ブラジル柔道に男女の壁「全然ない」。男子代表の日本人女性監督が実践する「個人に寄り添う」指導
REAL SPORTS / 2021年2月18日 19時39分
昨今「男女の壁」が大きな問題となっている日本のスポーツ界。一方世界に目を移すと、「性別の壁」を乗り越えたことで注目を集めた日本人がいる。外国人として初めてブラジルの男子柔道ナショナルチームの監督を務める藤井裕子だ。語学留学をしていたイギリスで柔道の指導を始めたことが転機となり、語学の難しさに苦しみながらも、以降、天職となる指導者人生を突き進んできた。イギリス、そして現在のブラジルで男女のナショナルチームを指導してきた藤井は、各国の代表選手たちとどのように向き合ってきたのだろうか。「他の指導者とはちょっと違っていた」と語るその指導方法と指導者としての矜持をひも解く。
(インタビュー・構成=布施鋼治)
心掛けたのは選手に「興味を持ってもらう」指導法「人に教えることに興味はなかった」
そんな言葉とは裏腹に、藤井裕子の柔道人生は指導者になってから大きく花開いた。
生まれ育った愛知県で柔道を始めたのは5歳からと早かった。とはいえ、全国規模の大会では全国中学校柔道大会56kg級の準優勝、あるいは全国高等学校柔道選手権大会第3位という成績が目立つ程度だ。広島大学大学院を修了すると、藤井(当時は旧姓・中野)は現役生活に見切りをつけ、以前からの夢だった語学留学を果たすためにイギリスへ。そこで思わぬ転機が待ち受けていた。
英語の勉強の傍ら、留学先のバースで柔道を教え始めた。その後、イギリスのナショナルチームからアシスタントコーチの声がかかった。何か特別な指導をしていたわけではない。藤井は「基本の“き”を教えていた」と振り返る。「本当に基本的な体の使い方などを指導していました」。
ただ、生徒たちにスムーズに受け入れてもらえるように自分なりにアレンジすることも忘れなかった。
「その指導の仕方もいちから順序立てて、準備運動から最終系につなげるというやり方は他の指導者とはちょっと違っていたようです。基本の“き”を教えるんだけど、ただ普通に教えただけではつまらない」
具体的にいうと?
「この動きはこういう動きにつながるということに興味を持ってもらうようにすればいい、かなと。だから、ただ単に基本を繰り返してやるという練習ではなかった」
振り返ってみれば、小さい頃からいい指導者に出会ってきたと実感している。
「手取り足取り教えてくれる先生だったり、家族のように接してくれる先生だったり、心に引っかかる言葉を常に言ってくれる先生だったり――。私を見守ってくれる人に巡り合ってきたと思う」
語学を早く身につけるためには「切羽詰まった環境」が必要もちろん、指導方法を参考にした在ヨーロッパの日本人指導者もいた。天理大出身で現在はスイス在住の片西裕司もその一人だ。いろいろな指導者と出会う中で、藤井は「指導は面白く深いもの」だと思えるようになっていく。その一方で、イギリス代表のアシスタントコーチを引き受けた直後には、自分のスキルと事の重大さのギャップに悩んだことを打ち明ける。
「ロンドンまで出たのはいいけど、ちゃんとした指導経験もなければ、英語もきちんとしゃべれるわけでもない。何にもできないのに、ヤバいところに来てしまったなと思いました」
しかし、そのまま尻込みしていたら、コーチとして務まるわけがない。藤井は、そこで勇気を持って一歩前に出た。
「弱い自分と出会うことで、心臓に毛が生えましたね。心配が怖くなくなった」
海外に出た日本人が成功するか否か。それは藤井のように、弱い自分と真摯に向き合えるかどうかにかかっている。
「日本人は海外で失敗することがカッコ悪いと思っている。私の場合、途中でそれがなくなったんですよね」
ブラジルでは、いまだによく間違えるというが、気にすることはない。
「あとで『カッコ悪いなぁ』と思う一方で、『そんなもんだよな』とも思っている」
いまでこそブラジルで公用語であるポルトガル語を自在に操れるようになったが、4年半に及んだイギリスでの生活では「最初の3年は全然英語をしゃべれている感じはしなかった」と思い返す。
