1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#48

RKB毎日放送 / 2024年6月28日 22時6分

米軍機の飛行士を処刑したBC級戦犯事件の中で、41人に死刑という格段に重い判決が下された石垣島事件。その理由は何だったのか。弁護人が非常識とまで言い切った厳罰の背景はー。

◆飛躍的、非科学的、非常識な判決

41人に死刑という石垣島事件の判決が宣告されたのは、1948年3月16日。判決後、弁護人が記した意見書がある。

石垣島事件の判決関する意見(金井重夫弁護人) 判決は三番目に銃剣により刺突された飛行機搭乗員に対し、数十名が刺突した後も「生きていた」と認定している。その結果として、刺突者はすべて「生きていた人を殺害した」ものであるとした。それは一証人の不確実な証言に基づくものと考えられるが、検察側の起訴状付属の罪状項目には、「死体を冒涜し」の一句を入れている程で、この事実の認定は甚だ飛躍的であり、非科学的でもあり、非常識でもある。(※「」は読みやすく挿入した)

現在の刑事裁判には判決文というものがある。主文の量刑と判決理由が書かれたものだ。特に被告人と検察側の主張に相違がある場合は、裁判所がどういう事実認定をしたのか、この判決理由で知ることができる。ところが、横浜裁判には判決文がない。金井弁護人が「判決は飛行士に対し数十名が刺突した後も生きていたと認定している」と書いているのは、そうでないと、刺した者たちが死刑になるのはあり得ないからだ。数十人に刺されても生きていたというのは、確かに非科学的だ。

◆横浜裁判で死刑宣告は123名

横浜弁護士会が1997年にBC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会を設置し、調査した結果をまとめた「法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録」(日本評論社2004年)によると、横浜裁判で絞首刑の判決を受けたのは、合計123名だという。このうち西部軍の横山勇司令官ら数名が斬首と生体解剖で重複して判決を受けている。

つまり、石垣島事件で41人死刑というのは、横浜裁判で出された死刑判決の3分の1を占めるということだ。一つの事件でこれほどまでに死刑判決が出されるのは、やはり異常事態だろう。

ちなみに「法廷の星条旗」の中には、石垣島事件の検証は入っていない。委員長を務めた間部俊明弁護士によると、横浜弁護士会に所属する先輩弁護士が関わった事件を選んで、検証を進めたということだった。石垣島事件の弁護人は横浜弁護士会所属ではなかった。ただ、横浜裁判の中では大きな事件なので、将来的には検証の対象になり得るということだった。

◆正規の処刑方法 ”銃殺”は無罪

前々回紹介した、西部軍の冬至堅太郎大尉が書いた巣鴨委員会の戦犯事件調査票には、同じ処刑実行者でも中部軍事件や東海軍事件と比べて西部軍事件は重い判決が出されているという訴えがあった。

右の如く類似事件に比し判決加重なり 中部軍事件 処刑実行者 無罪 東海軍事件 処刑実行者 10年(執行停止にて出所) 西部軍事件 処刑実行者 終身

林博史著「BC級戦犯裁判」(岩波新書2005年)によると、「中部軍事件は、銃殺、斬首、毒殺といういくつかの方法で処刑した事件だが、27人が起訴されたものの死刑はなく、正規の処刑方法である銃殺に関わった准尉以下の10人は無罪になった」とある。東海軍事件の処刑方法は斬首だが、「命令に従って処刑を行った下士官以下は形式的には有罪であるが、服役が免除されたので、実質的には無罪と同等の扱い」だった。

◆空手や弓矢 残忍な方法で厳罰

では、冬至大尉が「判決が加重」と訴える西部軍事件ではどうか。西部軍の事件は大きく、九州帝国大学で捕虜を生体実験した「九大生体解剖事件」と、捕虜を斬首するなどした「油山事件」の二つに分けられる。いずれも戦争末期、1945年5月以降に行われている。冬至大尉は油山事件の方で、6月20日に司令部敷地内で飛行士を斬首しているが、この事件では更に福岡市郊外の油山で8月10日に8人、8月15日に17人を殺害している。

「判決が厳しかった理由として、空手や弓矢で殺そうとしてうまくいかずに斬首するなど、殺害方法が残忍であったこと、一七人の処刑は八月十五日の玉音放送の後に、これまでの捕虜処刑を隠蔽するためにおこなわれたこと、などの事情があったのではないかと思われる」(「BC級戦犯裁判」林博史著)

西部軍事件では、死刑の判決は受けたものの全員減刑されて、死刑が執行された者はいなかった。冬至大尉も死刑から終身刑に減刑された。1956年には仮出所したが、正式には1958年5月31日に出所した「巣鴨プリズン最後の戦犯18名」のうちの一人だった。

◆刺突訓練で殺害 日本では当たり前?

石垣島事件の死刑41人の判決に戻るが、とにかく異常なほどに米軍の処罰感情が強かったということではないか。

3人のうち、2人は斬首だが、3人目のロイド兵曹を杭に縛り付けて暴行後、数十人が銃剣で刺したという殺害方法に対して、米軍は怒りを持ち、関わった者すべてを厳罰にするという意志が最初から働いたのではないか。

最初に身柄を拘束された井上乙彦大佐の調べ段階から、明らかに「共同謀議」に持ち込む意図が見える。

石垣島事件がなぜ異常な数の死刑判決になったのかという文脈では、井上大佐が「命令を曖昧にした」という個人の責任で非難される表記が多く見られる。しかし、41人の死刑判決に至った理由は、大佐の態度だけではなく、そもそも殺害方法の残虐性によるものではないのか。

3人目の殺害方法については、前島少尉の証言によれば、井上勝太郎副長が提案し、井上大佐が決定して命じたということなので、無論、井上大佐の責任は重い。

しかし裁判資料の中には、弁護人が「戦後に遺体を掘り起こして燃やし、海に投棄した隠蔽工作については非難されるべきもの」と書いたものがあったが、殺害方法については、その方法を非難したものも、その残虐性に言及したものも見つけることは出来なかった。刺突訓練は、初年兵や補充兵に度胸をつけさせるための教育として当たり前に行われていたようなので、当時は何も感じなかったのだろうか。

しかし、米軍から見れば、それは断じて許されない行為だった。

◆想像を超える米軍の「怒り」

戦犯裁判を研究している恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授が、横浜裁判について語った言葉が思い出される。

「やっぱりね、捕虜虐待に対する怒り?それは私たちの想像を超えます」

藤中松雄のような下士官が、「命令に従った処刑実行者」であっても絞首刑を執行されたのは、米軍の怒りによるものだったのかー。
(エピソード49に続く)

*本エピソードは第48話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください