久保竜彦の“破天荒さと凄み”を生かせなかった日本の現実 戦友たちの証言で振り返る
REAL SPORTS / 2019年9月20日 11時30分
「サッカー界の“宝石”久保」のストーリーだと聞くと現在誰もが久保建英をイメージするだろう。しかしこれから取り上げるのは2000年代を代表するストライカー“ドラゴン”久保竜彦である。
破天荒で豪快。圧巻のバネと得点力。「宝石」とさえ呼ばれた特異な才能は、プロとしてどのように評価され、どのように評価されなかったのか。
「単独で欧州や南米の守備陣を破壊しうる人材」。そんな彼を彷彿とさせる新たな日本を代表するストライカーの出現に期待しつつ、久保竜彦の“破天荒さ”と“凄み”を数々の証言を交えて振り返る。
(文=中野和也、写真=Getty Images)
「2002年? その時は地球が滅亡するらしいから」久保竜彦を書くと決まった時、何から書き出すか、判断に迷った。彼のプレーの素晴らしさか、それとも破天荒な生活か。
ただ、もう久保竜彦の存在自体が歴史的なものでもある。なので、彼の名言の数々をまずはご紹介したい。古くからのサンフレッチェ広島サポーターや久保ファンの方々にはご承知だろうが、若いサッカーファンはご存知ないと思うので。
1996年、初めてのインタビュー。
「中学の時から、サッカーが楽しくなった。遠征とか、バスに乗っていくのが楽しいから」
サッカーのプレーそのものでは、ないんかい(苦笑)。
「高校の時、初めてサッカーの知識とか、教えてもらった。すごかった」
「何がすごかった?」
「よー、わからん」
……はい?
「レイソル? 黄色のユニフォームですかね?」
うーん……。
「最初に出たのは(清水)エスパルス戦だった。広島と違って、なんか、怖かった」
いやいや、怖いの意味がわからない。
当時は2002年FIFAワールドカップが日本で開催されるかどうかという話題でもちきりだったこともあり、その話を振ってみた。その答えが、
「2002年? その時は地球が滅亡するらしいから」
「えっ、どういうこと?」
「1999年に地球はなくなるんでしょ」
「……もしかして、ノストラダムスの大予言?」
「そうっす」
瞳はまったく笑っていなかった。あと4年で地球が滅亡するという予言に、おびえていた。なので、当時のある説を教えてあげた。「最近の研究では2012年らしいよ」
「そうなんですか! よかった」
当時は坊主頭ではなく、パーマがかかった髪を揺さぶるように、久保竜彦は笑った。
「試合に出始めているけれど、すごいなって思った選手は?」
その質問に、彼はずーっと、無言。必死で考えて、考えて。言葉のない時間が1分以上も続いたあとで、
「あんまり、知らないんです。カズ(三浦知良)さん、レオナルド、ストイコビッチ、ゴン(中山雅史)さん、くらいしか。あ、ジュビロの8番の人、上手いですね」
ブラジル代表主将のドゥンガのことを、彼は知らなかった。
1997年、レギュラーとして試合に出始めた頃。当時、ステージ優勝を争っていた横浜フリューゲルス戦で森保一がセザール・サンパイオと激突した。
「ポイチさんに何しとるんや」
森保を師と仰ぐ久保は、サンパイオに対して激怒。彼をピッチ上で追い回し、警告を受けた。
もちろん、褒められた行為ではない。しかし、久保の場合はどこか、ユーモラス。
福岡の郊外、田んぼや畑がある中で、野性をむき出しに育った若者は、誰からも愛された。それは横浜F・マリノス(横浜FM)に移籍したあとも同じ。そして、彼は日本代表でジーコという名伯楽にも愛された。
「君たちはきっと驚くと思うよ。日本代表のエース久保竜彦という存在に」
2006年ワールドカップを翌年に迎える2005年のクリスマス、ジーコ日本代表監督(当時)がブラジルメディアのインタビューに応えた時の言葉である。それほど、圧倒的な力を見せつけていたのだ。
2004年、当時はFIFAランキングトップ5の常連だったチェコとのアウェイゲーム。右サイドでボールを受けたドラゴン(久保の愛称)は一気に中へ切り込み、ペナルティーエリア内での深い切り返しでDFを置き去りに、強烈な左足を放った。世界的名手のGKベトル・ツェフが手も足も出ない。日本の誇る大砲がヨーロッパで炸裂した瞬間だった。
イングランド遠征における対アイスランド戦では、2人のDFに挟まれながらも抜群の個人技で真ん中を割り、落ち着いてシュート。さらに小野伸二のパスを受け、GKの位置を見極めてのループ。圧巻の2得点で日本代表を勝利に導いた。ここで大切なのは、彼のゴールの多くは「コンビネーションではない」ということだ。
