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「父は戦犯に問われた」スガモプリズンで描いた絵が語る父の苦しみ 娘がたどる父が体験した戦争の惨禍

RKB毎日放送 / 2024年6月7日 16時54分

日本が戦争に負けてから、来年で80年を迎える。

日本が受諾したポツダム宣言には、「戦争犯罪人の処罰」が含まれていて、戦後、戦犯裁判が開かれた。日本の指導者ら28人が被告となった「A級戦犯」、そして捕虜虐待など通例の戦争犯罪が問われた「BC級戦犯」は7カ国で5700人が被告となった。

戦犯に問われ、人生が変わった父

福岡市に住む眞武ナナさん(74)。ナナさんの父、眞武七郎さんは医師だった。赤ちゃんだったナナさんを抱く父の写真は、開業していた医院の前で撮影したものだ。父は55年前、61歳でこの世を去った。かつて医院があった場所を訪れたナナさん。医院の奥には自宅があり、20歳過ぎまで過ごしたという。父との思い出の場所は、面影もなかった。

眞武ナナさん「あれがなければ、スガモのあれがなければね、父の人生もまた別のものになっていたんだろうなと思うんですけどね」

語らなかった父

眞武七郎さんは、日本が戦争に負けた後、戦争犯罪に問われた。三男の清志さんと長女のナナさん。父が囚われたのは、戦犯たちが収監されていたスガモプリズン。しかし、そこでの話は聞かなかったという。

三男清志さん「あんまり話さんです。ただ、ちょくちょく東條英機がどうだったとか、そういう話は聞きましたけどね」

長女ナナさん「あまり聞いたことないですね。したくはなかったのかもしれないですね」

米軍に捕らえられた眞武七郎さん。東京、池袋にあったスガモプリズンに1947年9月2日、収監された。

父が問われたのは「九大生体解剖事件」

太平洋戦争末期の1945年5月、九州に墜落したアメリカ軍のB29爆撃機に搭乗していた兵士らは、捕虜として、福岡市におかれた西部軍に集められていた。そのうち8人が、西部軍監視の下、九州帝国大学医学部で、医学上の実験材料とされた。

人間は血液をどれくらい失えば死ぬのか、血液の代用として海水を注入することができるのか、肺をどれくらい切り取ることが可能なのか、生体実験が行われた。

「肝臓を食べた」自白を強要され被告に

その中で、摘出された肝臓を持ち帰った見習い軍医がいたことから、「宴会で肝臓を食べた」というストーリーをアメリカ軍の調査官が作り出した。

当時、陸軍病院の軍医だった眞武七郎さん。証言が強要された結果、「食べた」と自白した七郎さんら5人が被告とされた。

初公判で無罪を主張

アメリカ軍がBC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷。1948年3月11日。七郎さんらに対する裁判が始まった。

「シチロウ、マタケ」

アメリカの国立公文書館に収蔵されているフィルム。初公判で七郎さんは無罪を主張していた。

「虚偽の供述」を訴える嘆願書

一方、日本の国立公文書館が所蔵する戦犯関係の資料の中に、七郎さんの嘆願書があった。英文で書かれた嘆願書は、福岡で取り調べをしたマクナイト氏宛になっている。自白を強要した調査官だ。最後に七郎さんの名前が入っている。

(眞武七郎さんの嘆願書)「私が述べた真実は受け入れられず、私の意思に反して知らない事実について虚偽の供述をせざるを得ませんでした。」

「もし否定し続ければ私はまた刑務所に入れられるだろう。妊娠している妻や2人の子供たちのことを考え続けた。」

「妊娠した妻」のお腹のこどもは、三男の清志さんだ。

長女ナナさん「朗らかな父ではあったんですけど、こういったときの話はあんまりしなかったですね。本当に。」

三男清志さん「触れられたくない部分ってあるじゃないですか。きっとそこだったんでしょうね。」

センセーショナルに報道された戦犯裁判

当時、この裁判は大きく報じられ、「人肉を食べた」と、センセーショナルに取り上げられた。しかし、法廷では自白調書が問題となり、証言も否定するものが相次いだことから、結局、5人全員が無罪となった。

