新谷仁美が“日本新記録V”後に語った秘話 圧巻優勝の裏に隠された大切な「約束」
REAL SPORTS / 2020年12月10日 16時30分
大会後、新谷仁美と積水化学女子陸上競技部のSNSは、「感動しました!」「衝撃のレースでした」「勇気をもらえた」など称賛の声で埋め尽くされた。12月4日に行われた日本陸上競技選手権大会・長距離種目・女子10000m。18年ぶりとなる日本新記録で優勝し、東京五輪内定を手にした新谷。偉大な記録ずくめとなった彼女の2020年を締めくくるにふさわしいこの結果は、「私はメンタルが弱いので」と公言する彼女を支える“心強い存在”がいてこそ手にしたものだった。
(文=守本和宏、写真=ナノ・アソシエーション)
なぜ新谷仁美のレースは胸を打つのかなぜ新谷仁美のレースは、ここまで胸を打つのか。それは彼女が、成長のストーリーを発信し続け、周囲を進化させるアスリートだからだと思う。
ふと、スタンドに目を移すと、多くの人が涙を拭っていた。
12月4日、大阪・ヤンマースタジアム長居。日本選手権・女子10000mに出場した新谷仁美は、驚異的なペースで1位を独走。国内トップクラスの選手を次々と周回遅れにしていく。その姿は、観衆の心を揺さぶり、魅了した。コロナがなければ大歓声が響いただろうか、代わりにどこか温かい拍手が会場を包み込む。最後の1周を知らせる鐘。ラスト400mで3位までをも周回遅れにした新谷は、18年ぶりに日本記録を28秒も縮める30分20秒44で、東京五輪内定を勝ち取った。
「お金のために走る」「私にとって五輪はすべてじゃない。アスリートとして結果を出すことがすべてで、参加することがすべてじゃない」と常々語ってきた新谷仁美。2014年に一度引退し、4年間OLとして働いた後、2018年に復帰してわずか2年。32歳で日本記録を更新した彼女は「陸上は好きではないが、プロとして結果を残すべき仕事」と主張する。その彼女が、五輪代表の座をつかみ発する言葉とは何か、興味があった。レース直後のインタビュー。彼女が口にしたのは観衆への感謝と、そして同じ積水化学に所属する佐藤早也伽へのお礼だった。
「ここに駆けつけてくださった方々、また画面越しからのたくさんの応援が最後まで途切れず、久しぶりに満足できるレースができました。本当に皆さまのおかげです」「同じ積水化学の佐藤早也伽ちゃんが、今日は私のために“最初の2000mリズムを作ります”と快く引き受けてくれたので、彼女のおかげです。早也伽ちゃんの引っ張りを無駄にしたくない想いで、良いリズムで走ることができました。一番に感謝を言いたいです」
1月のハーフマラソン日本記録更新から始まった新谷仁美の2020年。コロナ禍を挟み、9月の5000mで“15分の壁”を破る日本歴代2位の記録をマーク、プリンセス駅伝3区の記録を1分15秒縮め、クイーンズ駅伝エース区間で区間記録を1分以上も更新。そして、12月の日本選手権10000mで日本記録と、まさに記録づくめの一年を締めくくった。日本女子長距離界の歴史に残る活躍と言える。
この10000m日本記録更新は、新谷自身の偉業に他ならない。しかし、その偉業は佐藤早也伽との約束を持って、果たされたものだったのだ。
スタートラインの新谷に見た光景日本選手権長距離10000m、東京五輪参加標準記録をクリアしていた新谷仁美は、1位になれば東京五輪内定という、最大のプレッシャーに直面していた。試合直前、ヤンマースタジアム長居のマラソンゲート下のアップエリアで、新谷仁美は泣きそうな顔になりながら何度も胸に拳を打ちつけ、自らを鼓舞する。
「私はメンタルが弱いので」と自己評価する本人は、何度も横田コーチに話しかけていた。レース直前に「帰りたい」「やめたい」「風邪ひく」など不安な気持ちを吐き出すのは、もはや恒例行事だ。ただ、いつもはTwitterでアップされるゴネる姿も、この日はテキストのみに絞られるほど、極度の緊張に包まれていた。
新谷を指導してきた元800mオリンピック代表の横田真人コーチは、この時「100回ぐらい“大丈夫だよ”と言った」という。アップの調子を見て「今日はやべぇな(ヤバいぐらい調子がいい)」と思っていたが、それはあえて本人に言わなかった。
スタートラインに立ち、「過呼吸にならないように泣くのを我慢していた」「恐怖心とプレッシャーと、期待に応えなければと追い込んだ状態」で、今にも泣きだしそうな新谷。しかし、スタートするとその顔は、恐ろしいほど集中力に満ちた表情に変わる。
