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ガンバ昌子源と宇佐美貴史「15年間の絆」 かつてJrユース同期でライバルFWの「運命」の邂逅

REAL SPORTS / 2020年2月9日 19時13分

2月3日、4年ぶりのタイトルを目指すガンバ大阪が昨年末にフランス1部トゥールーズへ移籍した昌子源の獲得を発表した。この日本代表DFの大型移籍に日本中のサッカーファンが驚いた。

だがこの電撃移籍の「運命の物語」は、15年前に始まっていたのかもしれない。
かつてFWとしてガンバ大阪のジュニアユースでプレーしていた昌子源と、類まれなる天才・宇佐美貴史。2人が出会った2005年春に時計を巻き戻す――。

(文=藤江直人)

「逆立ちしても勝てないと思った」 昌子が15年前に見た宇佐美

京都にとんでもないヤツがおる。生まれ育った神戸のクラブチーム、フレスカ神戸の小学生チームでエースストライカーとして活躍していた昌子源は、幾度となくこんな噂を耳にしていた。

ホンマにおるのかな。抱いては消えた疑問は、中学生になった直後の2005年春に衝撃へと変わる。関西エリアの優秀な子どもたちが、セレクションを経て集ってくるガンバ大阪のジュニアユース。長岡京サッカースポーツ少年団からやってきた宇佐美貴史は異次元のレベルにいた。

「これを言うとあいつ、調子に乗るのであまり言いたくないんですけど、逆立ちしても勝てないと思いましたよね。あいつのドリブルのセンスであるとか、ちょっと生意気なところとか。当時は本当にやばい、と思いましたよね」

182cmへ伸びたいま現在ほど身長が高くなく、周囲から「チビ」というニックネームをつけられた中学生時代でおそらくは最初に抱いた思いを、ガンバ大阪でチームメイトになった昌子は苦笑いとともに振り返る。特に生意気だった一面で、いまでも鮮明に覚えている光景がある。

「あいつは中学1年のときからユースの練習に交じったりしていたんですけど、いきなりタメ語で話しかけて、ユースの先輩選手に追いかけられていましたからね。あいつは忘れていると思いますけど」

セピア色に染まりつつあるジュニアユース時代の軌跡は、中学3年になって途切れた。怪童という異名を欲しいままにしていた宇佐美の前に、埋め難い実力差を何度も見せつけられていた昌子は、ひざのけがもあって練習を休みがちになり、ついにはガンバを退団してしまった。

「正直に言いますと、悔しい思いしかしていない。でも、ガンバへの思いを抱き続けた、という意味ではそれがよかったのかな、と。(宇佐美への)負けをあっさりと認めたという点で、いうたら挫折ですよね。反骨心じゃないですけど、あのときのオレとは違うぞ、というのを見せたい。ジュニアユースのときにサッカーで名前を残せたかといえばそうじゃないので、もう一度、今度はプロとしてガンバのユニフォームを着て、しっかりと自分の名前を残していきたい」

青黒を基調としたガンバのユニフォームへ、志半ばで退団した2007年以来、13年ぶりに袖を通した昌子がこんな言葉を残したのは、本拠地のパナソニックスタジアム吹田で2月5日に行われた移籍会見の席だった。ガンバを離れていた間に、昌子は波乱万丈に富んだサッカー人生を送ってきた。

米子北で訪れた、センターバックへのコンバート

「米子北という高校があるんだけど、行ってみるか」

悶々とした時間を過ごしていた昌子にあるとき、サッカーの指導者を務める父親の力さんがこんな声をかけた。指導者のつながりで親交のあった、米子北高の中村真吾コーチ(現・監督)から昌子の進路を心配されたこともあり、サッカー人生をリセットする意味も込めて、父は県外の高校進学を息子に勧めた。

サッカーなんて絶対にしないぞ。子ども心に意地を張っていた昌子だったが、母親と共に見学に訪れた先でターニングポイントが訪れる。中村コーチから「ボールを蹴ってみないか」と誘われたときに、両親が荷物のなかにそっとしのばせていたスパイクと練習着が役に立った。

心のなかに巣食っていたわだかまりが消えるとともに、大好きなサッカーへの情熱が再び頭をもたげてくる。越境入学した鳥取の地で再開させたサッカー人生はしかし、2年生に進級する直前の2009年春に2度目のターニングポイントを迎える。

