1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

柿谷曜一朗が抱き続けた“セレッソ愛”。遅刻癖、背番号8、J1復帰、戦術重視への嫌悪感…稀代のファンタジスタの光と影

REAL SPORTS / 2025年2月3日 2時24分

「ファンタジスタ」「ジーニアス」と形容された元日本代表・柿谷曜一朗がスパイクを脱いだ。引退会見が行われたのは、自身が最も長いキャリアを過ごした古巣セレッソ大阪の本拠地ヨドコウ桜スタジアム。4歳の時にセレッソでサッカーを始め、深いクラブ愛を示し続けてきた柿谷は、一方で数々の型破りなエピソードも残してきた。その素顔が凝縮された引退会見を通じ、光と影が対照的なコントラストを描いたそのキャリアとともに、ファン・サポーターから愛され続けてきた理由に迫る。

(文・撮影=藤江直人)

「家族のような存在だった」古巣への思い

スパイクを脱ぐ選手たちのなかでも、限られた一部にしか用意されない最後のヒノキ舞台となる現役引退会見を実施するうえで、柿谷曜一朗は最大の無理難題を申し出た。

J2の徳島ヴォルティスでプレーした昨シーズンを最後に、19年間におよんだプロサッカー人生にピリオドを打つと、徳島を通じて突然発表したのが1月18日。実は2日前の同16日に、柿谷はセレッソ大阪の森島寛晃社長らに会うために、大阪市内の球団事務局へ足を運んでいた。

急きょ設けられたミーティング。柿谷は現役引退を森島社長らに報告するとともに、記者会見を最後の所属クラブとなった徳島ではなく、アカデミー時代を含めてトータルで四半世紀近くも所属し、いまも特別な思いを抱く古巣セレッソで行いたいと切り出した。

もちろん驚かれた。柿谷が出場機会を求めて名古屋グランパスへ完全移籍した2020シーズンのオフを境に、一度は別々の道を歩んでいたからだ。それでもセレッソはミーティングからわずか1週間後の23日に引退会見を実施した。冒頭で柿谷はセレッソへ感謝の思いを口にした。

「僕の無茶なお願いを快く聞いてくださり、本当にありがとうございます」

さらにセレッソで開催した理由を問う質問に、自らのキャリアを重ねながらこう答えた。

「僕は4歳のときにセレッソ大阪でサッカーを始めましたけど、当時からこのクラブが我が家というか、家族のような存在でした。いろいろとありましたけど、最後はやはりここで話をして、本当にお世話になったこのクラブに一番感謝を伝えなきゃいけないという気持ちになりました」

示し続けたクラブ愛「オレがJ1へ上げる」

柿谷のセレッソ愛をさらに強くしたのが、12歳だった2002年6月。チュニジア代表とのFIFAワールドカップ日韓共催大会のグループリーグ最終戦を、地元の長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)で観戦し、セレッソ所属の森島氏の先制ゴールを記憶に焼きつけたときだった。

当時はセレッソ大阪U-15に昇格したばかりの柿谷の愛は、干支がひと回りした2014年5月に具現化される。ワールドカップ・ブラジル大会代表に選出された柿谷は、それまでニュルンベルクやフィオレンティーナなどのオファーに断りを入れてきた経緯を踏まえながらこう語っている。

「セレッソ出身選手ではなく、セレッソの所属選手としてワールドカップに出場したかった」

2016年1月には、ブラジル大会後に移籍したスイスの強豪バーゼルとの契約を2年半も残した状況で、柿谷はセレッソへ復帰した。2シーズン続けてJ2を戦う古巣から復帰要請を受け、熟慮を重ねた末にセレッソ愛を優先させた。当時の玉田稔社長は柿谷の胸中を次のように慮っていた。

「こんなタイミングで帰っていいのか、という思いが曜一朗のなかにあったようですが、話し合いを重ねるなかで、私には『オレがセレッソをJ1へ上げる』という彼の気概が伝わってきました」

「終わってもいい」覚悟で決めたJ1復帰

サッカー人生で初めてキャプテンの大役を担い、バーゼル移籍前に背負っていた「8番」を欠番にして出迎えられた2016シーズン。J2における柿谷の戦いは6月に暗転する。試合中に右足関節靱帯損傷の大怪我を負い、8月には回復が遅れていた患部にメスを入れた。

11月に復帰し、勝ち進んだJ1昇格プレーオフは決勝でファジアーノ岡山に1-0で辛勝。2シーズンぶりのJ1復帰を決めた直後に、激しい雨が降るホームのキンチョウスタジアムの真ん中で、フル出場した柿谷は仰向けになって号泣した。舞台裏には壮絶なやり取りがあった。