スガモプリズンでの1年間の生活でリウマチを発症し、ゆっくりとしか動けなくなった七郎さん。立って長時間、手術をすることが難しくなり、内科を中心に診る開業医として戦後を生きた。55年前の1969年、61歳で亡くなった。

スガモプリズンで描いた絵がみつかった

2023年。スガモプリズンで収監されていた間に七郎さんが描いたという絵が見つかった。

長女ナナさん「なんか76、7年経って父のスケッチが戻ってくるって聞いたときに何で今頃って感じでちょっとびっくりしてしまったんですけどね」

三男清志さん「よくぞ取っててくれたって気持ちもありますよね」

1947年10月11日に書かれた絵。絵には、英文が添えられている。

「なんだ、この不運は。彼らの正義ばかりを信じるな。まやかしの真実を疑え。進め、進め、君の真実と共に。そうすれば自由を勝ちとれる」

絶望の淵に立たされたような獄中生活のなかで、七郎さんは自分を鼓舞するような言葉を書いていた。

三男清志さん「もし親父がその時、絞首刑にでもなったら、いまの我々ないですからね。妹もいませんしね。」

七郎さんは、スガモプリズンの監房の中で過ごす様子や日々の生活風景を、風刺も交えて描いていた。

アメリカ人の看守に託した絵

スガモプリズンで当時、看守として七郎さんに接していたドナルド・フェイブルさん。七郎さんは、この絵をドナルドさんに託し、家族に送ってくれと頼んだ。

しかし、規則で送ることは出来ず、ドナルドさんはアメリカに持ち帰り、額に入れて大切に保管していた。

ドナルドさんは9年前に亡くなったが、遺族が、横須賀基地内で働く知り合いに絵を返したいと相談。ようやく七郎さんの遺族と連絡が取れ、返還されることになった。

75年ぶりに父の絵が返還

10人の子供がいたドナルドさん。アメリカからドナルドさんの娘、スーザンさんを初め、こどもたちがウェブ上で参加した。

ドナルドさんの娘スーザンさん「75年かかりましたが、私達はこれらの絵をお返しすることができて、大変嬉しく思っています。父は優しく理解ある人でした」

会場には、スーザンさんの知り合いやその友人など、眞武さんの遺族までをつないだ人たちも集まった。

スーザンさんの知人フィリップ・アークランドさん(40)「こどもたちはみんなドナルドさんが絵を返したがっているのを知っていた。でも眞武さんの住所がわからなくなって日本語も出来ず難しかった。」

長女ナナさん「色んな人の善意を感じますね。奇跡的ですよね、このスケッチが戻ってきたっていうことが。いま考えると、つらかったスガモプリズンの生活の中で、その交流がちょっと心温まる救いのように私には思えるんですよね。あのつらい獄中の生活で。」

三男清志さん「この絵は、父が一番辛いときの時代を思い起こさせる。つまり父と母が我々に話さなかったことを教えてくれますね。そういう意味じゃありがたいですよ。きょうのイベントは実によかった。父に言いたいです。『父ちゃん、ドナルドさんと会話ができているかい?息子と娘はおしゃべりができましたよ、お礼もちゃんといいました』と」

戦争の惨禍を知って

後日、眞武七郎さんが写っている法廷写真が見つかった。1948年、初公判の日。身に覚えのない戦犯に問われ、極刑に怯えながら、被告席に座っていた父。

長女ナナさん「なにを考えているんだろう。少し上を見ていますね」

ナナさんは、七郎さんの軍歴も取り寄せてみた。体格を示す欄に書かれた、「筋骨やや薄弱」の文字。

長女ナナさん「これ見ると薄弱ですから、やっぱり幾分、無理して働いていたんだなっていうのが、これを見てわかって。なんかちょっと、せつなくなりましたね」

忘れ去られようとしている戦争の惨禍を、父の体験を通じて心に刻んだ。

長女ナナさん「だんだん、戦争がわからない人ばかり増えてきますよね。だから、戦争始めるのもあんまり抵抗がない人が増えるのかもしれないし。悲惨なことをみんな知らないわけじゃないですか。だから、そういう面では、いまの社会情勢をみてると、すごく心配になりますよね」

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