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守田英正が描き続ける“非エリートのサクセスストーリー”。大学時代の恩師が語る「鋭い縦パスを狙う」理由

REAL SPORTS / 2022年11月25日 16時30分

FIFAワールドカップのグループステージ第1戦、日本代表は過去4度の優勝を誇るドイツ代表を劇的な逆転勝利で下し、目標に掲げるベスト8以上に向けて好スタートを切った。ドイツ戦の2日前には、それまで左太ももの違和感で別メニュー調整を続けていた守田英正がチーム練習に合流。コスタリカ代表との第2戦、スペイン代表との第3戦、さらには決勝トーナメントでの戦いに向けて重要な戦力が復帰した。今や日本代表に不可欠な選手となった守田の成長の軌跡について、恩師である流通経済大学サッカー部の中野雄二監督に話を聞いた。

(インタビュー・構成=磯田智見、トップ写真=Getty Images、本文撮影=磯田智見)

トップ下で10番を背負うような“オン・ザ・ボールの選手”

――流通経済大学の龍ヶ崎キャンパス内には、守田選手がカタールワールドカップの日本代表に選出されたことを祝うポスターがたくさん貼り出されていますね。

中野:アジア最終予選での活躍を通してチームに欠かすことのできない存在となり、守田がワールドカップの日本代表メンバーに選ばれたことを本当にうれしく思います。多くのOBがプロサッカー選手として活躍してくれていますが、流通経済大学からワールドカップに臨む日本代表に選出されたのは守田が初めてですから、現役の学生、卒業生、職員をはじめ、多くの方々がとても喜んでくれています。

――守田選手は金光大阪高校から2014年に流通経済大学に進学しました。中野監督にとって守田選手の第一印象は?

中野:入学当時の彼は、いわゆるトップ下で10番を背負うような“オン・ザ・ボールの選手”でした。守備面の貢献度は決して高くありませんでしたが、攻撃面においては状況判断がよくて、技術的にもしっかりしたものを持っていましたね。また、現在のスタイルにも通じますが、当時から体幹が強かったため姿勢がよくて、常にルックアップした状態でプレーしていた姿がとても印象に残っています。

「なんで俺がサイドバックなの?」と不満げな表情をしたことも

――1年生、2年生のころの守田選手に対しては、どのようなアプローチを心がけていたのですか?

中野:1年生のときには、上級生も属する上のカテゴリーには引き上げず、“1年生チーム”のメンバーとして好きなようにプレーさせていました。ただ、2年生に進級してトップチームに呼ぶにあたり、私としては体幹がブレないという彼の長所を生かし、守備面での貢献度を高めることが守田の将来につながるのではないかと考えました。

 だから、2年生のときにはサイドバックを中心に、センターバックやボランチなど、どちらかと言えば守備的なポジションで起用しました。当初は、「なんで俺がサイドバックなの?」という不満げな表情をしていたことも多々あります。とはいえ、不満そうな顔をしながらも、「起用されたからには、このポジションで得られるものは何でも吸収してやろう」という強い意欲も感じられましたね。

――サイドバックでの起用については、どのような意図があったのでしょう?

中野:サイドバックで起用した理由は単純ですよ。テクニカルエリアに最も近いポジションであり、ベンチから一番声をかけやすいから(笑)。当時の守田は、「なんで自分ばかりこんなに怒られるんだ?」と疑問に思っていたことでしょう。ただ私としては、彼の持ち得る体幹の強さとともに、現代サッカーにおいては役割が多岐にわたるサイドバックでのプレーを経験させておくことが、守田の今後に役立つだろうと思ったのが大きなきっかけでした。

――3年生、4年生と学年が上がるごとに、守田選手はどのような成長曲線を描いていったのですか?

中野:3年生の終盤にあたる2017年2月に、守田は国内各地域の選抜チームが出場するデンソーカップチャレンジサッカーに関東選抜Aチームの一員として出場しました。中心選手としてチームの優勝に貢献し、この大会のMVPに選出されました。彼のその後のキャリアを見ると、ここがサッカー人生の大きなターニングポイントになったと断言してもいいと思います。全国各地域から同年代の優秀な選手たちが集う大会でMVPに選ばれたことで、「自分には才能があるのかもしれない」ということを真剣に考え、同時に「もっと高いレベルにチャレンジしてみたい」と本気で思ったのでしょう。

 4年生になって迎えた2017年夏には、台北で開催されたユニバーシアード競技大会で世界一となり、同年12月のインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)では流通経済大学を日本一へと導いてくれました。この時点で大学サッカー界では別格の存在になっていましたね。試合中ももはや一人だけ別次元の選手がいると思うようなプレーを披露していましたから、4年生のときの1年間はものすごい勢いで成長していきました。