「もう両足の状態が終わっていたので。決勝の週の練習で両太ももの前も肉離れして、さすがにあかんかなと思ったけど、それでも大熊さん(大熊清監督)に『もう知らん。とにかく出る』と言って。プレーができる、できないといったレベルじゃなくて、メディカルスタッフからすれば『こいつはまずなんでユニフォームを着てんねん』といった状態やったんですけど」

引退会見後に応じた囲み取材で、ドクターストップがかかってもおかしくなかった重傷だったと初めて明かした柿谷は、間に合わせてくれたスタッフへの感謝を込めてこう続けた。

「ピッチに立ったら案外、アドレナリンで痛くなくなるはずなんですけど普通に痛かった。でもそんなのはどうでもいいし、もう(サッカー人生が)終わってもいいという覚悟やったから。でも、いまではきれいな話になっているけど、負けていたら『元気なやつが出た方がよかった』となるし、自分のなかでは勝負でもあった。そういった意味でも多分、涙が止まらんかったと思う。その年に結婚すると決めていたから、プレーオフに負けて何が結婚や、という思いもありましたけどね」

胸に刻まれた言葉「どうなろうとセレッソの曜一郎だから」

覚悟を決めて袂を分かち合い、名古屋の一員になった2021シーズンの後半にも、封印したはずのセレッソ愛が頭をもたげた。名古屋が初優勝したYBCルヴァンカップ。埼玉スタジアムで10月30日に行われた決勝で、セレッソとの顔合わせが決まった直後だった。

「ここでセレッソと決勝か、と。あの試合がサッカー人生で1、2を争うほど緊張したというか、セレッソのサポーターの前でどういうプレーをすればいいのか、どのような顔で入場したらいいのかといろいろと考えてまともに寝られなかった。俺の目の前でタイトルを取らすわけにはいかんと思いながらも、タイトルを取ってほしいという気持ちもどこかにあって」

激しく揺れ動いた当時の心境を明かした柿谷は、泣かないと決めて臨んだ引退会見で初めて声を詰まらせ、万が一のために用意していた白いハンカチで目頭を覆いながらさらにこう続けた。

「そのときにセレッソのサポーターの方から『どうなろうとセレッソの曜一朗やから。どうなろうとお前のプレーだけが楽しみやから』と言ってもらえて。その言葉のおかげで、本当に気持ちが楽になって決勝ではプレーできた。この場を借りてその方にお礼を言いたい」

セレッソとの決勝で先発した柿谷はともに無得点で迎えた後半2分に、左コーナーキックをニアへ回り込んで頭でフリック。名古屋の先制ゴールをアシストし、2-0の快勝に貢献した。

引退決断の経緯。愛するサッカーに芽生えた真逆の感情

契約満了に伴い、昨シーズン限りで徳島を退団すると発表されたのが昨年11月9日。現役続行も視野に入れていた柿谷のもとには複数のオファーが届き、正式なオファーにはいたらなかったものの、最後はセレッソに復帰して有終の美を飾る、という構想ももちあがった。

しかし、時間の経過とともに心境が変化。今年に入って引退を決めた理由をこう語る。

「きれいに現役を終えたいと思っている選手がチームのなかにいれば監督にも、もっと上を目指したいと思う選手たちにも失礼だと思うようになった。むしろ邪魔やし、これはきっぱり引退を決めたほうがいい、と。僕はサッカーが大好きで、すごく楽しくて、簡単で、これほど僕に合ったスポーツはないと思ってずっと続けてきたけど、いまはしんどくて、ホンマに難しく感じるようになって。これはいまになって思ったというよりは、正直、数年前からありました」

愛してやまないサッカーに真逆の感情を抱くようになったのはなぜなのか。柿谷は「サッカーをさせられている、という言い方はよくないかもしれへんけど」と断りを入れながらこう続けた。

「よくも悪くも選手がサッカーをしているというより、いまは90分間でやるプレーが決まっているようなサッカーになっているんじゃないかなと。ミーティングでも、ようわからん戦術があまりにも山盛りで出てくる。それについていくのがしんどいし、試合のために練習を見直すとか、僕のイメージからすると、そんなのはサッカーちゃうやろうと。サカつくやん、みたいな感じなんですよ。ミーティングなんかどうでもいいから、まずはボールを止めて相手を抜く。それができてからの話や、という感覚で育った僕としては、90分間ずっと放っておいてほしかった」

セレッソが紡いだ「8」の系譜

ブラジル出身のレヴィー・クルピ監督のもと、前線で自由奔放にプレーした2013シーズン。柿谷はキャリアハイの21ゴールをあげてリーグの得点ランキング3位に入り、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表に初招集され、翌年のブラジル大会の代表入りへとつなげた。