クロスボールに対してGKが伸ばした手よりも上から叩くヘディングは、圧巻のバネがあればこそ。それほどのバネがあれば当然、縦に抜けるスビードも抜群であり、一気にドリブルで抜け出してGKとの駆け引きの中でゴールを決めるのは彼の日常。アバウトなアーリークロスに対してヘディングではなくボレーで叩き込むシーンは、代表、横浜FM、そして広島で何度も披露している。ズラタン・イブラヒモビッチを彷彿とさせるようなプレーの数々は、ジーコという歴史上の人物も魅了した。
久保に魅せられたのは、ジーコだけではない。
1995年、元オランダ代表のFWピーター・ハウストラは、当時ルーキーで公式戦出場もない久保竜彦に対し「日本において、彼が最も好きなプレーヤーだ」と指した。1996年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で広島に3−1と勝利した柏のニカノール監督は、通常のやりとりが終わったあと、我慢できないといった感じで、言葉を吐き出した。
「今日の試合に出場していなかった選手について、話をしたい。彼の名前は、久保竜彦。広島の選手です。ウチのホームゲームで彼は素晴らしいプレーを魅せた。今日はなぜか欠場したのですが(註・練習中の負傷による)、彼が広島にいれば我々はもっと苦しんだはずです。日本のサッカーファンは、彼という存在を持ったことを幸せに思うでしょう。彼は日本のサッカーにとって、宝石そのものです。財産です。これからも大切に育てていってほしいと思います」
まったくの無名選手に対し、記者会見にて敵将がこれほどの言葉を自ら贈るとは、前代未聞の出来事。ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)時代に名良橋晃や岩本輝雄など、無名選手を次々に発掘して育てた「育成の名手」の言葉には、重みがあった。
久保が広島でレギュラーをつかんだ1998年途中、広島に加入した元日本代表FWの山口敏弘は、見た瞬間から彼の中に内包されている巨大なものを認めた。ガンバ大阪時代はストライカーとしても名を馳せた男だったが、彼は広島で久保竜彦のためにパスを嬉々として出し続けるパサーへと変貌している。
「とにかく身体能力は抜群だし、ゴール前で何をやってくるか、想像もつかない。柳沢敦や高原直泰といった若いFWもいるけれど、間違いなく(久保)タツがナンバー1ですよ。パスを出すほうからすれば、あいつを見ているとイメージがどんどん膨らんでくる。コンビネーションなんて、練習でタツをしっかりと見ていれば自然とできるものなんだ。代表でも、もちろんやれる」
元韓国代表DFのホン・ミョンボは久保と何度も1対1で対峙した韓国史上に残る名リベロ。その彼が日本で最も怖い選手として挙げたのが、久保竜彦だ。また、かつてヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)で指揮をとり、桐蔭学園高校で山田卓也や米山篤志など多くの日本代表選手を育て上げた李国秀監督は、「Jリーグで監督をやっている人間なら、誰もが久保竜彦の恐ろしさが身に染みている。代表で使わないなんて、もったいない」と語った。
おそらく久保の凄みを理解したのは、マスメディアが最も遅かった。彼らがドラゴンを「日本を代表するFW」と認識するのは、2003年に広島から横浜FMに移籍し、16得点を決めて優勝に大きく貢献した時だろう。だが、残念ながらその時はもう、遅かった。久保の全盛期は明らかに広島時代。横浜FM移籍の初年度こそ大爆発したが、その後は膝や腰に慢性的な故障を抱え、1年間を通してまともな活躍はできなくなっていた。その最中でも、2004年にはチェコやハンガリー、アイスランドなど欧州勢を相手にゴールを決めていたのだから、万全な状態で彼がプレーできていれば、果たしてどういう状況になっていたか。
「成功を掴むか工場で働くか」まっさらな目で久保竜彦のプレーを見ていれば、その凄みは誰にでもわかる。広島時代、初めてスタジアムを訪れたというおばあちゃんが、久保が豪快にシュートを打ち、そして外したシーンを見て、「すごい、すごい」と大きな拍手を送っていた。彼女がサッカーを見て拍手をしたシーンは、その時だけ。誰にでもわかりやすい「凄み」を彼は持っていたのだが、「サッカーに詳しい」と言われていた識者ほど、久保竜彦のような「アウト・オブ・スタンダード」(エディ・トムソン元広島監督)を認めようとしなかった。彼らが注目したのは、アンダー年代から活躍していた柳沢敦であり、高原直泰であり、あるいはフィリップ・トルシエ監督が抜擢した運動量豊富な鈴木隆行だった。
本来であるならば、彼は2002年ワールドカップで主役になるべき人材であった。2004年から腰痛や膝の痛みが激化し、時に歩くこともままならないような状態になってしまう。2006年、あれほど期待をかけたジーコ監督が久保のワールドカップ招集を見送ったのも、致し方のない判断だった。