「そのポジション争いに勝てないようでは日本代表にも入れません」

――3年生のときに受賞したデンソーカップチャレンジサッカーでのMVPが、守田選手に大きな自信を植えつけたのですね。

中野:MVP受賞をきっかけに自信と自覚が芽生え、さらには欲が出てきたのだと思います。つまり、「将来はプロになりたい」という漠然としていた思いが、「将来はこういうレベルのクラブに所属してプレーしたい。そのためにも日本代表に入りたい」と明確に目標を描けるようになったのです。

 大学卒業後の進路として、守田は川崎フロンターレを選びました。守田に対しては複数のクラブが声をかけてくださり、そのなかには彼の地元をホームタウンとするガンバ大阪も含まれていました。私はてっきりガンバを選ぶものだと思い込んでいましたが、守田は「監督、僕はフロンターレに行きたいんです」と言ってきました。

――フロンターレは守田選手が大学4年生だった2017年にJリーグ初優勝を飾り、名実ともに優秀な選手がそろっていました。

中野:そのとおりです。当時のフロンターレには、エドゥアルド・ネットというボランチの選手がいました。私は守田に対して、ライバルになるブラジル人選手の名前を挙げ、「今のフロンターレでボランチのポジションを奪うのはかなり大変だぞ」と伝えました。すると守田は、「そのポジション争いに勝てないようでは日本代表にも入れません。それに、監督が『ポジションを奪うのは大変だぞ』と言うのであれば、僕は絶対に奪ってみせます」と返してきたんです。

 その時点で、2年後には海外のクラブに移籍して、2022年のカタールワールドカップに出場したいという目標をはっきり口にしていました。実際、ポルトガルのサンタ・クララに移籍したのは3年後のことでしたが、日本代表に選ばれ、こうしてカタールワールドカップを迎えることができたのですから、たいしたものだと思います。

 ちなみに、守田はフロンターレと3年契約を結んでいました。当初は契約期間内に海外移籍することで、フロンターレには移籍金を、学生時代に所属したチームには連帯貢献金を残したいと考えていたようです。それが、フロンターレとの契約が満了となった時点でサンタ・クララへ移ることになりましたから、実際は移籍金も連帯貢献金も発生しなかったわけです。こちらはそんなことまったく気にしていないのに、守田はわざわざ謝りにきましたよ。「連帯貢献金を発生させられず申し訳ありませんでした」と(笑)。

 海外リーグでプレーし、日本代表に選出されるようになっても、守田にうぬぼれている様子はまったくありません。本当に謙虚で、「大学時代に育てていただいた」という思いと感謝を常に持ち続けてくれています。守田というのはそういうやつなんです。


ワールドカップで自分の力を見せつけ、次は……

――明確な目標設定と高いレベルへのチャレンジ精神が、守田選手のキャリアを切り開いていったんですね。

中野:守田が流通経済大学を選んだ理由も、まさにそのようなイメージです。金光大阪高校時代、当時のプレミアリーグで日本一に輝いた流通経済大学付属柏高校と練習試合で対戦し、スコアこそ大差なかったものの、試合内容は一方的に打ち負かされたそうです。そこで守田が考えたのは、「対戦相手の多くの選手が流通経済大学に進学するならば、自分も同じ環境に行って日々競い合い、大学時代に彼らより上のレベルにいかなければいけない」ということでした。

 そのようななかで、本学コーチが他の選手を獲得するため関西エリアの大会を視察に行った際、印象的に目に留まったのが金光大阪高校の守田でした。お互いの思惑も合致し、すぐに本学への進学を決断してくれました。このように、守田は大きな野心を持って大阪から流通経済大学に飛び込んできてくれたのです。

 振り返れば、流通経済大学を選んだのもチャレンジ、フロンターレを選んだのもチャレンジ、サンタ・クララに行ったのもチャレンジ、もちろんスポルティングに行ったのもチャレンジ。守田の目は常に上を見ていて、決して無難な選択をしないんです。むしろ、あえて険しい道を選び、一歩一歩着実に進んでいます。カタールワールドカップに出場できるという喜びは感じているでしょうが、きっと今大会も彼のなかでは一つの通過点に過ぎないと思います。ワールドカップという舞台で自分の力を見せつけ、次はヨーロッパの5大リーグやビッグクラブへの移籍にチャレンジしようと計画しているのではないかと思いますね。

時代にマッチした“ボールを縦に入れる”プレースタイル

――もともとトップ下だった選手が大学時代に守備的なポジションを経験したことで、今では攻守両面で存在感を発揮するハイブリッドなMFとして活躍するようになりました。

中野:守田の成長具合と、サッカー界の流行の移り変わりがうまく合致したのだと思います。守田が大学に入学したころは、スペイン代表やバルセロナが得意とするポゼッションを重視したパスサッカーが主流でした。日本でもポゼッションスタイルが好まれていましたから、当時の選手たちは勝負すればいい局面でもバックパスや横パスばかりを選択していました。