「だいたい(できる人は)5~6カ月でしゃべれるようになるというじゃないですか。私には、その感覚はなかった。だから『誰も私の気持ちなんてわかってもらえない』と悩んでいたけど、3年くらいしてから『あっ、心を閉ざしていたのは自分のほうだったんだな』ということに気づきました」
それから自分の心を開くようにしたら、周囲の人々は藤井の話に耳を傾けるようになったという。「それでしゃべれるようになった。『自分は言葉(英語)を持っているじゃん』と思えるようになった。それまでもそれなりに英語をしゃべっていたとは思うけれど、どんな言葉をかけられても英語でやり合っていけるようになるまでに3年かかりましたね」。
苦労して英語を身につけた経験が役立ったのだろう。ブラジルでは「滞在して3カ月後には普通にしゃべっていた、とよく言われる」と振り返る。「最初の1週間で指導に必要な単語はだいたいできるようになりました。もっというと、最初の1週間は英語からポルトガル語への通訳がついてくれた。でも、それからは来なくなったので、『これはヤバい』と思い、そこからですよ。少なくとも私が語学を早く身につけるためには切羽詰まった環境は必要でしたね。現地に行って学ばないと頭に入ってこない」
成長しながら一緒に苦しみ、「どうすればいいのか」ともに考える藤井にとって、公用語のマスターが大きな武器になったことは確かだろう。しかしながら、言葉では理解し合えても、もう一つ大きな壁があったのではないか。日本柔道では、とくに見えない壁として存在していると思われる男女の壁である。
実際日本の男子代表チームを女性指導者が率いた例はない。だからこそブラジルでも、藤井の男子代表チームの監督就任は大きなニュースになったのではないか。監督に就任して以来、藤井は男女の壁を感じたことはあるのか。いまだ封建的な男女関係が根強く残ると思われる柔道だからこそ、あえて聞いてみたかった。藤井の即座に繰り返し否定した。
「全然ないです。全然ない」
海外で続けているからそう思う?
「そうなのかなぁ。うん、そうなのかもしれない。でも、いま日本のコーチ陣と話をしても全然壁は感じない。ちょっと私に逆輸入的な部分があるからなのかもしれないけど」
指導の基本的なスタンスである「選手の背中をそっと押す」という姿勢は対象が女子から男子に変わっても揺るがない。藤井は「私は、選手たちと一緒に成長してきたんだと思う」と振り返る。
「成長しながら、一緒に苦しんで『じゃあ、どうすればいいのか』と考える。結局、一緒に苦しんで、一緒に頑張って、また一緒に苦しむ。そういうことを繰り返すことで、指導者としての私は一皮も二皮もむかせてもらっている。いや、本当に選手に育てられていると思いますね」
海外で指導し続けているうちに、藤井は「指導とは何か」という大命題に対する答えを見つけ出した。「選手は育てるものではない」ということだ。
指導者が選手を育てない? いったいどういうことなのか。
「最近、選手は落ち着いて練習できる環境さえ整えてあげれば、チームの雰囲気さえよくしてあげれば、勝手に育つものだということがわかったんですよ」
間違っても、藤井は上から目線で選手と接することはない。仮に選手が悪い内容で負けたとしても、「お前がダメだから負けた」と頭ごなしに批判することもない。反対に「悔しいけど、私がいい試合をさせてあげられなかった」と自分の責任にするだけだ。
それからの選手との接し方は首尾一貫している。
「一緒にどうしたらいいんだろうと考え、また一緒にやり直す」
だからといって、選手と友達目線になるわけではない。「ちょっとここはダメだよ」と指摘することもある。「もうちょっと君はいけるんだからと背中を押してあげることも大切。選手には好きなことを、ただやらせているわけではない。でも、そのためには、選手のことをわかっていないといけない」。
選手を見ると、藤井はいつも「どういうふうに接したら、この子のポテンシャルは伸びるのか」という疑問が湧く。解決しようとあれこれ試してみるが、全て時間のかかる作業だ。「そもそも私は何をするにも、時間がかかるほうなので(微笑)」。
一口に柔道家といっても、闘い方や性格は十人十色。そうすることで藤井は各自に合った指導法を見つけるように腐心する。
