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「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#43

RKB毎日放送 / 2024年5月24日 19時9分

太平洋戦争末期、米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件。戦犯として最初の判決では死刑を宣告された兵曹長。死刑執行の直前で減刑された兵曹長は、故郷に帰ってから事件について何も語らなかった。父が戦闘行為の一つととらえていた処刑の様子を、戦犯裁判の記録から初めて知った息子たち。その反応はー。

◆裁判記録が語る事件の様相

2021年2月、鹿児島市にお住まいの炭床静男兵曹長の次男、健二さんと三男の浩さんを訪ねた。取材に際して、写真や裁判記録を用意した。横浜軍事法廷の写真は、アメリカの国立公文書館にあるもの。裁判資料は日本の国立公文書館が所蔵する調書など弁護人が所持していたもの、そして公判記録は外交史料館に入っているものだ。
元警察官の健二さんは、公判記録を音読してくださった。1948年2月12日、炭床静男が証言台に立ち、質問に答えた記録だ。
処刑の現場に集まった数十人の日本兵たちが、命令なく「共同謀議」で、杭に縛られた米軍機搭乗員を次々に銃剣で刺して殺害した、というストーリーで裁判を進めている検事側からの質問に対して、静男は次のように答えている。

◆自分が突いたのは命令されたから

<炭床静男被告人質問1948年2月12日>外交史料館所蔵

(炭床)自分が突いたのは榎本中尉に命令されたからだ。間接命令とか直接命令とかの言葉は分からない。福岡(での調べ)では榎本の命で突いたと言い、榎本も居るから会わせてくれと要求し、会ったら榎本も命令したと言った。自分は命令の点では強制されなかったが、他の点で強制された。
又、私の知らぬ中に挿入された箇所がある。事実と違っているので、起訴後、翻訳されたのを見てすぐ分かった。弁護側口述書で自分は(搭乗員を)殴ったと言ったことはない。

炭床静男は、米軍(検事)側から録られた調書について、弁護人に事実と違うことが書かれているということを訴えていた。
法廷でもそれについて述べている。

◆虚偽の調書を作成され「嘘つき」と

<炭床静男被告人質問1948年2月12日>

弁護人の訊問に対し
(炭床)昭和22年7月14日頃、検事側から巣鴨で陳述書を取られ、相手は福岡で調べた通訳であった。日本文の書式を示され、この通り書けと言われた。内容は福岡での口述書は脅迫されず、自由意志で作成したものであると言う意味のもので、自分は全然違うと抗議し、福岡で作られたものは責められたもので真実ではない。
訂正してくれなければ、その様なものは書けぬと言った所、あれは他の検事に渡してあるから、訂正出来ぬ、違う所があれば法廷で言えと言い、訊ねると法廷で発言する機会があると言うので書いた。
日付が昭和22年4月15日前後となっていたので、その頃は石垣島に居たと言うと20年の誤りだから20年と書いてくれと言い、銃殺を書いてあったので、刺殺でないかと言うと、そうだ、刺殺と直してくれと言うので直した。私より先に書いた者は皆「20年」と「刺殺」が直されたはず、それは法廷で訂正する約束の下で書いたものであり、真実でない。

検事の訊問に対し
(炭床)法廷まで待てぬと主張したが、訂正出来ぬと断られた。巣鴨では脅迫はされなかった。法廷で訂正出来るとの話でなければ書かなかった。巣鴨で書く時、こんな物を書けば、(戦犯裁判で判決を下す米軍の)委員会で嘘つきと思われるとは思わなかった。事実を述べれば信じて貰えると思った。嘘が書いてあるので初め書けぬと断ったのだ。

◆命令通り機械的に刺した

前回紹介した被告人質問の前半の部分で、炭床静男は「命のやり取りをしている戦場」で、当日、戦死した兵士の火葬をしていたとしても復讐の気持ちなどは湧かず、「戦闘行為の一つ」という認識で、杭に縛られたロイド兵曹を銃剣で刺したと述べている。
被告人質問が行われた日には、弁護側から静男の口述書が証拠提出されているが、その下書きであろうと思われる文書には、

「二十人位突刺したと思う頃、榎本中尉が私に『炭床兵曹長、引込でいないで、模範を示せ』と命令しましたので、私は近くにいた兵の銃を取り、ただ、命令通り、機械的に一回突刺しました。私が突いた後、5,6名の兵が突いた様に記憶します。
私は前述の通り、榎本中尉の命令により、飛行士の遺体を一回突刺しましたが、これは絶体命令により、真にやむを得えない行動であります。」

と記されていた。

◆だから戦争はしちゃいかんです

資料をざっと読んでいただいた後、健二さんと浩さんに、死刑宣告時の写真をお見せした。

ディレクター「これが死刑宣告を受けていらっしゃるときの写真です。」

健二さん「ああ、これが。」

浩さん「だまってこれ、(死刑の宣告を)聞いとったんやろな。」

健二さん「まあ、通訳が通訳しただろうから。残念は残念だったろうな、死刑判決を受けた時は。なんでって思ったかもしれんけど。だから戦争はしちゃいかんですね、そう思います。ほんと。人間がおかしくなる」

浩さん「誰も幸せになっとらんですよね。惨殺されたアメリカの飛行士にも当然家族がおられて、なんでこんなところで殺されてって、なるでしょうしね、殺された米兵の家族から考えれば、関わった者はみんな殺してくれってなるでしょうね」

◆誰も幸せになれてない

死刑の宣告の後、再々審で重労働40年に減刑された炭床静男は、10年をスガモプリズンで送ったものの、41歳からの37年間を故郷で過ごした。一方、藤中松雄ら7人は、1950年4月7日、絞首刑が執行された。藤中松雄は農家出身で、20歳で召集され28歳で命を絶たれている。

浩さん「不幸な時代ですよ。藤中さんみたいに召集で行かれた人と、うちみたいに自分たちで入隊して行った職業軍人とではまた違うでしょうしね。そういう人たちが命令する立場で、『お前やれ』って新参の人たちにやらせたんでしょうからね。お気の毒というか、言葉がないですね。ご家族についても、やられた方もやった方も誰も幸せになれてない」

◆まさか、こんな資料があるとは

資料を見て、石垣島事件の内容を知った浩さんは、

浩さん「まさかこんなのがあるとは。父親も一切、しゃべらんかったはずで。父が亡くなって、もうまもなく30年ですけど、こういう話が出るとは思いはしなかったやろうけど」

健二さんは、父が書いたノートを見たことがあったという。

健二さん「反省帳のノートがあった。私が見つけてお父さんに見せたら、すぐ取り上げられて行方不明。小学生のころだったので、今だったら取っておいたんですけど。中身を見たら巣鴨とかなんとか、戦争に関するやつだなと思って。親父に言ったら取り上げられた。親父が亡くなってから見たこともなかった」

父のことをもっと知りたかったという健二さんは、あの時ノートをとっておけばと何度も悔やんでいたー。
(エピソード44に続く)

*本エピソードは第43話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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