 私としては、ボールを握ることは大切だけれども、あまりにもポゼッションばかりを重視する傾向に疑問を持っていました。サッカーの原点はもっと力強く、直線的に進んでいくプレー。チャレンジしてボールを奪われたのなら、すぐに奪い返せばいいという考え方を持っています。だから、チャレンジをしない選手たちの姿が本当にもどかしく感じられました。守田たちの世代の選手には、チャレンジすること、トライすることの大切さを口酸っぱく言い続けました。だから守田は、試合中に鋭いグラウンダーの縦パスを積極的に狙うんです。

――守田選手の縦を狙うプレーが、今の時代にマッチしているということですね。

中野:そうなんです。徐々にポゼッションスタイルは影をひそめ、ここ数年のサッカー界では、速さと直線的な攻撃を特徴とするバイエルンのようなスタイルが主流になっています。守田のプレースタイルは基本的に縦に入れることがベースになっていますから、現代サッカーの主流にとてもマッチしていますし、特にヨーロッパでは評価されるんですよね。

――守田選手のプレーといえば、相手選手からボールを刈り取る力も特筆に値しますね。

中野:現代サッカーでは高い位置からボールを奪いにいきます。試合中の攻撃権をつかむため、1つしかないボールを相手と奪い合うんですから、足を棒のようにして前に出したところで取れるわけがありません。

 どれほど一流の選手であっても、ボールにタッチした瞬間は足元からボールが離れます。その間にどれだけ速く体を入れられるか。どこまで懐に入り込めるか。これが“ボールを奪うディフェンス”。もっとも、すべてのシーンで相手ボールを奪えるわけではありませんから、時間帯や試合展開に応じて“ゴールを守るディフェンス”を選択する必要もあります。この2つのディフェンスの仕方を明確にしたうえで、選手たちにはどちらを選択するべきかという的確な判断を求めるのが私の考え方です。

 守田はこれらの点を本当によく理解していました。ディフェンス時のプレーの選択も適切でしたし、優れた体幹を生かして速く強く相手の懐にもぐり込み、ボールを刈り取るプレーが日に日に上達していきました。そのうえ、もともと“オン・ザ・ボールの選手”でしたから、奪って終わりではなく、奪ったあとは攻撃を組み立てることもできる。彼が2年生になってトップチームに昇格して以降、「将来的にはこういう選手になるといいな」とイメージしていた選手像に、今の守田はものすごく近づいている感覚があります。

エリートではなかった選手でもワールドカップに出場できる

――守田選手は「影響を受けた指導者」として、中野監督の名前を挙げています。その選手が日本代表としてワールドカップの舞台に立ちます。

中野:うれしいですね。守田が自分の名を挙げてくれたことはもちろんですが、それ以上に、「俗に言うエリートではなかった選手でもワールドカップに出場できるんだ」という成功例を示してくれたことが何よりもうれしいんです。

 守田は世代別の日本代表に選ばれたことがありません。高校時代まで全国的な実績もなく、無我夢中で流通経済大学に飛び込んできました。そこで日々努力を積み重ね、結果的にはフロンターレを経由して海外へ移籍し、今やワールドカップに臨む日本代表の一員です。

 後輩たちにとっては励みになる実例になります。「守田先輩がワールドカップの日本代表に選出されたんだ。僕らも頑張り続ければ将来は日本代表になれるかもしれない」という目標となりますし、これは流通経済大学の選手だけでなく、他の大学や現役高校生にとっても同様でしょう。高校卒業時の18歳のときにプロになれなかったとしても、大学を経由してプロになり、ワールドカップに出場するというストーリーがあることを守田は示してくれたのです。

――中野監督から守田選手にエールを送るとしたら、どのような言葉になりますか?

中野:あえて私が言わなくても、守田は自信を持って自分なりのやり方を貫くでしょう。教え子だからこう言うわけではありませんが、今大会を終えて、海外のスカウトやマスコミ、世界中のサッカー関係者から最も評価される日本人選手は守田なのではないかと思っています。ワールドカップは自分自身の存在を示し、価値を高められる絶好の舞台。だからこそ、「いつもどおりやれよ」という感覚で彼のプレーを見守ろうと思います。

<了>






[PROFILE]
中野雄二(なかの・ゆうじ)
1962年10月17日生まれ、東京都出身。流通経済大学スポーツ健康科学部教授、サッカー部監督。全日本大学サッカー連盟理事長、関東大学サッカー連盟理事長、日本サッカー協会理事兼天皇杯実施委員会委員長も務める。古河第一高校では、1年生と3年生のときに全国高校サッカー選手権大会で優勝。法政大学では4年生のときに監督代行兼主将を務めた。卒業後は1985年から水戸短期大学附属高校(現・水戸啓明高校)監督、1992年にプリマハム土浦FC監督、1997年に水戸ホーリーホック監督を歴任。1998年から率いる流通経済大学では、チームを国内屈指の名門へと育て上げ、数多くのプロサッカー選手を輩出している。

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