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「やるかやらんか」2027年への決意。ラグビー山中亮平が経験した、まさかの落選、まさかの追加招集

REAL SPORTS / 2025年2月7日 7時37分

何度でもどん底から立ち上がり、決して諦めず、前進し続けるアスリートの姿は胸を打つ。学生日本一、2年間の資格停止処分、日本代表落選、ワールドカップ出場……。ジャパンラグビー リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズに所属する山中亮平もまた激動のラグビー人生を強い信念を持って乗り越えてきたアスリートの一人だ。そこで本稿では山中亮平の著書『それでも諦めない』の抜粋を通して、“何度でも立ち上がる男”の紆余曲折の人生を振り返る。今回は、ラグビーワールドカップ2023フランス大会直前でのまさかの日本代表メンバー落選について。

(文=山中亮平、写真=AP/アフロ)

「やるかやらんか」2027年への決意

2023年8月15日、たくさんの人が注目する中でラグビーワールドカップ2023フランス大会の最終登録メンバーが発表された。メディアには「山中まさかの落選」の見出しが並んだ。

周囲の助けもあって自分の中では新たな目標である2027年に向かってポジティブな気持ちになっていたけど、「発表後のリアクションどうする問題」は解決していなかった。

発表までの間、自分のSNSで発信する言葉を考えては、コピーライターでもある吾郎(編注:吉谷吾郎。早稲田大学ラグビー蹴球部時代の同期で友人)に送って、「こんな感じはどう?」とアドバイスを求めていた。吾郎にも「考えてよ」とお願いしてみたが、「山ちゃんの言葉、そのままの言葉が一番いいよ。自分で書いたこれがいいと思うよ」と、俺が書いた正直な気持ちをそのままアップすればいいと言ってくれた。

登録メンバー発表当日、18時12分にアップしたメッセージがこれだ。

———————————-
ワールドカップフランス大会の
メンバーに選ばれませんでした。

この1週間いろいろ考えて
このまま諦めるのは性に合わないので
山中は、
2027年のワールドカップ目指します。

自分になにが足りなかったのか。
もう一度自分を見つめ直す。
年齢とかそんなん関係ない。
できるできへんじゃなくて
やるかやらんか。

ラグビー人生、第3章のスタートです。

あと、代表メンバーのことが大好きです。
選ばれたメンバーは怪我なく
いい結果を残せるように頑張って!

山中 亮平
———————————-
本人のX(@yAmAnAkA10)より

驚いたのは発信に対する反響だった。落選に納得いかないと言ってくれる人もたくさんいたし、このメッセージを見てさらに応援したくなりましたという声がめちゃくちゃ多かったのはうれしかった。中学、高校、大学、社会人とこれまでラグビーを通じて俺と関わってきてくれた身近な人だけじゃなく、日本中の人が応援してくれているのを実感できた。

メッセージを見たアスリートからDMがきて、「自分も同じ境遇だったけどがんばろうと思えた」とか、「ケガをしているけど絶対に復帰しようと思った」とか、「同い年だけどまだまだがんばれる気がした」とか、自分の言葉が誰かを励ますとは思っていなかったから、そんな反応をもらえたことがうれしかった。

普段はあまりSNSで積極的に発言はしないし、これからも熱心にやるつもりはないが、こういう誰かを勇気づけたり、ポジティブにする使い方ならSNSもいいもんだなと思った。

まさかの落選から、まさかの追加招集へ

15日以降は、バーバリアンズ(※)でプレーすることに目標を切り替えて、そこに集中していた。8月26日には日本を発ち、イギリスへ向かった。

(※)遠征や試合ごとに世界の一流選手たちを集めて編成されるホームグラウンドを持たないラグビーユニオンクラブ。この時は日本代表とオーストラリア代表のバックアップメンバーで構成されていた

バーバリアンズの初戦は、9月2日のノーサンプトン・セインツ戦。そこから7日のブリストル戦を終えて、10日の日本代表のワールドカップ初戦は、バーバリアンズのメンバーと一緒にテレビで見た。チリには42対12で見事快勝した。