国体鳥取県選抜の一員として、ガイナーレ鳥取(当時JFL)と練習試合に臨んだ後半。センターバックにけが人が出たことで、県選抜の監督を務めていた中村コーチの隣に座って戦況を見つめていた昌子は、それまでのフォワードから急きょ初体験のポジションを担ってピッチに立った。

当時のガイナーレには、コン・ハメドというコートジボワール人のフォワードが在籍していた。勝手がわらないからこそ、無我夢中になって戦ったのだろう。身長168cm、体重75kgと小柄ながら圧倒的なパワーとスピードを併せ持つ5歳年上のハメドと、昌子は壮絶な1対1を繰り広げる。

程なくして、昌子はセンターバックへの転向を中村コーチから命じられる。文字通りの青天の霹靂。米子北高の城市徳之監督(現・総監督)にかけあっても状況は変わらない。当時の心境を、昌子は「本当に嫌だった。フォワードをやらせてほしいとずっと思っていた」と振り返ったこともある。

高校2年生にしてユースからトップチームへの昇格を果たした宇佐美が、周囲から「ガンバ大阪ユースの最高傑作」としてまばゆいスポットライトを浴びていた時期。渋々と受け入れたコンバートがプロへの扉を開いてくれるとは、当時の昌子は夢にも思わなかったはずだ。

日本代表の最終ラインから見た、デジャブ

果たして、3年生になるとU-19日本代表候補にも名前を連ねるなど、センターバックとして台頭してきた昌子は卒業後の2011年に鹿島アントラーズへ加入する。しかし、同じプロの土俵に立った直後の同年7月に、宇佐美はブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンへと旅立っている。

2人が初めてピッチで邂逅したのは2014年10月5日、県立カシマサッカースタジアムで行われたJ1リーグ第27節だった。バイエルンからホッフェンハイムを経て、ガンバがJ2を戦っていた前年夏に復帰していた宇佐美は、前線のオールラウンダーとしてまばゆい輝きを放っていた。

「サイズだけでなくプレースタイルも当時とはまるで違う。源があんなふうになっていくなんて、ジュニアユースのときは誰も想像していなかったと思うんですよね。自分のポジションを探しながら、日本代表にも入っていけるようになったのは、本当にすごいことだと思っています」

いま現在も昌子に対して抱く思いを明かした宇佐美の活躍もあって、3-2の逆転勝利をもぎ取ったガンバは国内3大タイトル独占へ向けて一気に加速。対照的に左太ももを負傷した昌子は、ハビエル・アギーレ監督の下で初めて招集された日本代表を辞退する無念さも味わわされている。

翌2015年3月31日には、2人は共に日の丸を背負うチームメイトとしてウズベキスタン代表と対峙した。アントラーズで絶対的な存在となり、歴代のディフェンスリーダーが背負う「3番」を拝命していた昌子は、ハリルジャパン(ヴァヒド・ハリルホジッチ体制)の2戦目で念願の代表デビューを先発で果たしていた。

迎えた83分に、昌子は最終ラインから戦況を見つめながらデジャブを覚えている。途中出場で味の素スタジアムに立った宇佐美がこぼれ球を拾い、ドリブルの体勢に入った瞬間だった。

「ドリブルを見ただけで、ゴールが決まると思いました。欲しいときにゴールを取ってくれる。相変わらず天才やと思いましたよね。味方になると、こうも頼もしいんだなと」

ゴール前の密集地帯を強引かつ鮮やかにすり抜け、渾身の思いを込めて振り抜いた右足から放たれたファインゴールがネットを揺らす。代表2戦目にして宇佐美が初ゴールを決めた瞬間の至福の喜びを、昌子もピッチの上で共有する。2人の間で紡がれてきた、運命の糸を感じずにはいられない。

宇佐美なら絶対に決めてくれる。昌子なら絶対に守ってくれる

宇佐美なら絶対に決めてくれる。昌子なら絶対に守ってくれる。攻守の柱を担うリーダーがお互いに抱き合う、あうんの信頼関係は今シーズンのガンバで図らずも再現されることになった。

2度目のヨーロッパ挑戦でも壁を破れず、昨夏に「ダメだった、という気持ちがすがすがしいくらい自分のなかにある」という自虐的な名言とともにガンバへ復帰していた宇佐美は、10月以降に出場した6試合で6ゴールをマーク。ストライカーとしてのトップフォームを取り戻して今シーズンを迎えた。

