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アジア最長寿の男性が死去、施平さん112歳―革命と抗日戦、高等教育の確立に功績

Record China / 2024年6月30日 18時0分

アジア最長寿の男性が死去、施平さん112歳―革命と抗日戦、高等教育の確立に功績

中日戦争中は新四軍の一員として戦い、中華人民共和国成立後は大学教育などに携わった施平さん(写真)が、病気のために6月29日に上海市内で死去した。1911年11月1日の生まれで、満112歳だった。

中国メディアの澎湃新聞は、中日戦争中は新四軍の一員として戦い、中華人民共和国成立後は大学教育などに携わった施平さんが、病気のために6月29日に上海市内で死去したと伝えた。施平さんさんは1911年11月1日の生まれで、満112歳だった。

新四軍の正式名称は国民革命軍新編第四軍。発足のきっかけは37年に成立した国を挙げての日本軍との対決を目指す国共合作をきっかけに、華南地区で再編されて形式上は国民党の軍である国民革命軍の一部だったが、実際には共産党の軍部隊として活動した。新四軍研究会によると、施平さんは生前、アジアで最年長で世界で3番目に長寿の男性だった。

施平さんは現在の雲南省楚雄イ族自治州大姚県で生まれた。大学入学前から共産党が指導する学生運動に参加し、31年秋に浙江大学農学院に入学すると、学生抗日会主席に就任した。中国の当時の指導者の蒋介石(1887-1975年)は日本軍に対する対決姿勢を示さなかったので、施平さんは抗議のために授業ボイコットなどを指導した。蒋介石は施平さんを「お前は学生運動を扇動し、学校の正常な秩序を破壊した」と激しく責めた。施平さんは「われわれが政府に(対日)抗戦を求めるのは愛国の情にもとづく。授業を再開できるようにしろと言われても、私にはできない」と言い、後に引かなかったという。

38年1月には中国共産党に入党して、宣伝や報道などの活動に参加した後、41年8月に新四軍に加わり、党務としては南通県(現、江蘇省南通市)委員会書記をつ務めるなどした。施平さんの妻の楊琳さんは杭州市の進歩派学生の革命指導者の一人だったが、国民党が楊さんを共産党員と見なして逮捕した。楊さんは当時、妊娠していたが、35年1月5日に男の子を出産した18日後に処刑された。

施平さんは息子の面倒を見る余裕がなく、雲南省内の親族や友人に預けて育ててもらった。中華人民共和国が成立しから雲南省に行き情報を得ながらあちこちを回って息子を探し出して引き取ったという。

施平さんは中華人民共和国成立後には北京農業大学や華東師範大学の共産党委員会書記、上海市第8期人民代表大会常務委員会副主任などを務め、「新中国における高等教育の開拓者の一人」と評価されている。

施平さんの孫の施一公さんは著名な構造生物学者で、米国での研究生活が長く、米国科学アカデミーの外国人会員にもなった。一時は中国国籍を放棄して米国国籍になっていたが、2011年には帰国して中国国籍に戻り、その後は清華大学の生物学教授や副学長を務めた。17年に第2回未来科学大賞を受賞した際には帰国した理由を尋ねられて、祖父である施平さんに「そんなに長く米国にいたのだから、早く帰ってくるべきだ。帰ってきなさい」と言われたからと説明した。(翻訳・編集/如月隼人)

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