「それぞれが違うものであるので、それが一つにまとまって強いチームになればいい。そうすると、力のあるチームになると思う。僕の強みはこれで、彼の強みはこれ。お互いに尊重しあえば、いいチームになりますよ。もちろん好き嫌いもあれば、合う合わないもある。それも含めてチームとして同じ方向を向けばいい。私の仕事はそこの手入れ役でいいのかなと思っています」
言い換えると、強くなりたい選手のお手伝いをするということか。
「そうですね。それが根本にある。私が指導したいとか、その選手の根本を変えたいという気持ちはさらさらない。自分が持っているもので貢献できることがあればと思っているだけです」
もっとも、時折日本の選手と接すると「ブラジルだったから、私は指導者ができたのかな」と思うこともあるという。
「日本の選手が持っていないというわけではないけど、私がいま多くの時間をともに過ごしている選手たちは打てば響く。こればかりは運命なのかなと思いますね」
男子のほうが指導しやすい? 個人をいかに見極めるかが重要男子の代表監督を務める前はブラジルの女子ナショナルチームの技術コーチを務めていた。男子と女子で指導を変えることはあるかと聞くと、藤井は「女性と男性の違いはあまりない気がする」と答えた。
「それこそ個人の違いしかない。その個人をいかに見極めていくかが問題。確かに女子は男子とは練習の雰囲気やリズムが違う。でも、それはトップに立つ人の姿勢によるものだと思っています。一方、男子は『一緒に厳しいところに向かっていこうぜ』という感じですね。ただ、もともとそうだったかといえば、そうではない。時間をかけて作ってきたものだと思います。結局、指導方法や指導者の違いのほうが大きいんじゃないですかね」
いまは男子のほうが指導しやすい?
「そうですね。なぜならいまの男子チームは私が彼らとともに時間をかけて作り上げてきたものだから。だからやりやすいというだけなんですけどね。いまの私がブラジルの女子チームに入ってもうまくいかないと思う」
監督を務めている以上、もちろん結果を求められる。だから責任は重大ということも把握している。それでも、続けていられるのは選手と心のやりとりをしていく中で、難しさが面白さに変わるときの素晴らしさを何度も経験しているからだろう。
「いい選手を仕上げるという責任もあるけど、その一方で柔道ですから人間育成という側面もある。選手を終えたときには世の役に立つ人間になるようにと願っている。そういう意味で、若者と日々心のやりとりをする面白さにはたまらないものがある」
もしかしたら天職?と水を向けると、藤井はそうかもしれないと相づちを打った。
「スキルがあるというわけではないので、人を見るのがきっと好きなんだと思います」
もちろんつらいことも多い。今回の取材はカタールで惨敗を喫した直後の帰路の途中で行ったが、藤井は疲労とともに悔しさをにじませた。
「負けることのほうが多いですからね。でも、それでも頑張る選手を見ていると、『この子はすごいな』と思って。もしかしたら私はその子と一緒にいたいというだけなのかもしれない(照れ笑い)。自分が選手だったら同じことはできなかったと思いますからね」
最後に「もしイギリスでブラジルのナショナルチームからスカウトされたときに拒否していたら、いま頃どうしていたと思うか」と聞くと、藤井は微笑とともに「拒否するという選択肢はなかったですね」と打ち明けた。
「スカウトされたときには心がワクワクしたので、私はやるだろうと直感しました。スカウトされていなかったら、普通に日本に戻って結婚して主婦をしていたんじゃないですかね。たぶん気が滅入っていたと思うけど」
いまも藤井は、心をワクワクさせてくれた、矛盾と混沌と情熱が入り交じったカナリアンカラーの地で生きる。
<了>
PROFILE
藤井裕子(ふじい・ゆうこ)
1982年生まれ、愛知県出身。柔道・ブラジル男子ナショナルチーム監督。幼少期から柔道を始め、2010年よりイギリスでナショナルチームのコーチを務める。2013年よりブラジル女子ナショナルチームのコーチに就任。2016年リオデジャネイロ五輪では57kg級のラフェエラ・シウバをブラジル女子柔道史上初の金メダル獲得に導く。その手腕が評価され、2018年より現職に就任。
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