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マリノスJ1通算500勝までの歴史は、知られざる親子の物語でもある。水沼宏太が歩む“2世の轍”

REAL SPORTS / 2022年7月1日 11時30分

1993年5月15日のJリーグ開幕戦、横浜F・マリノスが“1勝目”を挙げた旧国立競技場のピッチに、尊敬する父の姿があった。スタンドで観戦していた当時3歳の少年は、29年の時を経て、愛するクラブに新たな歴史を刻もうとしている。J1通算500勝目へ。新国立競技場での決戦に向け、男は並々ならぬ決意をもって挑もうとしている。水沼宏太が父と共に歩む“2世の轍(わだち)”が描く物語は、どんな結末を迎えるのだろうかー―。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

水沼宏太が尊敬する父・貴史と歩み続けた道。29年の親子の物語

新旧の国立競技場を舞台に、J1で歴代2位タイの優勝回数4度を誇るオリジナル10の一つ、横浜F・マリノスで時空を超えたドラマが紡がれようとしている。

1993年5月15日。旧国立競技場で1試合だけ行われた記念すべき開幕戦で、マリノスは2-1でヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を撃破して最初の勝者になった。

プロ時代の到来を告げ、日本中を熱狂させてから10640日目となる2022年7月2日。改修後の新国立競技場のピッチに初めて立つマリノスが、鹿島アントラーズに次ぐ史上2クラブ目のJ1通算500勝を懸けて清水エスパルスとの第19節に臨む。

試合自体は清水のホームゲームだが、クラブ創設30周年記念マッチとして、本拠地のIAIスタジアム日本平ではなく国立競技場で開催。対戦相手に選ばれたマリノスも、第15節から今シーズン初の4連勝をマーク。一気に通算500勝へ王手をかけた。

1993年と2022年、両方の試合に出場する選手はもちろんいない。ただ、1993年5月に旧国立競技場で歴史の当事者になった父に憧憬(しょうけい)の念を抱いた息子が、2022年7月、首位を快走するマリノスの主軸として新国立競技場のピッチに立とうとしている。

黎明(れいめい)期のマリノスをけん引した一人、水沼貴史さんを父に持つ宏太が、不思議な運命に導かれる形で臨む清水戦への思いを明かしたのは、自身の豪快なゴールを含めて4発で快勝し、499勝目を挙げた6月25日の柏レイソル戦後だった。

「偉大な先輩方がつくり上げてくれたマリノスというチームでプレーできていることを、マリノスのエンブレムを背負って戦えていることを本当に幸せに感じている。これまでのいろいろな歴史を踏まえながら、とにかく必死にプレーすることが先輩方へ感謝の気持ちを伝えることにもなるので。マリノスのユニホームを着ている以上はしっかりとプライドを持って、必死に戦わなければいけないと思っています」

父と同じマリノスでプロの扉をたたくも…くすぶり続けた2年半

偉大な先輩の一人として父も名を連ねる。実は父が放ったシュートのこぼれ球を初代得点王ラモン・ディアスが押し込み、マリノスが勝利の雄たけびを上げた29年前の一戦を、当時3歳だった宏太は旧国立競技場のスタンドで観戦している。

「でも、マリノスの旗を振っている記憶しかなくて。父のプレーはしばらくしてから、ビデオで何度も見ました」

こう語ってくれたのは、21歳だった2011シーズン。マリノスから期限付き移籍していたJ2の栃木SCで一気に出場機会とプレー時間を増やし、右サイドを主戦場とするクロッサーとしての潜在能力をいよいよ解き放とうとしていた時期だった。

マリノスでプロになったのも、父の言葉がきっかけだった。横浜市で生まれ育ち、小学2年生で地元のあざみ野F.C.に入った宏太は、小学校卒業を控えて進路に迷っていたときに、すでに現役を退いていた貴史さんからアドバイスされた。

「将来プロを目指すのなら、Jクラブの下部組織に入った方がいい」

これで決心がついた宏太は、湘南ベルマーレ、川崎フロンターレも下部組織を活動させていた神奈川県内で、父と同じクラブでプロになりたいと夢見て、マリノスのジュニアユースの門をたたいた。

Jリーグ元年から時間が経過するほど、父子二代のJリーガーが誕生する土壌が整う。第1号は2003年。出場したのはわずか2試合だったが、鹿島の礎を築いた神様ジーコの長男ジュニオールが、攻撃的MFとしてJ2のサガン鳥栖でプレーした。

