100mは9秒台時代、マラソンは記録ラッシュなのに…男子1500m日本記録が17年間も更新されなかった理由
REAL SPORTS / 2021年5月31日 23時10分
5月29日(現地時間)、アメリカ、ポートランドで行われたポートランド・トラックフェスティバルで陸上男子1500mの日本記録が17年ぶりに更新された。記録の更新が頻繁な陸上競技では、2004年の日本記録は古参に当たる。男子1500mの日本記録が「ようやく」更新されたのはなぜなのか? 物理や解剖学、生化学などの観点からランニングフォームを科学的に解析しているランニングコーチ、細野史晃氏に聞いた。
(解説=細野史晃、構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部]、写真=Getty Images)
17年ぶりの日本記録が話題になる現状ポートランド・トラックフェスティバル最終日、男子1500mに出場した26歳の荒井七海は、12位でレースを終えた。メダルどころか、入賞にも満たない成績だが、この走りが日本ではニュースになった。荒井の記録、3分37秒05は、2004年7月に小林史和がマークした3分37秒42を破り、日本新記録となったからだ。
「17年ぶりの日本記録」が話題になったように、男子1500mは種目別に見ても、日本が苦手とする分野だ。荒井の記録更新はたしかに快挙だが、この日の優勝タイムは3分33秒64。オリンピックと世界選手権の参加標準記録はいずれも3分35秒00と、世界との差はいまだ埋まっていない。
「日本では中距離の選手の絶対数が少ない。まだまだ“伸びしろ”がある種目だと思いますよ」
ランニングフォームから陸上競技を科学するランニングコーチ、細野氏は、荒井の記録更新を「間違いなく快挙」とした上で、男子1500mで17年間日本記録が更新されなかった理由に言及する。
箱根の絶大な人気とその弊害「サニブラウン・アブデル・ハキーム選手、桐生祥秀選手、小池祐貴選手の記録が9秒台に突入した100mは子どもたちにも大人気で、断トツの人気種目になりました。その影響で100m、200mの短距離は層が厚くなってきていますし、これからもっと充実していくことが予想されます。一方で短距離ではありますが400mとそれ以降の800m、1500mの中距離走は、ちょっと厳しい。そもそもそれを専門にやろうというランナーが少ないんです」
4×100mリレーも含め、「世界でも戦える」ことを示している短距離は、急速に競技人口が増えている。さらに、マラソン、駅伝などの長距離は、日本では古くから絶大な人気を集めている。
「箱根の影響は大きいですよね。大学進学に当たって、やっぱり多くの選手の目標は箱根駅伝出場、活躍になります。中距離をやっていた選手も、もっと長い距離を走るように促されますし、世界との差が大きい800m、1500mを積極的に選択する必然性がありません」
今回1500mで記録を更新した荒井も東海大学時代に2014年に行われた第90回大会に出場しているが、4区を走って区間20位に終わっている。
「選手の適性を見れば細かく種目に振り分けるのが自然です。しかし、大学では駅伝、中でも箱根駅伝の輝きがあまりにもまぶしすぎて、他の種目になかなか目がいかないんです」
大学卒業後、Hondaに進んだ荒井は、中距離に絞って競技に取り組み、2015年には日本選手権の同種目を制している。
「箱根駅伝があることで大学での陸上競技、長距離の価値が高まり、選手が競技を続ける素地になっていることは間違いないのですが、その他の種目はなかなか人口を増やせない。結果として記録も上がってこない。それが短距離陣の活躍で、中距離だけが取り残されたてきた格好です」
男子1500mの歴代ベスト10と達成年を見ても、1977年の記録が歴代6位に鎮座しているなど、「取り残された」と表現されても仕方ないような状況がある。
■男子1500m 日本歴代ベスト10と達成年
氏 名 (当時の所属) タイム 達成年
1.荒井七海(Honda)3:37.05 2021年
2.小林史和(NTN)3:37.42 2004年
3.戸田雅稀(サンベルクス)3:37.90 2019年
4.渡邊和也(山陽特殊製鋼)3:38.11 2008年
5.松枝博輝(富士通)3:38.12 2019年
6.石井隆士(日体大教)3:38.24 1977年
7.佐藤清治(佐久長聖高)3:38.49 1999年
8.舟津彰馬(中大)3:38.65 2018年
9.河村一輝(トーエネック)3:38.83 2021年
10.奥山光広(ヤクルト)3:38.88 1991年
モロッコの英雄、ヒシャム・エルゲルージが持つ世界記録は、3分26秒00。荒井とは10秒以上の差があり、ゴール時には距離にして60m~70mの差がついてしまうことになる。
世界とはまだまだ差があるとはいえ、荒井の記録更新によって止まっていた日本の男子1500mの時計の針が再び動き出す可能性はある。荒井はなぜ日本記録を更新できたのか?
「一つは、長距離、短距離でも起きているランニングフォーム革命。厚底シューズ、厚底スパイクが話題ですが、“厚底”は基本的にランニングフォームを前傾にする、体の重心を絶えず移動しながら加速していく理想的なフォームを実現する機構を備えていることがすごいんです。日本の選手は、こういう走り方ができずに世界に差をつけられていたので、厚底ブームによって、最もフォームが変わったともいえる。荒井選手のフォームにも、こうした変化が見られます」
細野氏の荒井評は、「リズミカルでいい走りをしているが、海外トップと比べると重心が低い。動きがバラつくことが多いので、推進力が逃げてしまっている」というもの。ただし、従来の日本選手の走りに比べれば、高めに保持した重心を斜め前方向に移動することで“重さ”をスピードに変換する走り方ができているとのことだ。
「海外のトップ選手は、こうした重心移動に加えて、さらに重心が高く、“バネ感”がある走りをしています。荒井選手と比較すると、リズミカルで見ていてもフォームにブレやズレが少ない」
「フォームが変わればもっと記録は出る」さらなる記録更新に期待
400mまでの短距離と違い、800m、1500mは、スタートダッシュで勝負が決まるということはほとんどない。加速を終え、最高速にあるときのバネ感のあるフォームが、そのままその選手の持つスピード帯域となるというわけだ。
「さらに1500mは、800mと違って、最初から最後までレーンに縛られないオープンレーンで走ります。レーンの有利不利の影響も少なく、400mトラックを3周と4分の3走ることになるため、ゴール直前は、スピードの減速が少ない直線を競うことになります」
細野氏いわく、「1500mはエンターテインメント性の高い種目」。コーナーを抜け、直線で勝敗が決する様子はさながら競馬のレースのようでもあり、ヨーロッパではかなり人気の高い種目だという。エルゲルージの活躍で中距離が世界的にも注目を浴びた時期もたしかにあり、彼に憧れたランナーが800m、1500mを主戦場にする現象は続いている。
日本でも文部科学省の定める体力テストの実施要項で男子の持久走として用いられるため多くの人になじみのある1500m。オリンピック出場、世界との勝負にはまだまだ時間がかかりそうだが、荒井の活躍、フォームの変化はポジティブな響きしかない。トップと4秒差、12位での17年ぶりの日本記録更新。小さなニュースが、日本男子1500mを大きく変える一歩になるかもしれない。
<了>
[PROFILE]
細野史晃(ほその・ふみあき)
Sun Light History代表、脳梗塞リハビリセンター顧問。解剖学、心理学、コーチングを学び、それらを元に 「楽RUNメソッド」を開発。『マラソンは上半身が9割』をはじめ著書多数。子ども向けのかけっこ教室も展開。科学的側面からランニングフォームの分析を行うランニングコーチとして定評がある
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