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生まれ持った才能でも努力でも熱意でもない…名経営者・松下幸之助が語った「私が成功したたったひとつの理由」

プレジデントオンライン / 2025年2月10日 9時15分

松下幸之助(昭和47年1月7日撮影) - 写真=共同通信社

人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。パナソニックの創業者、松下幸之助は「伝説の経営者」として知られる。だが、ライターの栗下直也さんは「実は起業に際して明確なビジネスプランはなかった」という――。

■「コツコツ頑張れば報われる」のウソ

ビジネスの世界で成功を収めた人々は、往々にして「努力のおかげ」と語る。確かに、努力なくして成功はないだろう。しかし、2022年のイグノーベル賞で経済学賞を受賞したイタリア・カターニア大学の研究は、私たちの「努力は報われる」という信念に一石を投じた。

この研究は、運と成功の関係を統計学的に分析したものだ。人間の能力、例えばIQは正規分布を示す。つまり、凡人が最も多く、天才や低IQになるほど少なくなる。一方で、個人資産の分布は一部の資産家に大きく偏る。

研究チームは、この2つの現実をもとに大規模な解析を実施。その結果は驚くべきものだった。才能があっても運がない人より、平凡でも運に恵まれた人の方が、経済的成功を収める確率が高かったのである。

この結果は、多くのビジネスパーソンに衝撃を与えた。「コツコツ頑張れば報われる」「努力すれば道は開ける」――私たちは幼い頃からそう教えられてきた。その価値観を根底から覆すような研究結果に、戸惑いを感じる人も少なくないだろう。

■松下幸之助が語った「成功の理由」

興味深いことに、日本を代表する経営者の中にも「運が良かった」と公言する人物はいる。パナソニックの創業者・松下幸之助である。

幸之助は、まさに立志伝中の人物として知られる。1894年、地主の家に生まれるも、父親の相場失敗により9歳で奉公に出る。火鉢店、自転車屋、電力会社(現関西電力)での勤務を経て、1917年に23歳で電球ソケットの製造販売会社を創業。これが現在のパナソニックの始まりとなった。

その後の成功は目覚ましく、日本を代表する電機メーカーを築き上げ、長者番付で10回もの首位を記録。まさに日本で最も経済的に成功した人物となる。当然、彼がどのようにして成功したかを知りたい人も多く、彼の著書『道をひらく』は1968年の発売以来、今でも版を重ね、累計発行部数560万部を超える大ベストセラーとなっている。ただ、彼自身は自身の成功を「運が良かった」と強調するのである。(例えば、オーディオブック『私の自叙伝』では彼の肉声を聴くことができ、「私は運が良かった」という言葉を直接耳にすることができる)。

実際、幸之助の半生を丹念にたどると、必ずしも計画的な成功ではなかったことが見えてくる。

■明確なビジネスプランはなかった

最大の転機となった起業も、実は消極的な選択だった。松下家では、父母、兄弟が相次いで結核で亡くなっており、本人も病弱だった。血痰が出るようになり「死を覚悟した」というが、奇跡的に回復する。ただ、電力会社では学歴もない中、大きな出世は望めない。身体が弱いので、勤務もどこまで継続できるかもわからない。

そこで選んだのが起業という道だった。しかも、最初はお汁粉屋を始めようとしていた。単にお汁粉が好きだったからという理由だったが、妻に反対されたことで、電気器具の会社を立ち上げた。妻の反対がなければ日本を代表する電機メーカーの創業者ではなく、お汁粉屋の主人になっていたかもしれない。

当時、幸之助には明確なビジネスプランがあったわけではない。むしろ、病気による離職を余儀なくされ、生活のために始めた事業だった。しかし、結果としてこの「不運」が、幸之助を起業へと導き、後の大きな成功の礎となったのである。

幸之助の病弱さは、皮肉にも経営革新の原動力となった。

創業経営者が直面する最大の課題の一つが、いかに権限を委譲するかだ。バトンタッチの時機を逃し、経営が行き詰まるケースは少なくない。特に、カリスマ的な創業者の場合、「自分でやった方が早い」「任せると失敗するかもしれない」という思いから、権限委譲が進まないことも多い。