日本人第1号が誕生したのは2006年。オランダから帰化し、名古屋グランパスやジュビロ磐田でプレーしたGKハーフナー・ディドの長男マイクが、マリノスユースからトップチームに昇格。次男ニッキも2013年に名古屋でプロになっている。

そして、貴史さんと宏太の父子も続いた。2008年にトップチームへ昇格した宏太だったが、特に攻撃陣の選手層が厚いマリノスでくすぶり続けた。

「J1から逃げた」と言われても…覚悟をもって臨んだ栃木への武者修行

迎えた3年目の夏。FIFAワールドカップ・南アフリカ大会の期間中だった2010年7月に、オファーを受けた栃木への期限付き移籍を決断した宏太は、入団会見でこう語っている。

「『J1で出場できなかったから逃げた』と周りには言われていると思っている。でも、自分の中では試合に出たいという気持ちが一番強かったので移籍してきました」

当時は珍しかったカテゴリーを下げての移籍を、宏太は自分が決めた道だと胸を張った。そして、栃木をめぐる環境は、いい意味でのカルチャーショックを与えた。

2009シーズンにJFLからJ2へ昇格したばかりで、年俸面を含めて決して恵まれているとはいえなかった栃木の選手たちを後押ししようと、ホームタウンの宇都宮市内の理髪店や美容院、クリーニング店などが料金を無料にしたいと申し出ていた。

当時のマリノスが擁していた豪華絢爛(けんらん)なクラブハウス、マリノスタウンで日々のトレーニングを積んでいた宏太は、サッカーが普通にできる環境のありがたさを初めて知った。

「栃木に来て試合に出られるようになって選手として成長できているし、ピッチの外でいろいろな経験することによって、人としても成長できていると思っています」

栃木に所属した1年半で、リーグ戦で50試合に出場。心技体の全てで充実感を漂わせていた宏太へ、貴史さんは目を細めながらこう語っている。

「一番走っているのも、一番声を出しているのもアイツ。守備の戻りも早いし、チームに欠かせない戦力になっているよね。加えて周囲に甘い人間がいない。みんな何かしらの苦労を積んできているし、まさしく反骨心の塊のような選手ばかり。楽しいかどうかは別にして、アイツは充実しているはずですよ」

輝きを放った鳥栖での4年間。J1史上初の親子ゴールも

2012シーズンにはJ1へ初めて昇格した鳥栖へ期限付き移籍。迎えた3月24日の第3節で歴史をつくった。77分にネットを揺らし、J1の舞台で共にゴールを決めた初めての父子になった。決勝点を見舞った相手はくしくもマリノスだった。

翌2013シーズンには鳥栖へ完全移籍。たもとを分かち合ったマリノスへ、いつしか「オファーをもらっても二度と行くものか」という思いを抱くようになった宏太は、2016シーズンにFC東京、2017シーズンにはセレッソ大阪へ移籍する。

結果的にFC東京への完全移籍は失敗だった。U-17日本代表で指導を受けた城福浩監督の下でさらなる飛躍を目指すもなかなか試合に絡めず、城福監督が解任された夏場以降は、FC東京がU-23チームを参加させていたJ3でのプレーも増えた。

復活を期したからこそ、C大阪から届いた期限付き移籍のオファーに心を躍らせた。

「個人的にすごく悔しい思いをして、このままじゃ終われないと思っていた。もう一度輝くために、もう一度自分がやりたいことをピッチで表現したかった」

こう語っていた宏太は、過酷なトレーニングを介して心身ともに鍛え上げてくれた鳥栖時代の恩師、尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督とセレッソで再会。キャンプ前には話し合いの場を持ち、指揮官の厳しいイズムを率先して体現する役割を担ってほしいと頼まれた。

「尹さんがセレッソでやりたいことに加えて、それまでのセレッソはちょっと緩いということも、みんなに伝えてほしいと言われました。尹さんがやりたいことを、チームとしてピッチで表現できるように、みんなに声を掛けていってほしい、と」

「チームを大きく変えてくれた」。C大阪で自身初のタイトルを手にした

栃木から鳥栖を通して、明確になりつつあったプレースタイルがある。チームのために労を惜しまない献身的で泥臭い姿勢と、仲間を忌憚(きたん)なく叱咤(しった)激励するリーダーシップを、マリノスの下部組織時代に身に付けた高いテクニックに融合させた。

マリノスの前身、日産自動車時代を通じてドリブラーとして活躍。エレガントなプレースタイルで、低迷していた日本サッカー界を支えた父とは大きく異なる存在感は、アカデミー出身者が多く、仲良し集団とやゆされたC大阪を内側から変えた。