バーバリアンズの次の試合は16日。スカーレッツとの試合を終えた翌日、チリ戦と同じようにバーバリアンズのみんなと日本の2戦目、イングランド戦を見ていた。

前半7分、セミシ(・マシレワ)がキックを蹴った後にそのまま座り込んでしまった。テレビだったので状況はよくわからなかったが、セミシはプレー続行が難しかったようで、結局そのまま交代となった。一緒に見ていた高橋汰地とか茂野海人も「山さん、これはあるっすね」と言ってきた。オーストラリアの選手も一緒に見ていて、めっちゃフレンドリーな人たちだったから、「ヤマナカサンアル」とか言って、背中を押してくれていた。

 

12対34で負けた後、試合を終えてホテルに戻ったジャパンのメンバー何人かから電話がかかってきた。

「山さん、これあるんちゃう?」

「これセミシはもう無理っぽい。そうなったら絶対、山ちゃんあるよ」

そう言われても、まだ何も話がないから「お前らが知らんのに俺がわかるわけないやろ」と返した。夜も遅かったから、電話を切り上げてその日は寝た。

次の日、朝メシを食べ終わって部屋に戻ると、ジャパンのチームスタッフから電話がかかってきた。

「負傷者が出たので、招集されます。すぐに来てください」

セミシのことは心配だったし、ここでワールドカップを去る気持ちを思うと複雑だったが、そのときのためのバックアップメンバーだ。またワールドカップに出られるかもしれないと思うと、うれしい気持ちもあった。

正式に決まって、家族にも早速テレビ電話で報告した。「明日ワールドカップに行く」と伝えると、めちゃくちゃ喜んでくれて「私たちもフランスに行く!」と盛り上がっていた。ちなみに奥さんは実際に、三人の子どもとすぐにフランスに来た。子どもの学校とかいろいろあって、滞在期間は1週間だったから、サモア戦まで。俺はメンバー外でフィールドに立っている姿を見せることはできなかったけど、子どもたちもワールドカップを生で観戦できて、あの熱狂の雰囲気を味わえた。改めて「パパはすごい舞台で戦っているんだ」と思ってくれたようなので、それは良かった。

記者との会話。日本代表メンバーとの再会

追加招集の連絡を受けた翌日、すぐにフランスに発った。

イングランド戦から次のサモア戦までは10日以上空いていた。俺がベースキャンプになっていたトゥールーズに着いた日は、2日か3日続いていたオフの日だった。みんなバカンスで出払っていたので、「タクシーで来てくれ」とのことだった。

空港では、チームスタッフの出迎えはなかったが、情報を聞きつけた日本の記者が出迎えてくれた。歩きながらフラッシュを浴びて、「どうですか? 今の気持ちは?」とレコーダーを向けられる、外タレか芸能人みたいなアレだ。

「うれしいですね」と答えた後、半分冗談で「誰も迎えにきてくれないんですよ。ぼく、スマホの充電切れててタクシーも乗れないし、ホテルまで誰か一緒に行ってくれませんか?」と言ってみた。スマホの充電は本当に切れていて、困っていたのは事実だった。

記者の中の一人が「ぼく行きますよ!」と言ってくれて、タクシーでホテルまで連れて行ってくれた。車の中で話したが、めちゃくちゃいい人だった。

ホテルに着くと、残っていた選手たちが「山さん!」と出迎えてくれた。オフだったから、チームで集まって合流とかはなかったが、8月頭まで普通に一緒にやっていたメンバーだからチームには違和感なくすぐになじめた。

トニー・ブラウン アタックコーチが「バーバリアンズの試合も見ていたぞ。すごくいい動きをしていた」と話しかけてきた。このときはまだ、裏切られたという気持ちがあったから「はぁ……」みたいに聞き流していた。練習はチームのため、仲間のためにしっかりやったが、ジェイミー・ジョセフ ヘッドコーチやトニーに対しては、まだわだかまりがあった。

