”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#54
RKB毎日放送 / 2024年8月9日 17時43分
石垣島事件で殺害された3人の米兵に最初に手をかけたのは、幕田稔大尉だった。海軍の特攻、震洋隊の隊長だった幕田大尉は、剣道の達人という理由で石垣島警備隊の司令に呼び出され、米軍機搭乗員の処刑実行者となった。海軍兵学校を卒業後、MO(ポート・モレスビー)作戦に加わり、足に大けがを負った幕田大尉。石垣島事件の後、特攻としての出撃なしに終戦を迎えたが、シベリアに抑留されている父に代わって一家を養うため、郷里の山形から北海道に働きに出ていた時に米軍に拘束されていたー。
◆顔が半分切れた法廷写真
日本大学の高澤弘明教授がアメリカの国立公文書館から持ち帰った石垣島事件の法廷写真。幕田稔大尉は傍聴席に座る被告のグループ写真に写ってはいるのだが、一番右端なので顔が半分切れている。法廷写真には、死刑の宣告を受ける被告が一人ずつ写っている写真があるのだか、幕田大尉の写真がどれかは分からない。それを特定しようと苦労していると、高澤准教授から、国立国会図書館でデジタル化されている資料を教えていただいた。
日本刀剣保存会が出している「刀剣と歴史」(昭和57年)に刀菊山人が「幕田大尉と石垣島事件」について書いていたのだ。そこには、海軍兵学校時代の幕田大尉の写真もあり、それは顔が半分切れた法廷写真と同一人物だった。
◆軍歴に書かれていた”海戦”
幕田稔大尉は、山形中出身、海軍兵学校を卒業している。69期だ。
二号に渡って掲載された「幕田大尉と石垣島事件」には、幕田大尉の軍歴とその説明があった。
<刀菊山人「なまくら剣談(三十)続・幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号より>
(幕田稔の軍歴) 昭和16年(1941年)海軍兵学校教程卒業 昭和16年9月15日剣埼乗組を命ず 昭和17年3月2日補祥鳳乗組 昭和17年5月11日戦傷(左下腿失肉創)により氷川丸病院に入院
◆火だるまで艦沈没 全治6ヶ月の重傷
<刀菊山人「なまくら剣談(三十)続・幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号より> 幕田大尉は軽空母「祥鳳」に乗り組んで、MO(ポート・モレスビー)作戦に参加し、これが珊瑚海にて米空母の「レキシントン」と「ヨークタウン」の攻撃隊に襲われて爆弾13発、魚雷7発を受けて火だるまとなって沈んだ時、左下腿に重傷を負ってそれから半年間ほど病院暮らしを余儀なくされたことがわかる。 これには、「祥鳳」艦長の井沢石之介大佐の現認証明書がついており、それによると、昭和17年5月7日の午前9時25分頃、敵機と交戦中に爆弾の破片を身に受けて負傷したということである。
「祥鳳」はこの時、零戦6機をあげて敵の第一波をかわしたが、20数機よりなる第二波につかまってしまったわけだが、そのちょうど二十四時間後には、今度は5航戦の「瑞鶴」と「翔鶴」より飛び立った艦攻、艦爆機の同時攻撃を受けて、「レキシントン」と「ヨークタウン」の2艦とも火災を生じ、前者は自国の駆逐艦の魚雷によって処分され、後者はかろうじてハワイに帰投したのだった。
しかし、この日、「翔鶴」も73機の敵機に攻撃され、飛行甲板に爆弾3発をくらい二百名以上もの死傷者を出してしまい、MO作戦は中止されるにいたった。
幕田大尉が最初に乗り組んだ「剣埼」は、その後は空母に改築されて「祥鳳」と改名されたので、珊瑚海に出撃して負傷するまの8ヶ月間ずっと同じ艦に乗り組んでいたことになるそうだ。
◆震洋隊は特攻出撃なく終戦
そして幕田大尉は、石垣島事件の後、震洋特攻隊長のまま終戦を迎えた。
「震洋」とは水上特攻用の体当りモーター・ボートで、重さは1・4トン。速力は23ノット、艇の前部に炸薬がつめこまれてあった。 幕田大尉は大村湾の川棚で訓練を受けた後、この隊長として石垣島へ赴任したわけで、思えばこの一事こそがその後の彼の運命を大きく狂わすことになったのだが、さいわいなことに米軍は石垣島へは上陸しなかったため、震洋隊は特攻出撃をすることなく終戦を迎えた。
◆復員後は”身体に鞭打ち”北海道へ
特攻出撃なく命永らえた幕田大尉は、郷里の山形へ帰るが、抑留された父に代わって一家を支えるため、北海道へ働きに出る。
(刀菊山人「なまくら剣談(二十九)幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号)
幕田大尉は、昭和21年(1945年)1月15日に石垣島から郷里の山形に復員し、その後は1ヶ月あまり休養しただけで痩せ衰えた身体に鞭打って復員省の掃海艇長として宗谷海峡方面へ出かけ、さらにその年の暮には北海道の魚粉会社へと転じ、陸軍に召集されたシベリアから戻らぬ父に代わって一家の生活を支えていたのだった。
◆米軍に拘束 暴行受け調書に署名
昭和22年9月に逮捕された彼は、北海道から手錠をかけられたまま刑事に付添われて東京へ連行され、明治ビルにて米人調査官たちの取調べを受けたのだが、調査官たちは彼にとって身に覚えのないことまで並べ立ててきた。 そこで彼が「ノー」と答えてはっきりと否定すると、調査官の一人のダイヤー大尉が、睡眠不足の長旅でくたくたに疲れ切っていた彼に殴る蹴るの暴行を加え、まったくの力ずくで強引に調書を署名させてしまったという。
幕田大尉と海軍兵学校で一期下の井上勝太郎大尉は、慶応大学経済学部の教室で警官から手錠をはめられるやいなや引きずり出されたと書いてある。幕田大尉も仕事先から強引に連行されたようだ。さらに彼の足跡を辿るー。
(エピソード55に続く)
*本エピソードは第54話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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