ジーコが久保にこだわった理由は、彼だけが単独で欧州や南米の守備陣を破壊しうる人材だったからだろう。中盤でのコンビネーションは研究されてしまうが、破壊的なFWはなかなか止められない。1982年、ジーコが主役となった「黄金のカルテッド」のブラジルにしても、ロッシというイタリア人ストライカー一人に、夢を破壊された。2002年ワールドカップでブラジルが戴冠できたのも、ロナウドという爆発的なFWの存在抜きにして語れない。世界を驚かせるためには、世界を震撼させるには、周りがお膳立てをしなくてもゴールできる強烈なストライカーが必要だ。そして日本には、そういう人材が決定的に足りない。多くのFWは、チームのために戦うし、頑張るし、周りを助けようと努力する。しかし久保は、周りが助けたくなる選手なのである。サポートすればするほど、結果を出してくれる。その違いは大きい。
2002年のワールドカップで日本代表を牽引したトルシエの限界は、久保竜彦のような破天荒な人材を最終的に採用しなかったことだと筆者は考えている。
久保はエリートではない。アンダー年代の代表どころか、地域トレセンの代表にも入ったことはない。筑陽学園高校時代もスカウトの注目を集めることなく、吉浦茂和監督が旧知の中村重和・広島スカウト(当時)に「面白い素材がいるから見てやってくれ」と問い合わせたことによってプロ入りの道が拓けた。しかもその時、本命と目されていたのは同学年の他の選手であり、久保のテストは付録のようなものだった。
そういう環境で育ってきた若者だったから、プロに必要な自己管理だったり、サッカーに集中することの大切さだったり、技術や戦術、肉体以外のところでの重要性を教え込まれていなかった。練習が終わると肉体のケアをすることなく、筋トレをすることもなく帰宅。繁華街に直行し、浴びるように酒を飲んだ。行きつけの寿司屋で泥酔し、そのまま泊まってしまうこともしばしば。時に、その寿司屋の主人に「タツ、いい加減にしろっ」と一喝されるほど、生活は乱れた。
トレーニングでも、少しでも自分の思い通りにいかないとイライラする。やる気もなくなり、いい加減なプレーしかできなくなる。それでも突出した能力であるがゆえに、プレーレベルは抜きん出ていた。だが、見るべき人はいつも見ている。ピッチで少しでもゆるむと、後ろから森保一の「タツ、起きとるんか」という厳しい声が飛ぶ。上村健一からも「シャキッとしろ」と叱責される。
彼をレギュラーに抜擢したエディ・トムソン監督からは「君は素晴らしい才能をもっている。日本代表にもなれる。だけど、成功を掴むためには努力が必要だ。それがなかったら、君の未来はサッカーではなく、どこかの工場で働くしかないだろう。どちらを選ぶか、そこは君自身だ」とつきつけられている。
サッカーエリートたちにすれば、考えられない生活だろう。もし、久保が少年の頃から自己管理の大切さを徹底され、肉体のケアを怠りなく続け、浴びるように酒を飲み続ける日々をやめていれば、もっと長くサッカーを続けられていたに違いない。サッカーの奥深さを感じて本当の意味でうまくなるのは 20代後半から30代にかけてというが、その時期には彼の肉体はボロボロとなっていた。本当に惜しい。
そういう破天荒さがあればこそ、久保竜彦の野生が生きたという説もあるが、それは違う。1950年代後半、久保のような「豪快」と言われた私生活を送っていたプロ野球・西鉄ライオンズの野武士たちの全盛期は短かった。一方で独自の肉体保全術に長けていた金田正一はプロ生活20年をまっとうし、不滅の400勝を達成している。破天荒なプレーは破天荒な生活から生まれるわけではない。
それはもちろん、久保自身の責任ではある。しかし、少年の頃から意識を変えられていたら、状況は違っていたと確信している。それは彼の体がボロボロになってしまったあと、多くの人々との出会いの中で自身の肉体を補強・改造することに成功し、かつてほどの輝きを発揮することはできなくても、まがりなりにもサッカーができる状態にまで戻してきた実績を見ているからだ。
2008年、対湘南戦で見せた左足アウトサイドのシュートは、ボールに生命が宿っているかのごとくに曲がり、龍がボールを加えて飛んでいるかのようにゴールネットに突き刺さった。アシストした森﨑浩司が「どうやって、打ったんですか」と興奮して聴きまくるほど、信じがたいシュート。確率は低くなっていたとはいえ、見ている誰もをエキサイトさせるシーンを見せられるほどには、戻れていた。だからこそ、彼をもっと早く、発見できていればという悔いは残る。
