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日鉄が宝山鋼鉄との合弁を解消、日中協力の歴史に終止符―台湾メディア

Record China / 2024年7月28日 8時50分

日鉄が宝山鋼鉄との合弁を解消、日中協力の歴史に終止符―台湾メディア

日本製鉄は23日、中国の鉄鋼メーカである宝山鋼鉄(写真)との合弁事業から撤退すると発表した。台湾メディアの中時新聞網は「トウ小平が開拓した中日新時代が終わりを告げた」など解説する記事を発表した。

日本製鉄は23日、中国の鉄鋼メーカである宝山鋼鉄との合弁事業を解消し撤退すると発表した。宝山鋼鉄との合弁会社で自動車鋼板事業を行ってきた宝鋼日鉄自動車鋼板についての契約が8月29日に期間満了することに伴い、関係当局の承認を条件として資本を引き揚げる。台湾メディアの中時新聞網は26日付で「トウ小平が開拓した中日新時代が終わりを告げた」などとして、鉄鋼分野における日中関係の推移を解説する記事を発表した。以下は、中時新聞網の主要部分に、日本人読者向けに若干の情報を追加して再構成した文章だ。

来日したトウ小平、人影まばらな製鉄所に「今日は休日か?」

日中友好を最もよく象徴するとされた新日鉄と宝山鋼鉄の合弁事業の終了が発表された、半世紀以上続いたトウ小平による日中経済技術協力の時代の終焉(しゅうえん)を示すものだ。中国は日本製鉄から多大な技術援助を受けて世界最大の鉄鋼生産国となり、もはや日本に頼る必要はない。中国が今後、外国との協力によって技術や生産性を向上させる必要があるかどうかは、「改革開放」時代の世代にとって熟考に値する。

新日本製鉄(現・日本製鉄)の稲山嘉寛社長は日中国交正常化直後の1972年、当時の中国首相だった周恩来との会談を経て、武漢製鉄所への技術協力を決定した。当時の中国はまだ文化大革命が続く時代で、改革開放は始まっていなかった。新日鉄の派遣団員の記憶によると、空港には毛沢東語録が山積みされ、製鉄所内のいたるところに壁新聞や宣伝スローガンが貼られ、作業員は安全靴も安全帽も着用していなかった。製鉄所内には住宅地があり、子どもたちが走り回っていた。労働環境も設備も近代的な企業のものとは全く違っていた。

1978年10月26日 新日鉄君津製鉄所を見学するトウ小平副首相ら

1978年10月に日本を訪れたトウ小平は、日本の産業と技術の進歩を実感した。トウ小平は新日鉄の製鉄所を訪れた際に、人影がまばらだったので「休日なのか」と尋ねた。返って来た答えは「すでに自動化と機械化を実現している」だった。トウ小平は大きな衝撃を受けた。トウ小平は中国が遅れていることを認め、新日鉄に「このような工場を作るのを手伝っていただきたい」と、協力を求めた。トウ小平は珍しくも、中国を「生徒」、日本を「先生」と表現した。

改革開放を支援した新日鉄、しかし文化の違いによる摩擦も

トウ小平の帰国後の12月、中国共産党は歴史的な第11期中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)を開催した。この会議では、1972年に死去した毛沢東の遺志を忠実に遂行すべきとする「二つのすべて派」が最終的に権力を失い、トウ小平の権力掌握が確実になった。また、毛沢東が推進した「大衆による大規模な階級闘争」の路線が否定された。文化大革命は1977年の、いわゆる「四人組」の逮捕で「勝利のうちに終結」と宣言されていたが、第11期三中全会では文革路線が改めて否定された。そして、企業などに「経営自主権を大胆に与える」などの改革開放の推進が宣言された。


改革開放政策の波の中で、上海に当時の武漢製鉄所を上回る規模の宝山鋼鉄製鉄所が建設された。宝山鉄鋼は、沿岸部に建設された点でも画期的だった。というのは、中国はそれまで、米国などによる海からの軍事攻撃に耐えるために、製鉄所など重要な重工業施設を内陸部に建設していたからだ。同製鉄所の立地は、海外からの最良の原材料の調達を前提とした、中華人民共和国として初めて「経済性最優先」で導かれたものだった。

宝山鋼鉄製鉄所の建設に協力した新日鉄は、関係する企業を含めて技術者や各級管理職など1万人以上を上海に派遣した。しかし開始当初は日本側と中国側の間に多くの摩擦が発生した。日本人作家の山崎豊子が著した「大地の子」では、この製鉄所の建設を巡って大きく異なる日中の文化の深刻な衝突が描かれている。

新日鉄の稲山嘉寛社長の秘書を長く務めた関沢秀哲によると、当時の新日鉄首脳は中国の製鉄所建設を支援する構想を「中国の安定はアジアの安定に貢献するものであり、日本も貢献しなければならない。われわれにできることは技術支援であり、日本は技術面で1歩だけ先を行けばよい」と受け止めていた。すなわち、進んだ技術の大部分を中国に教えてよいと考えていた。

日本の製鉄業界に中国の経済発展の恩恵、しかし流れは変わった

しかし中国のその後の製鉄業の発展は、日本が考えていたよりも、さらには中国側の想定をもはるかに上回っていた。宝武鋼鉄(宝鋼鉄は後に武漢鋼鉄と合併)の陳徳栄董事長(会長)によれば、当初の構想では鉄鋼生産1億トンを目指し、将来的には中国全土の需要を満たす5億トンの生産能力を達成することを目標にしていた。しかし、中国の鉄鋼業の発展は目を見張るものがあり、中国の鉄鋼総生産量は2017年には8億トンを超え、現在では11億トンに達している。

2000年以降は中国の急成長が日米の製鉄業を脅かすようになった。米国鉄鋼協会は13年に、「中国の鉄鋼ダンピングにより過去10年で最大の危機」「50万人が失業の危機に直面」と主張する声明を発表した。17年に発足したトランプ政権は、対中貿易戦争で真っ先に鉄鋼とアルミニウムに関税を課した。米国ではそれまでに、鉄鋼会社が集中する五大湖周辺などが「ラストベルト(製造機械がさびついた地帯の意)」と呼ばれるようになっていた。ラストベルトはトランプ氏が選挙で圧倒的に強い地盤だ。。

宝山鋼鉄

日本の場合は少し事情が異なった。まず日本では2000年までに、経済全体の停滞の影響を受けて、鉄鋼業界でも大規模な再編成が行われた。21世紀に入ると、中国では急速な経済成長により自動車やその他の消費財ブームが発生して鉄鋼需要が激増したため、中国のために大打撃を受けていた日本の鉄鋼業界は急速に中国への投資を拡大した。日鉄と宝鋼は05年に自動車鋼板を製造する宝鋼日鉄自動車鋼板を設立した。この事業は日鉄側にも大きな利益をもたらした

しかし、「よい話」は長続きしなかった。日鉄は21年に、合弁会社である宝鋼日鉄が無方向性電磁鋼板に関する特許権を侵害しているとして、訴訟を起こした。そして日鉄が23日に中国側との合弁事業の打ち切りを発表したことは、日中関係が「禍福はあざなえる縄のごとし」といった将来を見通せない新たな時代に突入したことを示す出来事だ。(翻訳・編集/如月隼人)

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