そしてスタート直後、新谷が先頭に立つであろうと思われたレースは、大方の予想を裏切る展開となる。トップに立ったのは、佐藤早也伽。新谷仁美と同じ積水化学に所属する26歳だったのだ。
事前に交わされていた佐藤早也伽との約束ここ数年で着実に力をつけ、新谷加入前の積水化学でエースとしての風格を漂わせつつあった佐藤。彼女が積極的に前に出たのは理由がある。新谷仁美との間に、「2000mまでは引く(先頭に立ちペースメーカーとしてレースの流れを作る)」との約束があったからだ。
レース後、横田コーチは明かす。「新谷から最初2000mだけでもリズムを作ってもらえれば、気持ちだけでも軽くなると要望があった。選手がパフォーマンスを出せる環境を整えるのもコーチの仕事。まずは積水化学の野口(英盛)監督に僕から相談し、クイーンズ駅伝終了後に野口監督から佐藤さんに話していただきました。佐藤さんは嫌がりもせず、『喜んで引き受けます』と快諾してくれて、その後に新谷から直接感謝の言葉をかけさせてもらいました」。
その約束通り、先頭に立って集団を引っ張る佐藤。新谷が「後ろから見ていて、何度も時計に目をやり時間を確認して、完璧に役割をこなしてくれました」と話すように、想定よりも少し速いペースで2000mを走り切る。2000m通過タイムは、6分08秒。佐藤の10000m自己ベストは31分59秒64、単純計算なら2000m通過は6分23秒前後。彼女のベストタイムより、数段早いペースで走っていたことがわかる。
そして、2000mを通過すると2位の新谷は、先頭へ出てハイペースを崩さず走り続ける。代わりに佐藤は、3位に後退。自分のレース運びにスイッチを切り替えた。以降、新谷はペースを落とさず、3000m付近でマラソン日本代表内定の一山麻緒(ワコール)を引き離す。驚異的なスピードは最後まで衰えず、前日に公言した「日本記録更新」を鮮やかに達成した。
ゴール後、新谷は佐藤と堅く抱き合い、涙をお互いに流した。振り返れば3カ月前の全日本実業団対抗陸上競技選手権大会で5000m終了後、2人で互いの健闘を讃える場面があった。その際は、ちょっと遠慮がちな握手に留まった。しかし、今回は熱く“ガバッ”と抱き合う2人。新谷と、その周りの絆が深まったことを印象づけた瞬間だった。
決して、捨てゴマになったわけではない佐藤
一つ、説明しておく必要があるだろう。この日佐藤が見せた“ペースメーカーとして集団を引く”、その意味とリスクだ。
レース中、先頭を走り“集団を引く”のは、全体のリズムを作ること。後ろにつく選手は、風の抵抗を受けず、順位争いの牽制も避けられる。マラソンなどでは度々見られるが、国内の日本選手権で見られることはほぼない(日本選手権でもオープン参加の外国人選手がチームメートのペースメーカーを務めることもあるため、日本人同士の勝負においての意)。それは、日本選手権が真剣勝負の場だからだ。
日本選手権は、日本ナンバーワンを決めるレース。参加標準記録を突破した国内トップクラスが集う場であり、多くの選手はこのレースで1位を取るため、1年間のトレーニングを行う。その場で新谷のような有力選手のペースメーカーを務めるのは、自分のリズムと違うペースで走るということ。序盤に実力以上のハイペースで飛ばせば、後半に失速し、大きく順位を落とす可能性も高い。
つまり、新谷のために佐藤が“引く”のは、少し大げさに表現すれば、決して長くはない陸上選手としての一年の努力、燃やした命を、新谷が受け取るということだ。決して簡単に頼めるものではないし、彼女への信頼がなければ新谷も頼まなかっただろう。ましてや、佐藤自身が「喜んでやらせていただきます」と快諾した、その選択自体が偉大な献身である。ここまで新谷と横田コーチ、そして積水化学のチームが育んできた信頼によって、結ばれた約束にほかならない。
そして何より、佐藤本人は決して捨てゴマにならなかった。佐藤は最終的に3位でフィニッシュ。自身の持つベスト記録を約30秒縮める、31分30秒19をマークした。リスクを乗り越え、大きく自分の力を伸ばした佐藤。「あのペースで自己記録更新ですからね、彼女まだまだ伸びますよ」と横田コーチが立ち話で話したように、彼女もまた東京五輪代表候補の一人に浮上した。
結果的に、佐藤が新谷を、新谷が佐藤を、引き上げたのである。
