<三菱重工業>日立と事業統合、火力発電で世界に戦いを挑む【1】
プレジデントオンライン / 2013年6月27日 16時15分
三菱重工業 代表取締役社長 宮永俊一 1948年、福岡県生まれ。72年東京大学法学部卒業後、三菱重工業に入社。2008年取締役、常務執行役員、機械・鉄構事業本部長、11年4月取締役、副社長執行役員、社長室長を経て、13年4月から現職。
幻に終わった「日立製作所と三菱重工の全面統合」。その1年4カ月後に突然発表されたのが、両社“部分統合”だ。なぜ、部分統合が実現したか? その伏線は13年前にあった。
■本当に“拾って”いただいたと思っています
東京大学農学部の一角にあるテニスコートでは、テニスボールを打ち返す音が響いている。ここは、東京大学運動会庭球部の練習場である。1968年に東京大学に入学後、4年間庭球部に所属して、「下手の横好きながら、ひたすらボールを追いかけ回していた」という学生が決めた就職先は、三菱重工業だった。しかしながら、会社を“選んだ”という積極的なものではなく、
「本当に“拾って”いただいたと思っています。他の学生は3年生のときに決まっていましたが、4年生で就職しようとしたときには、行く所がなくなっていて」
と、宮永俊一は、学生時代を回想する。
1884年に三菱財閥の創設者である岩崎彌太郎が、明治政府より借り受けた長崎造船所に源流を持つ三菱重工業。単独ベースで3万2000人弱の社員を抱える同社の歴史は、まさに「三菱は国家なり」という自負と矜持に満ちたものだ。
しかし、目の前でインタビューに応じる三菱重工業の宮永俊一社長には、そういった気負いが、微塵も感じられない。宮永は、役職に関係なく、相手を「さん」付けで呼び、偉そうな素振りは見せない。本当に天下の三菱重工業の社長なのか? と訝しがる人がいても、不思議ではないくらい、宮永の人当たりは柔らかく、物腰は丁重である。しかしながら、宮永の腰の低さにばかり目がいくと、宮永という人物の本質を見誤ることになる。
今年2月、社長交代の記者会見で、大宮英明社長(現・会長)は、宮永を後継者に選んだ理由をこのように説明した。
「宮永さんは、先進的な経営センスと、変革に対して確固たるビジョンを持っています。42年ぶりとなる文系のトップの誕生ですが、宮永さんは技術に精通するだけでなく、高い見識を持っています」
100年を超える三菱重工業には、時代時代で各製作所が覇を競ってきた歴史がある。戦前、戦艦「武蔵」を世に送り出した長崎造船所。戦闘機「零戦」を生み出した旧名古屋航空機製作所(現・名古屋航空宇宙システム製作所)。今や三菱重工業の屋台骨を支える存在となった原動機の高砂製作所……。われこそは三菱重工業の“保守本流”という、強烈な自意識を持っての、事業所間同士の競争だった。歴代経営者もこれら有力製作所、造船所から輩出される傾向にあった。しかしながら、宮永は、本流ではない、広島製作所(旧・広島造船所)初の社長である。
入社後、宮永が配属されたのは、広島製作所の勤労部だった。この地で宮永は、経営の本質(事業がどのようにして衰退し、どのように再生するのか)を体験する。
「工場にいることが、大好きだったんです。本当に楽しいんですよ」
宮永は、屈託ない少年のような笑顔で話す。理科系・数学系の発想や考え方が好きな宮永にとって、配属された広島製作所の観音工場は、「機械のデパート」のようなワクワクする場所だった。セメント機械、コンプレッサー、製鉄機械、駆動タービン、ボイラー、化学機械……。宮永は工場の工程管理から営業まで、広島の地で17年間過ごした。この間の2年間、宮永は、米国のシカゴ大学ビジネススクールへの留学も経験している。シカゴの地で、宮永を待っていたのは、世界屈指の理論経済学や統計学の授業だった。コンピュータサイエンス、応用数学などの授業も選択することができた。宮永は世界最高峰の学問を、スポンジが水を吸うように吸収していった。
「様々な事象を抽象化し、共通性の有無を探し出しながら、他の事象との共通性を見いだしていく」
こうしたことから、導き出される類推、類似、近似させる理論と、広島での現場体験が、折り重なるように、宮永に、経営に関する数々のヒントを与えた。
お客のニーズに対して、自分たちは何ができるか。何が売れるか。何と何とをつなげれば、お客のニーズを満足させることが可能か……、宮永は考え続けた。
