ワカタケル大王の正体① (全3回)                           小林 耕

クオリティ埼玉 / 2014年4月16日 15時10分

 『日本書紀』の景行(けいこう)天皇の25年[95]の7月3日に、武内宿禰(たけのうちのすくね)は北陸・東北・関東の諸国の情勢を視察するように天皇に命じられた。
 そして2年後の27年[97]に視察から帰った武内宿禰は、東国のいなかの中に日高見国(ひだかみこく)があり、その住民はすべて蝦夷(えみし)である、と天皇に報告した。そして、土地は肥えていて広大であるから攻略するとよいでしょう、と進言している。
 ただ、この12代景行天皇の在位は、71年から130年であるところから、現実の歴史とは年代が合わない。
 それは『後漢書』<倭伝>に、107年に倭国王師升(すいしょう)らが生口(せいこう)160人を献上し、後漢の光武帝に接見を願い求めた、と記録されていて、残念ながらこの時代には天皇は存在しなかったことが明らかであるからだ。
 しかし、478年に中国宋朝への倭国の武の上表文に、自分の先祖は東方の毛人を征すること55国、と書いているところから、大和勢力の東国への武力介入は4世紀後半頃から始まっていたと思われる。その中で大和勢力に屈せずに存在したのが日高見国であろう。武内宿禰の視察は、おそらくその時代であろうと考えられる。
 さて、日高見国についてであるが、その領域は主に東北地方とするのが定説である。それは岩手県と宮城県内を流れる北上川の名は、日高見川からの転訛(てんか)[発音の近似性により、もとの音から変化すること]とみられている。このため日高見国は北上川流域の国とみなされているのである。
 またその国の住民が蝦夷であるということから、アイヌ人の国と勘違いされることも多い。
 しかし、古代よりアイヌ人は国を作ってはいない。彼らは5戸から10戸程の血族共同体の部落[コタン]を中心に活動していて、全アイヌ部落を統治する支配者は存在しなかったのである。
 アイヌ人達は自分達のことをアイヌ語で、「エミ・チュウ」、または「エンチュ」といっていた。それは「美衣の人」という意味で、彼らの刺繡した美しい晴れ着、アツシが美衣である。それらの語が転訛して、もしくは、アイヌ人以外の人の耳に「エミシ」と聞こえ、それがいつの間にか彼らの代名詞になってしまったと思われる。
 またアイヌ人は、和人[日本人]のことはアイヌ語で「シャモ」と呼んでいた。和人以外の異国人はアイヌ語で「カイ」と呼んでいたのを誰かが「蝦夷」と漢字で記録したようだ。この文字は大化改新から奈良時代にかけて使われるようになったそうだ。
 「夷」や「毛人」を「エミシ」と読まれていたのが、いつの間にか「蝦夷」も「エミシ」、そしてなぜか「エゾ」と読まれるようになってしまった。そればかりか、アイヌ人が異人を「カイ[蝦夷]」と呼んだのが、いつの間にか自分達がその漢字で表現されるようになってしまったのである。
 だから国を作らないアイヌ人であるから、日高見国の住民の全てが蝦夷という人達と、アイヌ人は同類ではないのである。そして和人でないことも同様である。
 日高見国がアイヌ人の国でないとなると、その領域を東北地方に限定することもない。この裏付けとなるのが『常陸国風土記』である。
 『常陸国風土記』の信太(しだ)の郡(こおり)の記述の中で、653年に筑波・茨城の郡から700戸を分けて信太の郡を置いた、とある。そしてこの地は、もと日高見の国である、と書かれている。信太の郡の名称が、日高見に由来していると見ていいだろう。
 信太の郡は、現在の茨城県の霞ケ浦の南、千葉県との境にある龍ヶ崎(りゅうがさき)市・牛久(うしく)市・稲敷(いなしき)市一帯である。つまり日高見国は関東までその領域が広がっていたのである。
 この信太の郡の郡役所の北十里に碓井(うすい)がある。そこから西に高来(たかく)の里がある。昔この里には天より神が降りて来て、天下を平服させると再び白雲に乗って天に帰っていったという伝説を持つ里である。
 私が注目するのは「高来(たかく)」という地名である。というのは、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する高来(たかく)神社と同名であるからだ。
 高来(たかく)神社は、高句麗(こうくり)からの渡来人高麗若光(こまのじゃっこう)らが大磯に移り住んだ時に創建されている。江戸時代までは高麗神社と書かれていたが、「麗(らい)」の字が難しいためか「来(らい)」の字に替えられ、以後高来神社と表記され、読みも「たかく」になってしまった。
 以上のことから考えて、信太の郡の高来の里も高麗、つまり高句麗人達の移住地であった可能性が高いからである。
 そのことは『続日本紀』の716年において、常陸・上総・下総・相模・甲斐・駿河・下野の7カ国に住んでいた1799人の高句麗人を武蔵国に移し、そこに高麗郡を置いた、とあるからだ。信太の郡も高来の里も、常陸国であるから、そこに高句麗人が住んでいたことは充分考えられるのである。
 ちなみに武蔵国の高麗郡には、先の相模国大磯に住んでいた高麗王若光を祀る高麗神社が鎮座している。この高麗郡は、現在の埼玉県日高市で、高句麗人達の居住区であったところから、日高市の市名は、日高見国に由来するものと考えられる。

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