新谷仁美が手にした本当の力勘違いしてはいけない。おそらく、新谷仁美は2000mまでの佐藤のリードがなかったとしても、日本記録を更新していただろう。新谷が手にした本当の力。それは、佐藤の“気持ち”だった。新谷はレース後に語っている。
「彼女がイーブンペース(同じペース)で引っ張ってくれたおかげで、後半も大きくペースを落とすことなく、日本記録を出すことができました。どんなタイムでも良かったんです。彼女の引っ張るという気持ち・心意気が、私にとって救いになりました」
一度目の現役引退当初について、「極端な話、周り全部が敵と思っていた」「社会人になってから陸上が楽しくなくなり、人間の嫌なところ・ネガティブなところしか見ない人間になった」「自分が心を開かなかったから、信頼できる人もおらず、自分の味方と思える人がいなかった」と新谷は話している。それから、たった数年。新谷の周囲を取り巻く環境は、横田コーチなどとの出会いを通して、劇的に変わったのだ。
レース後の一連のインタビューで、彼女が最も温かい笑顔を浮かべた瞬間があった。「2大会ぶりのオリンピックで、以前の自分とここは違うと言えるのはどこか」と聞かれた瞬間である。
彼女はこう答えた。
「強い味方ができたことが、一番の要因かなと思います」
「私は1人でやっても平気だと思っていたし、それが当たり前だと思っていました。でも、自分が背負っているものを分散することで、これだけ気持ち的に軽く走れるんだなと、すごく感じています」
「私は本当にメンタルが弱い人間なので、それが焦りとなってレースに出ると、自分の走りができなくなる。でも今は、過去にはいなかった、それをカバーしてくれる信用・信頼できる人がいます。横田コーチだけでなく、今私にサポートしてくださっている方すべてが、信用・信頼している人たち。それがあるのとないのとでは本当に大違いだと、自分でも感じました」
孤高の存在だった新谷は人の優しさに触れ、より強くなった。32歳になった今、彼女もまた成長の途上にあるのだ。
今なお成長を続ける新谷。未来への約束佐藤との約束、今までの人生では得られなかった仲間との絆を結び、さらに新谷は加速した。より力強く。
次は彼女が約束を果たす番だ。
と言っても、ここまでの快記録連発で、十分に約束を果たしたと言って、文句を言う人間はいないだろう。新谷と積水化学のSNSは、「感動した」「最高のレースでした」など称賛の言葉で、すでに埋め尽くされている。
しかし、プロフェッショナリズムの塊である新谷が、ここで満足するわけがない。昨年ドーハで行われた世界陸上競技選手権大会で11位になろうが「ただただ日本の恥」と世界を見据えてきた彼女にとって、クライアントの期待に最高の結果で応えること、それが自身の価値の証明だ。新谷には日本記録さえ、ただのスタートでしかない。
「世界大会で強い選手たちは、タイムを狙うより“勝負”をしてくる。波のあるレースに対応するには、まず私たち日本選手が、世界にタイムを近づけなければならない。それはまず一段階クリアできたと思います。ただ、世界は29分台に入っている。私の30分20秒の記録も、300m先に優勝者がいます。その現実を見たら、まだまだ」
「日本選手も世界の進化に合わせて成長しなければ、意味がない。今日、新たなスタートに立てて良かったと思います」。そう語る新谷の底知れない可能性に、さらなる期待をかけずにはいられない。
そして、彼女は未来に向けて約束をしてくれた。
「来年、東京五輪が開催されるかはまだわからない状況ですが、もし無事に開催されたら、最高のパフォーマンスを皆さまにお見せできるように、しっかり準備をしていきたい」
「東京五輪が終わっても私たちの人生はまだまだ続きます。だから、安全性は一生確保しなければならない。その意味でも、私たちアスリートだけが五輪を開催したいと言っても、それはこのご時世において、ただのワガママ。やりたくないわけではなく、人の命がかかっている状態での開催は、やはり考えようなので、皆さんと一緒に納得できる大会にしたい。だからこそ、国民の声をしっかり聞いて、私たちアスリートは発信しなければならないし、結果以上のものを出さなければならないと思います」
今なお成長を続ける新谷仁美。その未来への約束は、どう結実するのか。これからどんな仲間を見つけ、進化させるのか。彼女が生み出すストーリーとアスリートの価値に、期待を通り越した“希望”を見ているのは、私だけではないはずだ。
<了>
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