■「危機感と具体的な取り組みで企業は蘇る」
韓国の製鉄会社、ポスコ。鉄鋼業の世界ランキング第4位(2011年ベース)に君臨する巨大メーカーである。85年に第1期設備着工が始まった光陽製鉄所が、ポスコの急成長を支えてきた。世界屈指の鋼鉄生産量、1180万トンを誇る光陽製鉄所の建設に、宮永は埋め立て工事の段階から関わってきた。宮永はいう。
「小さな会社が世界指折りの製鉄会社に成長する過程を、見させていただいた」
宮永は35歳から約7年間、ポスコを担当している。そこで、製鉄機械の営業マンとして、米国を皮切りに欧州、中国など常に新しい市場を開拓してきた。宮永は、「できません」とは、いわない。たとえ、客から“無理な”要求を受けても、「こういった可能性もある」「ココとココをつなげるとこんな可能性も出てくる」と、前向きな提案をし続けた。
宮永の粘り強さが、米ナショナルスチール(03年に破綻、現・USスチール)、ベスレヘム・スチール(現・ミッタル・スチール)への売り込み成功につながった。オランダの国営製鉄会社に、三菱重工業の「熱間圧延設備」(鉄の加工プロセスを管理する設備)を納入することができたのも、お客の要求に対する宮永のしつこさと誠実さが呼び寄せた結果だ。
「ビジネスで訪れた国は、50カ国以上」というほど、海外を飛び回った宮永だが、時代の浮き沈みまでには、その力は及ばなかった。宮永の努力も虚しく、世界の鉄鋼業は大不況に突入し、98年くらいから三菱重工業の製鉄機械の受注は、最盛期の5分の1程度に激減してしまう。三菱重工業と同じ「熱間圧延設備」を扱う日立製作所も状況は同じだった。
世界では、企業のM&Aが活発化していた。世界一の規模を誇るマンネスマン・デマーグと、2位のシュレーマン・ジマーグが合併し、売上高1兆円規模の企業の「SMSデマーグ」が誕生していた。日本を代表する三菱重工業、日立製作所でも、両社合わせた売り上げが200億円にも満たない状態だった。
会社の規模だけを見れば、完全に負けているが、宮永の分析は違っていた。圧延機の領域に注目すれば、SMSデマーグが押さえる市場は約2000億円。それに対して、日本企業の機械の性能、技術の高さを勘案すれば三菱重工業、日立製作所で、1000億円の市場は、取れる見込みがあると。製鉄機械の分野では、「冷間圧延設備」が得意な日立製作所に対し、「熱間圧延設備」が得意な三菱重工業と、“領域は重ならない”と捉えた。
「何としても、生き残らねばならない」
宮永の脳裏には、国内メーカーの日立との消耗戦を続けた結果、世界市場で出遅れ、圧延機の事業が消滅するのではないかという危機感が日々募っていた。
宮永が機械事業本部重機械部長に就任する頃、取引先の銀行から連絡が入った。
「日立さんと一緒にはなれませんか」
企業文化も違う。プライドを持ち、競争を繰り広げる両社が一緒になれるのか。
「とにかく、やらせてみてください」
当時、三菱重工業の「合併会社検討委員会」のメンバーだった宮永には、このままでは生き残れないという危機感があった。最後は、宮永の声が、日立との合併に反対する声を押し切った。
2000年10月、「MHI日立製鉄機械」が、東京・田町にあるビルの1室で産声を上げた。社員は両社から集められた33名で、社長は宮永が務めることになった。2年後、社名を「三菱日立製鉄機械」(以下、三菱日立)と変更したのを機に、宮永は正式に三菱重工業を退社し、三菱日立の社長に就任した。
「退路を断つことによって、日立さんも、より一層頑張ってくれるのではないかという思いがありました」
宮永は、当時の状況を淡々と振り返る。
宮永が決断した背景には、合併を推進した責任を取る意味もあったが、大好きな製鉄機械であれば“殉じて”もいいという純粋な思いが強かった。「圧延機」を“超高速の判断能力を持つ人工知能”と評するほど惚れ込んでいたからである。
宮永は、三菱日立を世界一のメーカーに成長させることを真剣に考えていた。54歳の誕生日を目前にした決断だった。
「もう三菱重工業には戻れない」
宮永だけでなく、周囲も口に出さないものの、そう思っていた。
4年後、還暦に近づいた宮永に転機が訪れる。「奇跡のカムバック」と呼ぶ三菱重工業本社への“復帰辞令”だった。
