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嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#52

RKB毎日放送 / 2024年7月26日 10時10分

石垣島事件が起きた1945年4月15日、米軍の上陸が近いと予想される中、移送先もなく、捕らえられた米軍機搭乗員3人は即日、処刑された。

事件に関わり死刑を宣告された石垣島警備隊の41人の中には、最年少19歳の二等水兵のほか20代の若者が多くいた。

元軍人がマッカーサー宛に提出した嘆願書の控えとみられる文書には、「将来の日本再建の為に極めて有用な青年」として特別に名前が書かれた若者数人がいた。いずれも将校だったその若者はー。

◆連日の空襲で連絡絶え

石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。元軍人が41人死刑の判決を受けて、マッカーサー宛てに書いた嘆願書には、当時の石垣島の状況についても書かれていた。

<嘆願書>(※現代風に読みやすく書き換えた箇所あり)
本事件が発生した当時における石垣島の戦況について私が聞いたところを申しますと、既に米軍は約半月前に沖縄島に上陸して激戦中であり、米軍の石垣島への上陸も近いことが予想されていました 石垣島は連日烈しい空襲を受けており、沖縄県にあった上級司令部とは既に連絡は絶え、島外からの軍需品、食糧等の補給も絶えたのみならず、島外との交通さえ著しく困難となっていました しかもマラリア病はひどく蔓延し、警備隊員の大部分はこれに罹って悩まされていました

◆間に合わせの部隊 すべての点で準備不足

<嘆願書> 元来この警備隊は1944年の終わりに編成された、間に合わせの部隊であり、すべての点で戦闘準備が出来ていなかったため、この隊では全員玉砕を覚悟しつつも上陸軍の撃墜準備に不眠不休の活動をしていたのであります この様な状況において、3名の俘虜を入手した指揮官はその処置について、台湾に送る事も困難であり、石垣島に無期限に抑留しておくことも、設備、警備員、給養等の関係で難しいと思い悩んだ挙句、遂に即日処分することに決したのであると聞いております 本事件の判決は以上の戦況を考慮に入れて為されるべきであり、その責任の程度は日本本土において行われた同種の事件に比べて、相当、軽減されて然るべきであると思われます

◆日本再建の為に極めて有用な青年

そして嘆願書の最後に、「日本再建のために極めて有用な青年」として、3人に言及する。

<嘆願書> 最後に本件被告人中、将来の日本再建の為に極めて有用な青年である、井上勝太郎君、幕田稔君、及び田口泰正君3人の為に言及する事を許して戴きます

◆やむを得ず任命された23歳の副長

最初は、副長の井上勝太郎大尉だ。

<嘆願書> 井上勝太郎君は本事件の発生した1945年4月には、数え年で23才の海軍大尉であり、石垣島警備隊の副長の職にありました 本来同隊の副長は海軍定員令の規定によれば、海軍中佐又は海軍少佐を以て充てられなければならなかったのですが、極端に人員の不足していた当時の日本海軍ではやむを得ず、そのような経験の浅い若い士官を、その職に任命しなければならなかったのであります 従って、当時、数え年で48才の、経験に富む海軍大佐の司令を補佐する事は、彼には重きに過ぎる任務であり、司令としても彼の補佐をそれほど期待してはいなかったと思われます 副長の任務は司令を補佐し、常に司令の希望を知り、この達成に務め、隊員をして隊内の規則を遵守させ、司令の命令を執行させることにありました

◆司令同様に重い刑は納得できかねる

<嘆願書> しかし、それは警備隊本来の任務に関する事に限られていた事はもちろんでありまして、俘虜の処刑の様な、警備隊の本来の任務でない事については、副長は積極的に司令を補佐する責任は無く、従って司令が彼に意見を求めず単独で決定した判断について、これを阻止しなかったからといって、その責任を司令と同様に重く問う事は、納得が出来かねるのであります 若年でこの事件に初めて遭遇した彼が、既に決定発表された司令の命令に従い、その方針を他の人へ通達した事は、仮に彼に責任があるとしても、それ程重いものとは考えられないのであります 彼の父は今次の戦争で1944年9月アドミラルティ諸島の海上において戦死し、病身である彼の母は、頼りにしていた長男の勝太郎君を今また失わんとし、他の2人の子供と共に親族の扶助を得て、ようやく生活を保ち、悲歎の底に沈みつつ、ひたすら神に祈り続けております

これまで見てきた資料の中には、井上勝太郎副長が司令から意見を求められた場面もあり、一概に司令が単独で決定したことをそのまま遂行させられていたとは言えないと思うが、そもそも戦争末期、他に人員がいないという理由で、わずか23歳で副長の重責についたことが不運であったことは間違いない。

◆初めての部隊勤務だった「最後の学徒兵」

そして、「有用な青年」の一人は、森口豁著「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(講談社1993年)の主人公、田口泰正少尉だ。

<嘆願書> 田口泰正君は東京水産講習所に在学中、1943年12月に徴集せられて海軍に入ったもので、海軍軍人としての教育課程を終わり、1944年12月海軍少尉候補生となり、1945年1月、石垣島警備隊勤務を命ぜられ、着任後約3ヶ月して本事件に遭遇したのであります 彼は、本事件当時は数え年で24才、小隊長の職にありましたが海軍に入ってようやく1年4ヶ月、しかも初めての部隊勤務であり、小隊長となってからも3ヶ月足らずであり、従って未だ軍務に通ぜず、小隊長とは名ばかりでありました

本事件発生の前日、空襲で彼の部下が3名戦死したばかりに、これを理由として指揮官から俘虜の1名を斬首することを命ぜられ、人を殺さねばならぬ羽目に陥ったことは、彼の生涯の不運であったと言わねばなりません 彼は田口氏の唯ひとりの子供であり、祖父母及び父母は北海道で再び彼と相見える日の無い不幸に傷心悲歎の極みにありまして、傍らで見るも痛ましい限りであります

そして、「日本再建に有用な青年」のあと一人は、最初に米兵を斬首した幕田稔大尉だった。幕田大尉について書かれていたのはー。
(エピソード53に続く)

*本エピソードは第52話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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