に従い、かかりつけ医の登録は済ませていたものの、渡英以来一度も診てもらっていない。
「長男のアナトリーは小さいころ、予防接種を受けたりしましたが、サーシャが医者にかかるなんて想像もしていません。それが突然の入院です。丈夫だったので、回復を疑いませんでした。入院したので、これ以上悪くなるとは思わなかったです」
かつてロシアのスパイ機関に所属した亡命者である。しかも、直前にプーチンを批判していた。それを考えると、周囲の対応はあまりに緊張感を欠いている。救急隊も病院側も何ら特別な対応をしていない。マリーナは警察に連絡しようとは考えなかったのだろうか。私が確認すると、彼女は首を何度も振った。
「まったく考えなかったんです。何が起こったのかわかっていませんでした。最初に救急車を呼ぶと、家で休ませるよう言われました。だから、それほど大ごとだとは思わなかった。サーシャも警察への通報は考えていなかった。毒物が検出されれば、連絡したでしょう。症状だけで通報しても、被害妄想だと思われ、警察もまともに取り合わないでしょう」
それがポロニウムの怖さだった。通常の検査では見つからない。
ロシア政府やマフィアの関与を疑わなかったのだろうか。
「余裕がありませんでした。まずは危機から脱けることだけを考えていました」
■医師は事の深刻さを理解できなかった
午後9時ごろ、マリーナは病院を後にした。
ルゴボイ一行とコフトゥン(注:毒殺の実行犯とされるアンドレイ・ルゴボイとドミトリー・コフトゥン)はこの日(3日)の昼過ぎ、ロンドン・ヒースロー空港からBA874便でモスクワへ戻った。その後二度と英国の地を踏んでいない。
病院は細菌による胃腸不良を疑い、抗生剤を投与した。
週明け6日の月曜日、病棟を訪ねたマリーナは医師から「おそらく明日にでも帰宅できるだろう」と言われ、胸をなでおろした。気分が軽くなり、帰宅して家中を掃除した。
しかし、翌日には状況が一変する。医師が告げた。
「まだ退院できません」
「何があったんですか」
「免疫力が低下しています」
「血液を調べてもらえませんか。毒物が混じっていないでしょうか」
「なぜですか」
マリーナは初めて、夫が命を狙われる可能性について説明した。それでも医師は危険性を十分理解しなかった。
「地元病院の医師たちは普段、政治と関係しているわけではありません。特に国際関係には詳しくない。話を聞いてはくれましたが、何も対応しませんでした。私はパラノイア(被害妄想者)と思われたのかもしれません」
![マリーナ・リトビネンコ氏](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/c/1200wm/img_fc61c9294f0685d13592f27160a46165521432.jpg)
■解毒剤を飲んでも症状は悪化の一途をたどった
リトビネンコは解毒剤を飲んだ。痛みが激しくなってきたため、鎮痛剤も服用した。検査のたびに腎臓や肝臓の働きが鈍くなっている。強靭な肉体の持ち主でなかったら、心臓も動きを止めていたはずだ。原因不明のまま病状が悪化していく事態に医療団は戸惑った。
プーチンの批判者が体調を悪化させている。前月にはジャーナリストのポリトコフスカヤが暗殺された。それなのに警察は動いていない。リトビネンコは重要保護対象になっていなかったようだ。本人も入院が長引きそうだと感じながら、回復を疑ってはいない。マリーナに自宅から本と携帯電話、ひげそりを持ってきてほしいと頼んだ。
その後も症状は回復しなかった。のどの痛みはますます激しくなり、食事が通らない。見舞いにきた友人のバレンチーナは、ベッドに横になるリトビネンコの顔を見て驚いた。肌があまりに黄色くなっていた。病室を出るとマリーナにささやいた。
「肌の色がおかしいわ。肝臓が悪くなっているんだわ」
バレンチーナは全身美容師(エステティシャン)をしているロシア系女性だ。マリーナがロンドンに来て1年が過ぎたころ、ロシア料理店で偶然出会った。全身美容を施してもらったのをきっかけに親しくなる。
12日になるとリトビネンコは激しい痛みのため口もきけなくなった。口内が真っ白になっている。
■頭を持ち上げた途端、髪がごっそり抜けた
マリーナが衝撃を受けたのは13日、夫の頭を持ちあげようとしたときだ。髪がごっそりと抜け、枕に髪が付着した。食中毒で頭髪が抜けるとは考えられない。非常事態が起きている。
![櫛に付着した毛](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/b/1200wm/img_fbfe51df837ad69a521aa73e767ece25371645.jpg)
看護師を捕まえ、大声で叫んだ。
「大変なことが起きているようです」
医師が複数人やってきた。がんの専門医は「まるで抗がん剤治療を受けた患者のようだ」と言った。リトビネンコはがん病棟に移された。
この状態を聞いて、放射線被曝を疑った者がいた。ロシアの著名な元政治犯で、英国に暮らすウラジミール・ブコウスキーである。ソ連・ロシアから逃れた者として互いに交流し、リトビネンコは普段からさまざまな相談に乗ってもらっていた。
神経生理学者でもあるブコウスキーは症状を聞き、ガンマ線被曝について調べるべきだと忠告した。医師はガイガーカウンター(放射線測定器の一種)を患者の体に当てたが、反応はなかった。
■食中毒にしては明らかにおかしな症状
マリーナや知人たちが疑ったのはダイオキシン(TCDDの一種)中毒である。
ウクライナで2年前の2004年、大統領選挙に立候補を表明した親欧米派の野党政治家、ビクトル・ユーシェンコが突然、体調に異変をきたした。顔にできた痘痕から疑われたのがそれだった。
17日には、出張先の南アフリカから戻ったベレゾフスキーが、側近のゴールドファーブと一緒に見舞いにきた。リトビネンコに会うのは、発症直前に事務所で顔を合わせて以来だった。
