「信長への怨恨」でも「黒幕がいた」でもない…最新研究でわかった明智光秀が本能寺の変を起こした本当の理由【2024下半期BEST5】
プレジデントオンライン / 2025年2月11日 7時15分
2024年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお届けします。教養・歴史部門の第2位は――。
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▼第2位 「信長への怨恨」でも「黒幕がいた」でもない…最新研究でわかった明智光秀が本能寺の変を起こした本当の理由
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■本能寺の変の原因は「明智光秀の怨恨」ではない
土佐国(高知県)の豪族から身を起こして急速に勢力を拡大し、四国をほぼ統一した戦国武将が長宗我部元親である。その快進撃を、所詮は四国ローカルの話だと思う人が多いかもしれない。
ところが、元親は戦国から天下統一へと向かう歴史の大きな流れに、間接的にではあるが、きわめて大きな影響をあたえた可能性がある。天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変は、元親の動き方によっては起きなかったかもしれないのである。
本能寺の変の原因については、さまざまな説が提唱されてきた。ドラマなどでよく描かれるのは、光秀が信長の安土城(滋賀県近江八幡市)で、徳川家康の饗応に失敗し、信長から叱責されて恨みをいだいたというものだ。
この話は江戸初期に書かれた『川角太閤記』に記されている。光秀が準備している料理が悪臭を発していたので、信長は激怒して光秀の饗応役を更迭。光秀は体面を傷つけられて、用意した料理を器ごと城の堀に投げ捨てたのだという。
しかし、そもそも『川角太閤記』の内容は信用できないとされているうえ、同様の話は信頼できる史料にはまったく書かれていないので、かなり以前から俗説として退けられている。
こうした怨恨説が長く語られてきた背景には、儒教の影響が指摘できる。江戸時代には歴史上の人物を儒教の基準で批判したため、暴虐で独りよがりな人物だという信長像が定着し、それに耐えかねた光秀が怨恨を晴らすために信長を討った、と考えられるようになったのである。
■最も有力とされる「四国説」
明治以降も怨恨説は根強かったが、大正から昭和初年には、これから述べる「四国説」も提唱されるようになった。そして、高柳光壽氏が1958年に上梓した『明智光秀』(人物叢書・吉川弘文館)で、光秀が信長にいだいたとされる怨恨が一つひとつ検証のうえで否定されてから、怨恨説はドラマなどを除いては、ほとんど相手にされていない。
その後は、黒幕説も数多く提唱された。朝廷、足利義昭、本願寺教如、イエズス会などバラエティに富んだ名が、謀反の「黒幕」として挙げられたが、いずれも否定されている。そして、現在では「四国説」がもっとも有力とされている。簡単にいえば、信長が梯子を外すように四国政策を変更したため、立場がなくなった光秀が信長への謀反を起こした、という説である。
長宗我部元親は天正3年(1575)、名門の土佐一条氏を四万十川の戦いで破り、土佐国を完全に統一した。その後、四国全土を攻略しようとしていた元親に手を差し伸べたのが信長だった。そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っており、本願寺に味方をする阿波国(徳島県)の三好氏に手を焼いていた。
![長宗我部元親像(秦神社所蔵品)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/3/1200wm/img_3326d0a5933eb89b44a13174c3a1051a517818.jpg)
そこで、阿波国にも進出しようとしている元親に、阿波三好氏を攻略させようと考えたのだ。天正6年(1578)10月には、元親の嫡男に「信」の字をあたえて「信親」と名乗らせ、元親が四国全土を攻略することを容認している。
■織田信長が行った手のひら返し
このときから元親の取次役として、交渉を一手に担ってきたのが明智光秀だった。なぜ光秀が取次役に選ばれたかだが、元親の事績を記した『元親記』によれば、元親の妻が光秀の重臣である斎藤利三の義理の妹である縁によるという。
ところが天正8年(1580)に、10年におよんだ本願寺との戦いが和睦によって終結すると、信長は急遽、四国全土に広がろうとしている元親の勢力を危険視しはじめた。天正9年(1581)9月ごろ、信長は光秀を通じて元親に、支配地域は土佐国と阿波国の南半分で我慢するように伝えている。