9月28日のサモア戦は、レメキが先発することになった。俺はリザーブにも入らなかったが、練習を見ていてもレメキが好調だったし、合流していきなり俺が使われたらそれこそ「今までは何だったん?」となるので、「それはそうやろ」くらいに思っていた。

ジェイミーの意外な言葉

出場なしもあるかなと思っていたが、10月8日のアルゼンチン戦のメンバーに入ることが決まった。奥さんや子どもたちは帰国した後だったが、報告したら「えー、まだ残って見たかった」と言っていた。

アルゼンチン戦の数日前、遅れてきた俺のためにキャップの授与式があった。ラグビーの代表戦出場試合数をキャップ数と言ったりするが、あれは、昔、イングランドで敵味方の区別をするために帽子をかぶって試合をしていたことから来ているそうだ。

式と言っても簡単なものだったが、メンバーが集まっている中で帽子を渡された。そのときにジェイミーがびっくりするようなことを言い出した。

「ヤマナカをチームから外したのは俺の間違いだった。来てくれてありがとう」

その通り言ったかどうかは覚えていないがそういうニュアンスのことは言っていた。選手たちも「え? ジェイミーそれ認めちゃうの?」という反応で、ちょっと変な空気になった。

それでわだかまりが全部なくなったわけではないが、みんなの前でジェイミーが「間違いだった」と言ってくれたことでずっと抱えていたモヤモヤがすっきりした。それでアルゼンチン戦のリザーブにも入ったわけだから、その場の雰囲気で言った言葉でもなかったのだろう。

アルゼンチン戦は、ラスト10分でフィールドに入った。興奮しながらも夢見心地だった2019年の不思議な感覚とはまったく違って、ワールドカップに出たという実感はなかった。こっちに来たのは、バーバリアンズで自分を磨くため。ワールドカップへの思いが8月5日に一度断ち切られたこと、そこから自分なりに葛藤があって、周囲の助けを得ながらようやく2027年という目標を設定したこともあった。正直に言うと、今も2023年のワールドカップに出たという実感はない。ただ、ここに立てなかった選手たちのことを思うと、たとえ10分でもワールドカップのフィールドに立てたことを誇りに思うべきだし、全力でできることをやるべきだとは思っていた。

日本代表はアルゼンチン代表に27対39で敗れ、2勝2敗でグループリーグ敗退。何かと慌ただしかった2023年のワールドカップはここで終わることになった。

順風満帆だと思えばいきなりの大嵐に遭って沈没寸前になる。沈みかけたときに必ず誰かが助けてくれて、また立ち上がる。

思えば俺のラグビー人生はいつもこんな感じだった。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『それでも諦めない』から一部転載)

※次回連載は2月14日(金)に公開予定

<了>

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[PROFILE]
山中亮平(やまなか・りょうへい)
1988年6月22日生まれ、大阪府出身。中学1年の終わりからラグビーをはじめ、東海大学付属仰星高校(現・東海大学付属大阪仰星高校)では攻撃的なSO/スタンドオフで“ファンタジスタ”とも呼ばれ、3年時には全国高校ラグビー大会で優勝した。早稲田大学に進学後はすぐに頭角を現し、1年・2年次に全国制覇を経験。大学4年の春には日本代表初キャップを獲得した。大学卒業後に神戸製鋼コベルコスティーラーズ(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に入団。2018-2019シーズンにはトップリーグで15年ぶり、日本選手権で18年ぶりの日本一を果たした。その翌年に開催されたラグビーワールドカップ2019日本大会では全5試合に出場し、日本・アジアラグビー史上初の8強進出に大きく貢献した。2021年以降も継続して日本代表に選出されるが、ラグビーワールドカップ2023フランス大会の直前ではまさかの落選。しかし、大会期間中に追加招集され、2大会連続のワールドカップ出場を果たした。日本代表は30キャップ。

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