あまりの変わりように、ベレゾフスキーは驚いた。リトビネンコは2人にこう言った。
「最初は死ぬかと思ったよ」
大量の水を飲んで胃を洗浄した様子などを語って聞かせた。
リトビネンコは頭をそり、オレンジ色の病院服を着ていた。2人に「まるでハーレクリシュナみたいだろ」と言った。
ハーレクリシュナとはインドの宗教家が設立した新興宗教団体、国際クリシュナ意識協会の通称である。ロンドンでは時折、大声で街を練り歩く信者たちの姿を目にする。みんな頭をそりあげ、オレンジ色の薄い服を着ている。リトビネンコには宗教家にたとえる余裕があった。
一方、ゴールドファーブは笑えなかった。食中毒にしては明らかにおかしかった。発症から2週間以上がたっている。食中毒がそれほど長引くはずはなかった。何かとんでもない事件が起きたのかもしれないと思った。リトビネンコは続けた。
「ここの医師たちに、ロシアの秘密情報機関に毒殺されかけたと説明しているんだ。だが、彼らは理解せず精神科医を呼ぼうとしたくらいだ」
そして、ゴールドファーブに持ちかけた。
「マスコミに取りあげてもらうには、どうしたらいいだろう」
■毒物が検出されないとマスコミも動けない
ゴールドファーブはベレゾフスキーのメディア対応を担当していたため、ジャーナリストの知己が少なくなかった。
リトビネンコは自分でいくつかのメディアに連絡したが、「薬物が検出されない限り報道できない」と断られている。何らかの証拠がない限りメディアは動きそうになかった。
ゴールドファーブはまず、知り合いの毒物学者、ジョン・ヘンリーに連絡をとった。セントメアリーズ病院内のインペリアル・カレッジ・ロンドンの医学部教授で、テレビに映るユーシェンコの顔を見て、ダイオキシンによる影響を指摘した学者である。
リトビネンコの症状について電話で説明を受けたヘンリーは言った。
「脱毛はタリウムの特徴です」
しかし、リトビネンコの場合、骨髄機能不全の症状があった。これはタリウムによる症状ではないという。英国ではタリウムの使用は禁止されていた。中東では殺鼠剤として容易に入手でき、ゆっくりと神経細胞を死滅させる。
アガサ・クリスティは小説『蒼ざめた馬』(1961年発表)でタリウム中毒について描いている。パレスチナ解放機構議長のヤセル・アラファトやキューバの国家評議会議長のフィデル・カストロについても、イスラエルや米国がタリウムを使って暗殺を試みたとの説がある。
ゴールドファーブはその日のうちにヘンリーの推測を、著名ジャーナリストである英紙サンデー・タイムズのデビッド・レパードに伝え、取材を依頼した。証拠がないと報じられないとするレパードに、「毒物が検出されたときに報じてくれればいい」と言って説得した。
レパードはすぐにやってきた。病院の指示に従い、感染予防のためビニール手袋を着用し、ベッドに近づいた。
■「ロシアは政府に批判的な者は誰にでも手を下す」
リトビネンコは腕に点滴をしていた。髪は抜け落ちている。免疫システムが正常に働かず、白血球が破壊されていた。肝臓や腎臓の機能は止まりかけている。ベッド横にはマリーナが涙をこらえながら座っていた。リトビネンコはレパードに声を詰まらせながら言った。
![小倉孝保『プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録』(集英社新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/d/2/1200wm/img_d2a4b52a9e4fe74a14689e8e2225e4a2304841.jpg)
「FSBには毒物の処理と開発を担う特別部隊があります。チェチェンでも毒物を使っています」
話を途中で打ち切り、膝の上のプラスチック製ボウルに手を伸ばすと、嘔吐した。しばらくしてこう続けた。
「ロシア国会は今夏に、政府と大統領が『過激派』を(国外まで)追跡し攻撃することを許可する法律を可決しました。そして数日後、彼らは『過激派』を定義する別の法律も作りました。政府に批判的な者は誰でも該当します」
また嘔吐した。話を続けようとする彼に看護師は言った。
「抗生剤を投与する時間です」
リトビネンコは静かに従った後、こう言った。
「私はロシア軍の内部で何が起こっているかを知っている。このような法律が制定されると、軍は直ちに計画を実行するために動き始め、新たな部隊も設立される。法の制定は軍や秘密情報機関にとっては命令と同じだ」
ベッドの患者は、「ロシア政府にやられた」と主張し、「おそらく彼らは私が3日以内に心不全で死ぬと思っていたのだろう」と述べた。
このインタビューとほぼ同じころ、リトビネンコの血液検査の結果、タリウムが検出されたことがわかった。これを受け、サンデー・タイムズ紙が19日に病状を報じ、欧州のメディアが一斉に伝え始めた。
ロンドン警視庁がついに捜査に乗り出す。マリーナは当時の心境を私に説明した。
「トンネルの向こうにかすかな光が見えました。何が起きたのか、そして、どう対処すべきかが、わかったような気がしたんです」
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毎日新聞論説委員
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。近著に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)がある。
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(毎日新聞論説委員 小倉 孝保)
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