2017シーズンのYBCルヴァンカップを制し、自身初めてのタイトルを獲得した宏太は、マリノスと対峙(たいじ)した天皇杯決勝でも躍動。65分に同点ゴールにつながるミドルシュートを放ち、延長に入った95分には逆転ゴールを決めて戴冠のヒーローになった。

「初めて一緒のタイトルを取れたのはうれしいですね。目標であり、尊敬している父にはまだまだ追いつけないけど、一つ、誇らしいことができたかなと思っています」

日産自動車およびマリノスで、父が6度も手にした天皇杯を掲げた試合後にこう語った宏太の姿に、C大阪の玉田稔代表取締役社長(当時)は思わず目を細めている。

「おとなしい選手が多い中で周囲を鼓舞するし、誰よりも率先して走る。そこがうちとうまく合ったというか、セレッソを大きく変えてくれたと思います」

今季ユニホームの名前を「KOTA」から「MIZUNUMA」へ変えた決意

C大阪での3年間で、長く抱き続けた思いが独自のサッカー哲学へと変わった。それは「うまい選手がいて、かつ走れたら本当に強いチームになれる」であり、2019シーズンを制したマリノスが、さらに進化するために欲したものだった。

一度は別々の道を歩み始めてから、初めて届いたマリノスからのオファー。実に9年半ぶりにマリノスのユニホームに袖を通してみて、かつては「二度と行くものか」という思いをぶつけた古巣へ、変わらぬ愛情を注ぐ自分に気が付いた。

実は2021シーズン後のオフ、宏太の元へ複数のオファーが届いている。36試合に出場するも先発はわずか1度。プレー時間も667分にとどまりながら、リーグ2位の9アシストをマークした実力が高く評価された。しかし、宏太を動かすには至らなかった。

2022シーズンはマリノスにとってもクラブ創設30周年のメモリアルイヤーとなる。セピア色にも程遠い、うっすらとしか覚えていない1993年5月15日に思いをはせながら、ユニホームの背中に入れる名前の表記を変えようと決意した。

昨シーズンまでの「KOTA」には、水沼宏太という選手を認めてほしいという思いが込められていた。翻って今シーズンの「MIZUNUMA」は、マリノスという名門クラブに水沼父子が深く関わっている、二代にわたる歴史を発信している。

5月の連休明けから、父が現役時代に主戦場とした右ウイングの先発に定着した宏太は、直近の7試合で4ゴールをマーク。リーグ最多の36得点だけでなく、労を惜しまない前線からのプレスで4番目に少ない18失点にも貢献している。

「通算500勝も通過点」。水沼宏太が見据えるその先へ…

これまで宏太から聞いた言葉で、強く印象に残っているものがある。C大阪での1年目。大量の汗とともに水分が失われる、高温多湿の夏場のある試合後だった。

「真夏の暑い試合で大声を出すと、本当に倒れそうになるんですよ。気を付けないといけないんですけど、声を出すこと自体はまったく苦にならないので」

新国立競技場での一戦を前にして、関東甲信地方は過去最も早い梅雨明けが発表された。ナイトゲームとはいえ、消耗戦が必至の90分間は宏太にはうってつけの舞台かもしれない。清水戦への思いをあらためて聞くと、こんな言葉が返ってきた。

「通算500勝にあと1勝ですけど、それも通過点だと思っているので。今いる選手たちがこのチームの歴史を変えていける存在になっていければ、また強いマリノスになっていく。なのであまり意識せずに、目の前の相手を倒すことだけを考えていきたい」

思い描くのは追いすがる鹿島、川崎フロンターレを制し、個人的には無縁のリーグ戦のタイトルを手にする光景だ。天皇杯は古巣の栃木に敗れたが、佳境を迎えるルヴァンカップとAFCチャンピオンズリーグでも、厳しい戦いになるほど宏太の存在感が増してくる。

宏太の後には、風間宏希(ザスパクサツ群馬)と宏矢(ジェフユナイテッド千葉)、高木利弥(愛媛FC)、広瀬陸斗(鹿島)、安永玲央(横浜FC)、垣田裕暉(鳥栖)、前川黛也(ヴィッセル神戸)、そして新保海鈴(テゲバジャーロ宮崎)らが2世Jリーガーの系譜に名を連ねている。

サッカー界の親子鷹の象徴でもある宏太は現在32歳。マリノスの1勝目に大きく貢献した父も、当時は33歳になる直前だった。ここでも歴史が重複しようとしている。

<了>






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