2015シーズンの天皇杯を最後に遠ざかっている、タイトル奪還を掲げて始動するも、昨シーズンの後半戦から継続する3バックの一角がなかなか定まらなかった。だからこそ電撃的に決まった、フランス1部リーグのトゥールーズに所属していた昌子の加入がもたらす効果は大きい。

2018FIFAワールドカップで最終ラインを担い、代えの利かない活躍ぶりを演じた昌子は愛してやまないアントラーズにACL制覇という置き土産を残し、2018年の年末にトゥールーズへ移籍していた。1年あまりで日本へ復帰した最大の理由は、診断以上に回復が長引いている右足首の捻挫となる。

「トゥールーズのことを悪く言うつもりはありませんけど、メディカルの方となかなかうまくいかず、リハビリなどをしてもちょっと長く時間がかかってしまった。サッカー選手である以上は一日でも早くけがを治して、サッカーをしたいという思いがあって日本へ帰る決断を下しました」

途中加入した2018-19シーズンで、昌子はカップ戦を含めて20試合に出場している。さらなる飛躍を期待された今シーズンは開幕前に左太ももを負傷して出遅れ、リーグ戦で初出場を果たした9月25日のアンジェ戦で右足首を捻挫。復帰間近だった11月にも同じ箇所を痛めてしまった。

トゥールーズ側からは強く慰留された。しかし、今シーズンの出場がわずか1試合、それも前半45分間だけにとどまり、視界も良好にならなかった昌子の決意が覆ることはなかった。

「けがをしていた状況でそう言われたことは本当にうれしかったですし、本当にかなり迷いましたけど、そういったことを右足首のけがは超えていた。いろいろな意見がありますけど、(復帰が)早いのかどうかを決めるのは僕ですし、(移籍が)成功だったのか失敗だったのかを決めるのも僕なので」

「おっ」だけで通じ合える、2人の絆

移籍会見では古巣アントラーズへ「恩義を感じていた」と言及した昌子は、さらに「タイミングとかもいろいろあって」と続けている。おそらくは復帰を模索した時期もあったはずだが、アントラーズは新たなセンターバックとしてリオ五輪代表候補の奈良竜樹を川崎フロンターレから獲得していた。

今シーズンを戦う編成を終えていた状況が、昌子をして「タイミング――」と言わしめたのだろう。奈良の争奪戦でアントラーズに敗れていたもう一つの古巣、ガンバと図らずも相思相愛となって交渉がトントン拍子で進み、2月3日に正式発表された経緯からもまた運命を感じさせる。

「僕のなかではガンバも大切なクラブですし、この恩を大事にしたいと思って受けさせていただきました。8年もいれば鹿島の血が多くなりますけど、ガンバにも少なからずお世話になっているので、自分のなかでガンバの血も蘇らせたい。鹿島、鹿島と言ったらガンバにも、逆に鹿島にも失礼なので。ガンバ大阪の昌子源になった以上は、ガンバのために身体を投げ出すだけだと思っています」

当面は全幅の信頼を寄せるガンバのメディカルスタッフと相談を重ねながら、すべての原因となってきた右足首を完治させることに専念する。思い描くのは同じ1992年生まれで、今年中に28歳になる宇佐美と攻守の柱を担い、ガンバにタイトルをもたらすシーンに他ならない。

「逆立ちしても勝てないと思った選手と、ポジションは違えどまた同じチームでプレーできることを非常にうれしく思う。プレーはもちろんのこと、優勝する雰囲気みたいなものを自分からも発信していきたい。タイトル獲得の手助けになるよりも、自分が引っ張っていく覚悟で来たので。年齢的にもそうですけど、そうすることは1年目だろうが1日目だろうが、まったく関係のないことなので」

3年目の指揮を執る宮本恒靖監督からは「待っていたぞ」と歓迎され、日本代表の盟友でもあった守護神・東口順昭からは「おまえがここにおるの、まだ違和感あるわ」と突っ込みを入れられた。そして宇佐美とは「おっ」と驚き合っただけで、会見の時点では特別な会話を交わしていない。

偶然にも空いていた、自身のトレードマークでもある「3番」を背負っての新たなチャレンジ。途切れてしまった時間はあったものの、2005年の春から特別な時間を共有してきた2人は「おっ」だけで十分に通じ合えるのだろう。昌子が思わず浮かべた苦笑いが強く、太い絆を物語っていた。

<了>









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