陝西省在住の日本人戦争残留孤児が死去、村人総出で葬儀に参列―中国メディア

Record China / 2018年1月17日 21時20分

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陝西省丹鳳県で10日、日本人戦争残留孤児の水崎秀子さんの葬儀が営まれ、村人のほとんど全員が参列した。

2018年1月15日、北京青年報によると、陝西省丹鳳県で10日、日本人戦争残留孤児の水崎秀子さんの葬儀が営まれ、村人のほとんど全員が参列した。

水崎さんは13歳だった1943年に、福岡の実家から当時の満洲国にいた親族の家に渡った。日本の敗戦後、親族のうち水崎さんだけが帰国できなかった。国民党の軍人と結婚したが、夫は戦場に出て消息を絶った。別の軍人と結婚したが、その軍人には妻がいたことが後で分かり、捨てられた。さらに別の軍人と結婚したが同様だった。4度目の結婚は比較的長く続いたが、夫は1976年に病死した。

最後の結婚はうまくいった。水崎さんは丹鳳県で暮らすことになった。夫婦仲は良かった。水崎さんは夫の連れ子の息子と娘の世話をするなど、かいがいしく働いた。結婚生活は2015年に夫が病死するまで続いた。水崎さんが次々に結婚したのは、そうしなければ生きていくことができなかったからという。

水崎さんは日本語をほとんど忘れたが、周囲の人に「かな文字」を書いて披露するなどで、皆が日本人と知っていた。北京青年報によると、水崎さんが住んでいた地域では抗日戦に参加してから帰郷した人も多く戦争を強く恨む雰囲気が強かったが、水崎さんとは分け隔てなく交際した。水崎さんも、近所で結婚式や葬式がある際には熱心に手伝いをするなど、地域にすっかり溶け込んだ。

また、王鳳蘭(ワン・フォンラン)の中国名を用いたので、周囲の人は水崎さんの日本名を忘れていった。働き者であることが評価され、学校に通った経験もあるので一定の教養もあるとして、地域の議員に選出されたこともある。

水崎さんは自分の名や出身地をはっきりと覚えており、自分が写った小学校の卒業記念写真なども所持。さらに親族が日本にいたなどで日本人と確認された。1979年には中国当局から外国人用の居留証の発行を受けている。

北京青年報によると、水崎さんは2002年、日本残留孤児として日本当局に対して一時帰国して親戚探しをしたいと申請した。ところが、別の人物が水崎さんになりすまして家族とともに日本に移住していたことが分かった。厚生労働省の職員が陝西省の水崎さんの家を訪れて改めてDNA採取なども行い、最終的に中国に残っていた水崎さんを「本人」と確認したという。

06年には日本の民間団体の支援を受けて、福岡に戻っていとこと再会した。しかし水崎さんは慣れ親しんでいた陝西省での生活を続けることに決めた。

水崎さんには中国戸籍がないので、耕作地の割り当てがなかった。高齢になってからも最低限の生活保護を受けられなかった。自分自身の子はおらず、義理の息子である李書強さんが肉体労働をして水崎さんの生活を支えた。近所に住む人も、いろいろと手伝った。

李さんによると、水崎さんは常々「私の世代の人は自分で自分の運命を決められなかった」「私の世代の人が一番憎んでいるのは戦争だ」と言っていた。日本で暮らすことは断念した水崎さんだが、いつも故郷への思いを語っていたという。

水崎さんは6日に死去し、葬儀は10日に営まれた。住んでいた村の住民のほとんどすべてである150人が水崎さんを見送った。家族は和服姿の水崎さんの写真を遺影とした。(翻訳・編集/如月隼人)

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