ただ、トルシエ監督の時、久保の肉体はまだまだ、フレッシュな香りに満ちていた。チャンスを与えれば必ず結果を出したと今も確信している。「戦術理解能力が低い」と言われたこともあったが、そういう時にはいつも、かつてカメルーンをワールドカップベスト8に導いた名将ヴァレリー・ニポムニシのことを思い出す。彼は広島を率いた時、15得点8アシストという広島でのキャリアハイを引き出したが、その時に彼はこう言った。
「久保というストライカーは身体的能力に抜きん出ているだけでなく、非常に知的な選手である」
トルシエ監督の指導がマッチしていれば、必ず戦術にもフィットしていたはずだと信じる。
しかし、久保は今も「トルシエ監督とは合わなかった」と告白している。
彼は、おそらくは日本サッカー界における最後のサムライだ。江戸時代における武士は主君の命には絶対で逆らうことは許されなかったが、戦国時代のサムライは気に入らない主君に見切りをつけ、自分の腕一つで自分が「これぞ」と見込んだ主君に忠誠を誓って働くことがむしろ主流であった。代表で活躍し、ワールドカップに出たいという気持ちはあっても、自分の意思を曲げてまで指揮官に頭を垂れることはしたくない。久保がいろいろな理由をつけて代表にいきたがらなかったのは、トルシエ監督に対する葛藤があったからだ。
もちろん、指揮官に全て責任を押し付けるつもりはない。トルシエは史上初のワールドカップ決勝トーナメント進出という快挙を成し遂げた監督だ。日本サッカーにとっての恩人でもある。しかし、2002年ワールドカップでの4試合を振り返ると、FWのゴールは鈴木隆行の1点しかない。他は稲本潤一の2得点と中田英寿、森島寛晃とみんなMFばかりだ。
トルシエにとって最初の試合であるエジプト戦に途中出場ではあるが起用していることから見ても、間違いなく久保に期待はしていた。しかし、代表の戦術にフィットできない久保の姿を見て、国際試合に対応できるのか、疑問視したのではないか。言葉によるコミュニケーションが苦手な久保をどう使えばいいか、答えが最後まで見つからなかったのだろう。
筆者は思う。「久保を見ろ」、ただそれだけの指示をMF陣に言ってくれていれば。サブ組に甘んじていた小笠原満男と久保の相性はよく、彼がトップ下に入れば久保は躍動し、決定的なシーンを何度もつくっていた。小笠原が自然と、久保を見ていたからだ。
もちろん、代表に呼ばれた時に結果が出せなかった久保に責任はある。しかし、「久保には監督をはじめみんなが期待しているが、彼を中心にチームをつくるというところまではいっていない」という当時の代表スタッフの言葉は、久保の少年時代にトレセンスタッフが振り向きもしなかった現実と被る。いい・悪いではない。ただ、久保という未曾有の才能を生かす術はなかったのか、ということだ。
誰しも欠点はある。その欠点をあげつらうよりも、短所を長所が上回れば、それでいいのではないか。トルシエは2トップを採用していたわけで、組織をつくれる柳沢や西澤明訓、あるいは運動量のある鈴木隆行と久保の組み合わせは、決して無理はない。もちろん、万能型の高原(彼はエコノミークラス症候群のため、2002年のピッチには立てなかった)とのコンビも面白かったはず。久保の欠点をパートナーが補充し、久保の長所がパートナーを生かす。そういう関係性をつくる時間はあった。
久保は1998年から4年連続で二桁得点を記録していて、得点という意味で彼ほどの安定性を見せていた日本人選手はいない。広島というクラブが上位を争っていない状況でも点をとり続けた実績を考えれば、むしろ彼が第一の選択肢になっていてもおかしくない。
破天荒で、何をするかわからなくて、全くダメな試合もなくはないが、そんな時でも突然、驚天動地のプレーを見せつけて得点をとり、サポーターを狂喜させる。そのプレーに対する驚きは、インターネットで彼のプレーを改めて見直す2019年でも変わらない。久保建英のような国際感覚には乏しいし、彼の性格を考えても海外リーグで活躍できたとは思えない。しかし、Jリーグで育ち活躍しているFWが、ジーコが言うように世界を驚かせる。そんな夢を見させてくれる選手だったことは間違いない。
今、久保竜彦は山口県牛島で塩をつくり、野菜をつくり、魚を釣っている。それだけでなく、全国各地のサッカー少年たちを指導するコーチとしての仕事もある。2人の娘を育て、長女は中国語堪能で名門の外国語大学で学んでいる。中学生の次女はサッカーではなくテニスに打ち込み、同世代の中では日本一の実力を誇り、欧州の名門クラブからスカウトの声がかかったこともある。彼らしさ満載の引退後の生活は、また次の機会にご紹介したい。
<了>
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