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中国淮南武王墩墓の考古学調査で進展、墓の主は戦国時代の楚考烈王か

Record China / 2024年5月20日 14時30分

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中国国家文物局は18日、中国中部の安徽省にある淮南武王墩墓の考古学調査と文化財保護活動が重要な進展を遂げていることを明らかにしました。写真は淮南武王墩墓から出土した青銅鼎。

中国国家文物局は18日、中国中部の安徽省にある淮南武王墩墓の考古学調査と文化財保護活動が重要な進展を遂げていることを明らかにしました。北側と西側にある四つの側室の発掘が完了し、東一室、南二室の発掘作業が進行中で、各類文化財約3000点(セット)と大量の動植物の残留物が発見されたとのことです。

今回の考古調査で発見された文化財には、琴と瑟(大型の筝)、編鐘などの楽器や漆器の箱、盃、盆、さらに豆(高足盤)、鼓、玉璧、璜(半円形の玉)、大量の銅製矢じりなどがあります。また、漆塗りの木俑や木製の車、少量の竹簡も発見されました。これまでに出土した青銅器は150点(セット)余りで、青銅礼器のセットは完全に保存されていました。また18日午後には東一室から最大の銅鼎が出土しました。

考古チームの責任者である張聞捷氏によれば、同墓から出土した青銅製の鼎は計3点で、いずれも大型で楚の王クラスの葬制を示しています。うち18日に出土した最大の銅鼎は祭祀時に牛を煮るためのものだったと思われます。専門家の論証により、武王墩墓から出土された遺物の形状や装飾文様や図案、組合せなどは中国戦国末期の楚国文化の典型的な特徴を備えており、墓葬の規模、構造、出土した文字史料と文献などを総合的に分析すれば、「史記・楚世家」に記載された戦国時代の楚考烈王の墓である可能性が大きいと推定されました。

「史記」の記載によれば、楚考烈王は紀元前238年に在位25年で病没しました。楚考烈王をめぐっては、廉頗、毛遂、平原君、信陵君、春申君など、戦国時代に活躍した有名な人物の逸話が知られています。例えば、趙の平原君の食客だった毛遂が自ら平原君に申し出て楚に出向き、楚を救う大任を果たした「毛遂自薦」、盟会の参加者が家畜の血を吸って唇に血をつけることで心から同盟関係を結ぶ決意を表した「歃血為盟」、魏の信陵君が割符を盗んで兵権を奪い、趙を囲んだ秦軍を撃退して趙を救った「窃符救趙」などの話が伝わっています。(提供/CRI)

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