その2013シーズンに、セレッソ伝統のエースナンバーである「8」を初めて背負った。前身のヤンマーディーゼル時代から生涯セレッソを貫いた森島氏を皮切りに、香川真司、清武弘嗣に次ぐ4人目の拝命。自身の名古屋移籍後は乾貴士をへて、再び香川へ戻った「8」の系譜をこう語る。

「セレッソの『8』は簡単につけられる番号ではないので、もちろんすごく光栄に思っています。それでも僕たち4人、そして森島さんの影すら薄くなるくらいのすごい選手が『8』をつけて、セレッソで愛される未来が僕の願いでもあり、楽しみでもあります」

引退にあたって、ともに2006シーズンに入団した、年齢がひとつ上の香川から「お疲れさま。いいライバルだったよ」とメッセージが届いたと明かした柿谷は思わず苦笑した。

「何を言ってんねんと。そう言ってもらえてうれしかったけど、彼のキャリアや実績はちょっと比べ物にはならないし、僕なんか足元にも及ばない。背負ってみないとわからないところもありましたけど、プレーどうこうじゃなく、すべてにおいて模範にならないといけなかった。模範という言葉は僕には似合わないし、いまでは『8』をつけるべきだったのかな、とも思う。その意味では真司くんがすべての選手の模範になるような存在なので、一番似合っていると思います」

今シーズンもセレッソの「8」を背負う香川へエールを送った柿谷は、練習への遅刻を繰り返した悪癖をあらためろと、2009年夏から強制的に期限付き移籍した徳島での約2年半を含めて、光と影があまりにも対照的なコントラストを描いてきた自身のキャリアをこんな言葉で締めくくった。

「僕は正直、若いときは本当に問題児で、いろいろな意味で大人じゃないまま、未熟なまま35歳になりました。いまだからこそ話せるけど、徳島でも遅刻はしていました。人間がいきなり変わるわけがないけど、それでも自分はサッカーが大好きやったし、自分なりのサッカーの見せ方を見つけられたのもあったし、それを許してくれた人たちに出会えた。それがすべてです」

天才が見せた光と影。歩み始めた第二の人生

日本サッカー界で絶滅危惧種となりつつある、ファンタジスタや天才と形容されたプレーの数々や背番号「8」の拝命が「光」ならば、十代の頃の規律違反や晩年に入って胸中に抱き始めた戦術重視の現代サッカーへの嫌悪感は、柿谷が抱えた「影」のなかでも最大のものになるだろう。

引退会見ではそれらのすべてを隠さずにシリアスな表情で語ったかと思えば、人懐こい笑顔を何度も弾けさせ、涙腺を幾度となく緩ませ、恥ずかしいからと壇上で伏せる場面もあった。

セレッソの大先輩選手、クラブアンバサダー、チーム統括部の一員、そして社長として接し続けてきた柿谷の憎めない素顔の数々を、集大成の場でも目の当たりにしたからか。引退会見後に花束を贈呈した森島社長も「何で俺が泣いてんねん」と、思わず涙腺を緩めながらこう語っている。

「サッカー界からまた一人、ワクワクする選手がいなくなるのを非常に寂しく思います。ワクワクもさせられましたけども、ハラハラも大変ありました。いろいろな思いが蘇ってきます」

具体的に何をするのかはこれから考える、としたセカンドキャリアは「サッカー系文化人」になると明言した。指導者にはあまり興味がないと語る柿谷は、理由として「僕みたいな人間が指導者になるべきではないと、僕自身が一番わかっているので」と屈託なく笑う。

もっとも、1月30日にJリーグから発表された「FUJIFILM SUPER CUP 2025」(2月8日、国立競技場)の概要で、前座試合として日本高校サッカー選抜と対戦するU-18Jリーグ選抜のコーチに柿谷が名を連ねた。1試合限定ながら、前言撤回とばかりに指導する側に回る。自身のインスタグラムへ「やってみます」と投稿するなど、予測不能の行動を取るあたりもまた柿谷らしい。

引退会見を行いたいと突然打診してセレッソを動かし、わずか1週間で実施にこぎつけたのも柿谷がいまも古巣を愛し、愛されているからに他ならない。会場がホテルなどではなくセレッソの本拠地ヨドコウ桜スタジアム、思い出深い旧キンチョウスタジアムだった点にも柿谷は感謝する。

「ここでやる以外、逆にどこでやんねん、というのが僕の感覚です。お願いしてよかったです」

浮かべた無邪気な笑顔は昔もいまも変わらない。知らず知らずのうちに周囲を巻き込み、前へと動かしていく永遠のやんちゃぶりを全開にしながら、柿谷は第二の人生を歩みはじめた。

<了>

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください