戦後80年、戦争ミュージアムを訪ねて=東京大空襲、戦艦大和、原爆の記憶をたどる
Record China / 2025年1月13日 21時30分
今年は太平洋戦争の終結から80年になる。昨年暮れから年明けにかけて、いくつかの戦争ミュージアムを訪ねた。そこで見たもの、感じたことをつづってみたい。写真は広島。
今年は太平洋戦争の終結から80年になる。日本テレビが年明けから、戦後80年プロジェクト「いまを、戦前にさせない」をスタートさせたように、各メディアは今後、同様のテーマの記事や番組を数多く提供するだろう。その流れに乗ったようで恐縮だが、昨年暮れから年明けにかけて、いくつかの戦争ミュージアムを訪ねた。そこで見たもの、感じたことをつづってみたい。
東京大空襲・戦災資料センター
最初に訪れたのは、東京・江東区にある東京大空襲・戦災資料センターだ。ご承知のように、1945年3月10日未明、東京の下町はB29の大編隊による空襲を受け、現在の江東区、台東区、墨田区、中央区を中心に10万人とも言われる死者を出した(同センターは死者数については8万3793人という数字を採用している)。同センターは3月10日の空襲を中心に、東京への米軍の爆撃に関する写真や資料、体験者の証言記録などを展示しているが、日本軍の中国・重慶への爆撃にも言及するなど、日本の加害者としての側面にも目を向けている。
展示物で特に目を引いたのが、米軍が使用した焼夷弾の模型および実物だ。米軍は、石造りが多いドイツとは異なり、木造建築中心の日本の都市を焼き払うため、M69 と呼ばれる筒形の小型焼夷弾を開発、使用した。M69は長さ約50センチ、直径7.5センチで、内部にはガソリンを固めたナパームが入っている。これを38本束ねたものを投下、空中でバラバラになって地上に降り注ぎ、発火して家屋を焼き尽くす。3月10日の空襲では、折からの強風にあおられて大火災が発生し、多くの犠牲者を生んだ。
東京への爆撃では3月10日があまりにも有名だが、東京はこの日を端緒に5月にかけて合計5回の大規模空襲を受けている。実はこの5回のうち、3月10日の空襲は規模としては4番目に過ぎない。5月24日の空襲には520機のB29が出撃しており、3月10日の279機の約2倍。投下した焼夷弾の量は2倍以上だった。ところが死者数は762人で、3月10日の100分の1以下。その理由として同センターは、人口密度や地理的条件の違いに加え、「3月10日の惨状を見て疎開が進んだこと、人々が消火をしないですぐ逃げるようになった」ことを挙げている。圧倒的な暴力の前には、無駄な抵抗はやめて「逃げるが勝ち」ということか。いささか複雑な思いを禁じ得なかった。
個人的な話になるが、私の母は当時14歳で、疎開をせずに現在の足立区北千住に住んでいた。やはり東京の下町だが、3月10日の空襲で焼き尽くされた地域のやや北に位置していたため、家族ともども生き延びた。B29がもう少し北側を爆撃していたら…と思うと、本当に人ごとではない気がする。
大和ミュージアム
当時世界最大・最強と言われた戦艦大和は、1945年4月6日、沖縄への海上特攻を命じられて瀬戸内海から出撃。翌7日、米軍機の集中攻撃を浴びて九州南西沖で沈没した。広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)は、同市で建造された大和の10分の1の模型を中心に、造船をはじめとした科学技術の発展を示しつつ、平和の尊さを訴える博物館だ。
同ミュージアムでは、戦後に琵琶湖から引き揚げられたというゼロ戦や、静岡県網代湾で見つかったという特殊潜航艇など本物の戦争遺物も展示されているが、やはりここの目玉は巨大な大和の模型だろう。「大和ひろば」と名付けられたスペースに置かれたそれは、26.3メートルの長さがあり、10分の1とはいえ見る者を圧倒する。まさにこのミュージアムのシンボルだ。