しかし、3年前に信長から、四国全土を攻略していいと言われ、実行に移していた元親にすれば、いまさら手のひら返しをされるいわれはない。敢然と拒んだが、それに対して信長は、阿波一国を三好康永、すなわち、当初は元親に攻略させていた阿波三好氏出身の武将に統治させることにした。
そして、天正10年(1582)1月、光秀を通じて元親に、領土は土佐一国だけで納得するように伝えたのである。
■四国征伐=明智家の存亡の危機
この時点で取次役の光秀は、道理に合わない要求を元親に次々と伝える役を負わされ、元親からは色よい返事を得られず、苦しい胸の内をかかえていたと想像される。しかも、「領国は土佐一国」と伝えてからは、元親からは返事を得られなかった。
だが、光秀としては、元親に納得してもらえなければ、自分の身が危うくなりかねない。あらためて光秀は元親に、信長の命令に従わなければ、長宗我部家が滅亡させられかねないと伝えて、必死の説得を試みた。ところが、まさに説得をしている最中に、信長は三男の織田信孝を総大将に据えて、元親の征伐を兼ねた四国出兵の命令を下してしまった。
その出兵の予定日は天正10年(1582)6月3日だった。元親の取次役としての立場を完全に無視された光秀は、このままでは自分自身が、そして明智家が、どんな処分を下されるかわからないと悲観したことは、容易に想像される。
まさに明智家の存亡の危機と受け取った光秀は、四国出兵の前日の6月2日、本能寺に主君たる信長を襲った――。それが「四国説」の概要である。要するに、元親が土佐一国と阿波の南半分の領土で納得していれば、本能寺の変は起きなかったかもしれない。だが、四国出兵が実現されようという状況では、元親は本能寺の変に助けられたことになる。
![岡豊城 全景](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/7/1200wm/img_179f7392e4e9bf7ab4eaf0522f112914491485.jpg)
■最新研究でわかった信長の行動の真意
光秀が元親と交渉するにあたっては、元親の小姑で元親と光秀を結んだ斎藤利三も関わっていて、信長の四国政策の変更により、光秀以上に立場を失っていたと考えられる。そのことを当時の公家たちは理解していたようだ。本能寺の変後に捕らえられ、京の市内を引き回される利三を見て、彼こそが変の首謀者だと日記に記しているのだ(『晴豊公記』『言経卿記』など)。
また、平成26年(2014)に公表された『石谷家文書』によって、信長の四国政策の変更を受けた光秀の立場について、さらによくわかるようになった。その内容は、熊田千尋氏が論文『本能寺の変の再検証』の抄録に、以下のように簡潔にまとめている。
「『石谷家文書』によって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。
信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである」
■信長に従えば日本の歴史も変わっていた…
信長が本能寺で討たれることなく、四国出兵を実現させていたら、長宗我部元親は滅亡させられていた可能性が高いだろう。だが、光秀が本能寺を襲ったおかげで元親は延命し、天正13年(1585)、四国全土をほぼ統一した(統一できていないという説もある)。
ただし、豊臣秀吉の力は見誤った。天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家と組んで秀吉に対抗し、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも、徳川家康および織田信雄と組んで秀吉を敵に回した。
そして天正13年(1585)、秀吉から伊予国(愛媛県)と讃岐国(香川県)を渡すように命じられると、伊予国だけを割譲して和平に持ち込もうとしたが認められず、秀吉の弟の秀長率いる10万の軍勢が四国に派遣され、結局、阿波、讃岐、伊予は没収され、土佐だけが安堵されることになった。
その後は豊臣家に仕えて、関ケ原の戦いの前年である慶長4年(1599)に病没。家督を継いだ盛親は、関ヶ原で西軍に加わり、戦わずに退散したものの領土を没収された。
歴史に「もしも」を言うのは無意味だが、あえて言いたくなる。信長に手のひら返しをされても、信長の力を正しく判断してそれに従っていれば、本能寺の変も起きず、長宗我部家の将来どころか、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれない。
(初公開日:2024年9月25日)
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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