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BC級戦犯 出所したはずの父は妻子の元へ帰ってこなかった

RKB毎日放送 / 2024年6月7日 16時54分

戦勝国が敗戦国を裁く戦犯裁判。現場の下士官や兵らも罪に問われたBC級戦犯。31歳で重労働15年を宣告された後、スガモプリズンを出所しても妻子の元へ帰らなかった男性がいた。獄中で彼の心境にどんな変化があったのかー。

軍人が裁いた「横浜裁判」

横浜地方裁判所。1945年の敗戦後、アメリカ軍によって接収され、軍事法廷が開かれた。この法廷で裁かれたのは、BC級戦犯。墜落した米軍機の搭乗員など、捕虜に対する殺害や虐待行為が戦争犯罪に問われた。

日本大学生産工学部の高澤弘明准教授。アメリカの国立公文書館に残されている戦犯裁判の写真を調査している。

高澤弘明准教授「そもそも、横浜法廷っていうのは、我々が今イメージしている裁判システムとは違いまして、あくまでも軍事法廷なんですよね。だから公平性ということを一応うたっていますけれども、その公平性のレベルっていうのが、軍事法廷は皆さん、軍人さんですので、疑わしいところもあったかもしれません」

「無差別爆撃は国際法違反」裁判で訴えた岡田中将

戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判。そもそも、日本を無差別爆撃していた米軍機の搭乗員は戦争犯罪には問われないのか。横浜裁判でそれを争った人がいる。岡田資中将。名古屋市に置かれた東海軍の司令官だ。

東海軍は、1945年6月から7月にかけて、撃墜されたB29爆撃機の搭乗員を処刑した。名古屋市から少し離れた瀬戸市赤津町で11人。小幡ヶ原射撃場で11人。名古屋城にあった司令部で16人。合わせて38人が処刑された。

岡田中将は、「米軍機の無差別爆撃は国際法違反であり、処刑は正当」と主張する一方で、部下をかばい、ひとりだけが絞首刑となった。

岡田中将を支えた若き参謀

戦犯裁判で岡田中将を支えていたのが、若き参謀、保田直文少佐だった。

保田直文少佐の長女、村田佳代子さん。1946年8月からスガモプリズンに収監されていた父のもとへ、佳代子さんは母と一緒に面会に通った。面会した時のことを今もよく憶えているという。

村田佳代子さん(80)「もうそりゃ克明にありますよ。忘れもしないね、この洋服を着てね、父の面会に行ってるの。この洋服なの。だからここから大体2ヶ月に一度ずつ父のところに私だけ行ったんだなって。思い出しましたけどね。」

佳代子さんは3歳くらいから、5年ほど面会に通ったことになる。成人して洋画家になった佳代子さんは、父との思い出を絵に描いた。

村田佳代子さん「ここが面会室なんですけど、金網に指を突っ込んでいくと、うまくいくと父の手と合うんですね、そこで手でしゃべってたって感じで。父は割と声が低くてね、物静かなの。あんまり慌てたり、早口になったりとかそういうことがなくて、淡々と話す人だった」

妻子の元へ帰って来なかった父

絵の中に父の顔は描かれていない。シルエットになっている。それには理由があった。1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、出所したはずの父は、妻子が待つ東京の家には帰ってこなかった。父は病死したと聞かされていたが、ある時アルバムを見ると、母は、父の写真をすべて捨てていた。

村田佳代子さん「不思議なのがね、お食い初めの写真は確か父と母と私だったの。その1枚がアルバムから剥ぎ取られてるの。だから、すごくそこがね、母の思いがどうだったかって思っちゃうんですけどね」

絵にかけなかった父の顔を70年ぶりに見た

若き日の父の顔を思い出せなかった佳代子さんに、日大の高澤准教授から写真が届いた。アメリカの国立公文書館にあった、重労働15年の判決を受けた時の写真だ。保田少佐は、そのとき31歳だった。写真のキャプションによると、日付は1948年5月19日。東海軍の事件で処刑された38人のうち、27人の殺害に関与したという理由だった。

軍人として士官学校の時代から飛び抜けて優秀だった父は、陸軍大学校卒業前に母と結婚した。戦中、軍事国家のエリート層にいた保田少佐。法務省が1962年に行った戦犯関係の聞き取り調査に応じていた。

上官たちに人間の闇を見て「自殺も考えた」

法務省の面接調書(1962年)「終戦直後の状態は精神的にもショックを受けた。階級の上の人に対しては不満で、階級の下の人は終始変わらず立派なものだと感じた。これが巣鴨生活を一貫して感じたことであった」「中央部は卑怯であった。無差別爆撃の敵機搭乗員を現地で処刑せよという電報は出さなかったと証言している。新聞にも出た事実なるにかかわらずこれを否定している」

上官たちの人間性に闇をみて、保田自身、自殺を考えたこともあった。

個展に現れた父「平和がいちばん」

「戦後50年」の年に個展を開いた佳代子さんの元に、父は突然現れた。スガモプリズンを出た後は、名古屋で暮らしていたという。その後、亡くなるまで10年間は手紙のやり取りがあった。

村田佳代子さん「米寿まで生きたから幸せだけどね。最後。だけど、私達の前から姿を消した時は、まだ30ちょっとだものね。50年の空白があるのよ」

再会を果たした父は、こう言って帰って行った。

村田佳代子さん「最後つぶやくように、『平和がいちばん』って言って。私の目を見て」

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