「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#41
RKB毎日放送 / 2024年5月10日 22時4分
石垣島事件の法廷写真に写る姿が確認された炭床静男兵曹長。鹿児島に住む遺族のもとへ、戦犯裁判の資料を携えて、取材に向かった。一審で死刑となり、その後、重労働40年に減刑。約10年をスガモプリズンで過ごした炭床静男は、その後、どんな人生を送ったのかー。
◆写真を準備して取材へ
炭床静男の三男の浩さんからお電話をいただいた後、お約束した取材日までは、ひと月ほど時間があった。新型コロナウイルスの流行中で県外への出張は上司の許可がいるような時期だった。感染防止で取材にお邪魔する時間も長くはとれないルールがあったので、裁判資料以外の歌集などの資料は事前にお送りして、逆に浩さんには古い写真をお送りいただき、集合写真を拡大するなどして準備をした。浩さんの10歳年上の兄、次男の健二さんも取材に応じていただけるとのことだった。
2021年2月、鹿児島市にある健二さんのお宅にお邪魔した。炭床静男の次男、健二さんは当時73歳、元警察官だ。三男の浩さんは当時63歳。地元の建設会社の役員だった。浩さんの3歳下には四男の修さんがいて、実家で父親を介護して、最後まで看取ったという。炭床静男は、1994年4月20日、78歳で亡くなっていた。
◆家出せし妻・・・真相は
家族関係をお伺いするときに、気になっていることがあった。歌集「巣鴨」に炭床兵曹長は、「妻」という題で4首を載せている。
久しぶりの弟の便りは吾が妻の家出記しぬただ簡単に 家出せし妻の心をおし計りおし計りつつ夜は更けゆきぬ (「歌集巣鴨」巣鴨短歌会1953年)
戦犯に関する資料を見ていくと、「スガモプリズンに囚われている間に妻が家を出て行った、離婚になった」という話があったので、この歌を見た時に、もしや炭床家でもそういうことがあったのかと気になっていた。次男の健二さんは収監される前に授かったお子さんで、10歳下の三男、浩さんは、帰ってきてから生まれたお子さんだ。異母兄弟という可能性もあるのかと恐る恐る聞いてみると、お二人は明るく笑って、「姑が厳しくて大変だったからですね。母は一人娘でしたし、歩ける距離の実家に帰ったんでしょう。ほんとに家を出てもおかしくないくらいの厳しいお祖母ちゃんで、まあ大変でしたよ」ということだったので、ほっとした。
◆仮出所後、二人のこどもに恵まれ
仮出所後に生まれた幼い三男と四男を抱く夫婦の写真は、幸せそうに見えた。10年もの長い間、スガモプリズンで過ごし、一時は死刑囚として死と隣り合わせの日々を送り、ぎりぎりの所で減刑されて、処刑される仲間を見送った炭床静男は、41歳からは穏やかな生活を送ったようだった。農業をしながら農協に勤めて、定年後も理事を続けたという。幼い孫と一緒に写る晩年の夫婦の姿も落ち着いて見えた。
◆「講和記念」遺品の筆箱
健二さんと浩さんによると、父・静男はスガモプリズンでの話はほとんどしなかったということだった。自分が何をしてどんな戦争犯罪に問われたかは、全く話さなかった。電話でお話した四男の修さんは、巣鴨から帰ってきて、写経や読経をするようになったと言っていた。遺品でスガモプリズンを語るものは、小さな写真が数枚と木製の筆箱だけだった。筆箱には、「講和記念 於巣鴨」と文字が刻まれていた。「お父さんが巣鴨で作った筆箱」と聞いたので、浩さんが実家から貰ってきたのだという。サンフランシスコ平和条約(講和条約)に日本が署名したのは1951年。翌年発効している。平和条約を機にスガモプリズン内では早期釈放に向けて期待が高まっていたので、そのころ作られたものなのだろう。結局、仮釈放されたのは、1957年9月だった。
◆父の顔を知らなかった
次男の健二さんが生まれたのは、1947年8月15日。父がスガモプリズンに収監されたのは6月30日なので、生まれた時に父は居なかった。
(次男 健二さん)「(生まれる)2ヶ月前に親父はもう収監された、だから私は知らないんですよ、親父が居ないものと思って小さいころは育っているから」
浩さんから事前に送っていただいた集団面会時の記念写真を拡大したものを、健二さんに見てもらった。元の写真は虫眼鏡で見ないと顔がわからないサイズだ。皇居正門前に架かる二重橋を背景に撮影された写真だ。健二さんはすぐ母・ミチエの姿を見つけた。
◆面会室で会ったのは「おじさん」
(次男 健二さん)「これがおふくろで、だとするとこれが私じゃないかと思うんだけど。巣鴨の面会室に行くとおやじが座っていて、おふくろから『あれ誰か』って聞かれたから、『おじさん』って私、答えた記憶がありますから。『お父さんだよ』って言われても、ぴんとこないっていうか」
健二さんが自分ではないかと指差したのは、5歳くらいの少年だった。生まれてから一度も会ったことのない父を誰かと問われ、「おじさん」と答えるのは無理もない。ただ健二さんは、法廷写真に写る若いころの父の顔はすぐに分かったという。まさに「おやじの顔」だったそうだ。
◆祖父の名前で検索 ヒットしたのは
取材にお邪魔したときに、浩さんはすでに父の軍歴を取り寄せていた。当時、大学生だった浩さんの娘さんがウェブ検索している時に、祖父の名前がいくつも出てきた。大学の先生にアドバイスをもらって、祖父の名前が載っている森口豁さんの「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(1993年講談社)を取り寄せて読んだという。石垣島事件の概要については、この本で初めて知り、最終的に7人が絞首刑になったことも分かった。しかし、父がどのように事件に関与をしたのかについては書かれていない。そうした状況の中、私から写真が届いたのだという。健二さんと浩さんに、持参した裁判関係の資料を見ていただくことにした。その資料には、父が石垣島事件で何をしたのかが書かれている。初めてそれを知ったとき、遺族は何を思うのだろうか。緊張しながら、テーブルに資料を並べたー。
(エピソード42に続く)
*本エピソードは第41話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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