精巧に再現された主砲や艦橋などを眺めながら、「それにしても自分を含めて日本人は何で大和にこんなに思い入れを抱くのだろう」と苦笑してしまった。「宇宙戦艦ヤマト」「男たちの大和」をはじめ、大和を描いた映画や小説、漫画は枚挙に暇がない。対照的に、同型艦の戦艦武蔵を扱った作品はごくわずか。旧日本軍の兵器で、人気面で大和に対抗できるのはゼロ戦ぐらいだろうが、ゼロ戦は太平洋戦争を通じて最前線で奮闘し、特に序盤では圧倒的な強さを発揮して連合軍に恐れられた。それに対して大和は、44年10月のレイテ沖海戦で初めて敵艦に向け主砲を発射した程度で、実戦で活躍したとは言い難い。戦後には、大蔵省(現財務省)の主計官に「昭和の三大ばか査定の一つ」とやゆされたほどだ。
それにもかかわらずこの人気は何なのか。やはり「日本の技術の粋を集めて世界最大・最強の軍艦として建造されながら、大艦巨砲主義から航空機中心へと海戦の戦い方が変わっていく中で実力を発揮する機会を得られず、最後は海上特攻を命じられた「悲運の戦艦」というイメージが日本人の琴線に触れるのか。日本人の判官びいきの気質に、大和がフィットしているのかもしれない。“世界最強の戦艦”に、判官びいきという言葉は似合わないのだが…。なお、大和ミュージアムはリニューアルのため、2月中旬から来年3月末まで休館する。
広島平和記念資料館と追悼平和祈念館
1945年8月6日、米軍は広島市中心部に実戦としては初めて原子爆弾を投下。死者は同年末までに14万人を数えた。71年後、米軍の最高司令官たる現職大統領として初めて同市を訪れたオバマ氏は、慰霊碑の前で「雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきた」と形容した。「死が落ちてきた」記憶を最もよく伝えているのは、やはり原爆ドームと、隣接する平和記念公園だろう。
原爆ドームを訪れたのは6年ぶりだが、来るたびに言葉を失ってしまう。一方、公園内にある平和記念資料館に入館したのはほぼ30年ぶり。その時の記憶がほとんどないので展示内容を当時と比較することはできないが、最新のテクノロジーや映像を駆使して、外国人にも分かりやすい見せ方になっていると感じた。ただ、被害に関する展示の手厚さに比べ、原爆投下に至る政治・軍事情勢の推移や技術面の発展に関する説明がやや手薄のように感じたが、これはないものねだりと言うべきだろう。
平和記念資料館には感銘を受けたが、私がより印象深く感じたのは、平和公園の一角にひっそりとたたずむ国立広島原爆死没者追悼平和祈念館だった。2002年に開館した同祈念館を訪れたのは初めて。原爆での45年中の死者数と同じ14万枚のタイルで被爆直後の街並みを再現した平和祈念・死没者追悼空間では、犠牲になった人々を静かに追悼できるし、遺影コーナーでは死没者一人ひとりの遺影を名前から検索できる。
そして、訪問時に開催されていた企画展「暁部隊 劫火ヘ向カヘリ―特攻少年兵たちのヒロシマ」で上映されていたショートムービーが素晴らしい。暁部隊は飛行機ではなく小型ボートで敵艦に体当たりするために15~19歳の少年兵で編成された部隊で、広島湾の江田島で訓練を重ねていた。彼らは前線への出撃が予定されていた8月6日、原爆投下を受けて急きょ救援活動に動員されて広島市内に入り、すさまじい光景を目の当たりにする。老境に入った元少年兵らが語る証言が生々しい。
特に、奈良県出身の当時15歳の少年兵が、既に息絶えた子どもを抱いて途方に暮れている同郷の女性を見かねて、子どもを火葬して遺骨を渡したところ、戦後、その女性が彼の実家を探し当てて礼を言いに来たというエピソードには、不覚にも落涙してしまった。暁部隊の企画展は2月末日で終了するが、ショートムービーは同祈念館のHPで閲覧できるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。
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