宮永が、三菱日立の社長に就任してから、同社の雰囲気は大きく変わった。宮永が、陣頭指揮を執ることで、三菱日立の技術者たちは、合併後目の色を変えて働くようになり、技術者1人当たりの生産高、売り上げは、合併前の4~5倍に増え、製造ミスも減った。三菱日立は、「高収益企業」へと生まれ変わった。
「危機感と具体的な仕組みづくりと“資本の入れかえ”で企業は蘇る」。宮永は、子会社時代に、得難い体験をしたのだ。
■このままでは事業が消滅してしまう
「意外感が強くて、青天の霹靂でした」
78年入社組で、三菱重工業におけるキャリアを宮永と同じ広島製作所から、積み上げてきたのが、鯨井洋一常務執行役員航空宇宙事業本部長である。鯨井が、“青天の霹靂”と形容したのは、昨年7月に、大宮から「航空宇宙事業本部に行ってほしい」といわれたからだ。鯨井の前職は、機械・鉄構事業本部長で、長い間、“重たい機械”畑を歩んできたため、今回の異動は、全く異なるものだった。
鯨井、そして宮永が長く籍をおいた広島製作所だが、その歴史は大宮改革の“ロールモデル”といえた。
広島造船所として操業を開始した広島製作所だが、80年には本業の造船事業から撤退し、86年には、海洋部門を広島海洋機器工場へ分離させ、名称を広島製作所に変えている。00年には製鉄機械を分離させて、先述の日立と合弁会社(三菱日立)を設立させた。06年、橋梁部門を分離させて、「三菱重工鉄構エンジニアリング」を設立。10年、コンプレッサー・タービン部門が分離し、「三菱重工コンプレッサ」が誕生している。
事業の収益性に対する危機感が、広島製作所の急速な分社化を加速化させた。分社化させることで、事業の責任が明確になり、結果として生産性が高まった。
「広島製作所ほどドラスティックに製品や事業所自体の構造を変えてきたところは、ないんじゃないでしょうか」(鯨井)
鯨井自身が、歩んだ道も平坦ではなかった。宮永と同様、鯨井も製鉄機械に長く関わってきたが、時代の流れと共に、その営業先も、国内の製鉄メーカーから、韓国「ポスコ」へと変わり、中国へと軸足を移してきた。製鉄機械は、製鉄の伸びに比例して、97年のアジア通貨危機までは隆盛を誇った分野でもあった。
鯨井は、90年代初めから、製鉄機械と関係のない事業も任されている。造船事業から撤退し、閑散とした広島製作所内の工場の転用先として、米国の航空機メーカー、ボーイング「777」機の組み立て、生産の一部を請け負ったのだ。
鯨井は、造船用の工場を航空機用に改修することで、「777」の生産の一部を開始させた。鯨井だけでなく、かつて航空機の生産に関わった経験を持つ技術者は、広島に1人も存在しない。そんな状況でのスタートだった。
「キャリアチェンジですかねぇ」
鯨井は、穏やかに笑いながら答える。
鯨井は、“航空機製作”を1から学びながら、同時に技術者に職種転換を促し、育てつつ導いていかねばならない。鯨井は、航空機の生産現場を学ぶために、航空機生産の聖地「名古屋航空宇宙システム製作所」(以下、メイコウ)に、広島から何度も足を運んで教えを乞うた。広島製作所とメイコウの間の“技術のギャップ”“言葉のギャップ”は予想以上に大きく、鯨井には、非常に“高い壁”として感じられた。同時に、鯨井は、航空機という「専門外の分野」に従事する広島の技術者のやるせなさ、将来への不安を、感じない日はなかった。ある日、鯨井は、技術者たちに向かってこういった。
「メイコウはメイコウ。われわれ(広島製作所)は、航空機の西の拠点として自立、自主独立していこう。ボーイング『777』から次の機種へ、そのまた次の機種へとつながるように、作業の質を高めていこう」
鯨井はややもすれば、肩を落としがちの社員、技術者をこう鼓舞しながら、将来のビジョンを提示し続けた。
その後も、鯨井は、何度も名古屋に足を運び、メイコウの若い技術者に頭を下げながら、航空機の技術を学んでいった。鯨井が、この苦しみを乗り越えることができたのも、「このままでは事業が消滅してしまう、仕事がなくなってしまう」という強烈な危機意識からだった。
宮永が、背水の陣で広島製作所から製鉄機械部分を切り離し、日立と共に創設した三菱日立。宮永が三菱日立で味わった同じような危機意識を、鯨井も「777」で経験していた。
(文中敬称略)
(ジャーナリスト 児玉 博 的野弘路=撮影)
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