■日本で初めて事業部制を導入

幸之助の場合、体が弱いがゆえに、早くから権限委譲を進めざるを得なかった。創業期から妻に頼ることも多く、事業規模の拡大とともに、この傾向は強まっていく。そこで気づいたのが、「人は任されると責任を感じ、工夫する」という真理だった。

パナソニックの工場
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

この経験をもとに、1933年、幸之助は日本で初めて事業部制を導入する。各事業部に権限と責任を委譲し、独立採算制を敷く仕組みだ。実は、すでに1927年には電熱部新設の際に責任者に一任する方式を採用しており、これを全社的に展開した形だった。

この事業部制は、今では多くの大企業で採用される一般的な組織形態となっている。各事業部が独自の戦略を立て、迅速な意思決定を行うことで、市場変化に柔軟に対応できる。幸之助は、自身の病弱という「弱み」を、むしろ革新的な経営システムを生み出す「強み」に変換したのである。

■不運と幸運はコインの裏表

幸之助は、自身の成功を「運が良かった」と語るが、それは単なる謙遜ではない。彼の真骨頂は、一見するとマイナスな状況をプラスに転換する思考法にあった。

象徴的なエピソードがある。創業間もない1919年頃、大阪市内で自転車での配達中に自動車と衝突。幸之助は数メートル吹き飛ばされ、電車道に転倒する。そこへ電車が接近し、機に直面する。しかし、電車は急ブレーキをかけ、幸之助は九死に一生を得る。

自転車は破損し、商品は散乱したものの、幸之助自身は無傷だった。一見、まさに「運が良かった」エピソードに見える。しかし、当時の大阪市内の自動車登録台数はわずか5台だったとか。ほとんど走っていない自動車に衝突し、死にかけるという状況は、むしろ「極めて運が悪い」と解釈することもできる。それを「運が良かった」と捉えるところに、特異な思考法が表れている。

後年、幸之助は成功の理由を「学歴がなかったからや。家が貧しかったからや。体が弱かったからや」と語った。一般的にはハンディキャップとされる要素を、むしろ成功の要因として解釈し直したのである。

■運を味方につける方法

幸之助の思考法の特徴は、「負の状況」を嘆くのではなく、そこから新たな可能性を見出そうとする姿勢にある。

学歴がないからこそ、「常識」にとらわれず、「非常識」なアプローチができた。学がなく、会社勤めが厳しかったから、起業できた。起業しても、体が弱かったからこそ、早くから権限委譲を進め、革新的な経営システムを構築できた。

これは単なるプラス思考とは一線を画す。むしろ、与えられた状況の中で最大限の成果を上げようとする、極めて実践的な思考法だ。

イタリアの研究が示すように、確かに運は成功の重要な要素だろう。しかし、幸之助の事例は、運と努力の関係について、新たな視座を提供してくれる。

それは、「成功するために運を味方につける」という考え方だ。マイナスをプラスに変換する思考法、一見するとネガティブな状況でも、視点を変えることで機会に転換する柔軟性、そして何より、とりあえず動いてみる実行力だ。手数を増やすことが運を呼び込むのだ。

2025年を迎えた今、ビジネスの環境は急速に変化している。AIの台頭、地政学的リスクの増大、気候変動問題など、不確実性は増す一方だ。こうした時代において、「不安だ」「自分は不遇だ」と叫んでも何も始まらない。与えられた状況の中で最善を尽くす。とりあえず、手数を増やす――松下幸之助の思考法は、現代のビジネスパーソンにとって、今なお、重要な示唆を与えてくれるのではないだろうか。

参考文献
松下幸之助『松下幸之助 私の自叙伝』(オーディオブック)NHKサービスセンター
パナソニック「松下幸之助物語」パナソニックホームページ
金子一也「松下幸之助に学ぶ経営」『Business research』2015年3・4月号、一般社団法人企業研究会

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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