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「見ちゃいかん」滑走路のない旧日本海軍「秘匿基地」海面から飛び立つ”下駄履き特攻”で若者が死んだ

RKB毎日放送 / 2024年8月10日 12時4分

海面を滑走路代わりにして飛び立つ水上飛行機を旧日本海軍は数多く運用していました。実は福岡でも製造され、その基地もあったことはあまり知られていません。アメリカ軍が「速度が遅い」と記録していた水上飛行機までも特攻に使われていました。

「地元のものすら知らない」玄界航空基地

RKB 今林隆史記者「牡蠣小屋で有名な福岡県糸島市の船越地区ですが、この海には大戦末期の隠された歴史があります」

冬場は牡蠣小屋でにぎわう福岡県糸島市・船越漁港の一角に建つ記念碑。

大戦末期に海軍の「秘匿基地」=玄界航空基地があったことを伝えるものです。

建立されたのは戦後60年近く経ってからでした。

記念碑建立に尽力した中田健吉さん(81)「誰も知らないです。地元のものすら知らないくらいだから」

「海軍終焉の地」運用は終戦間近の数か月だけ

実家が銭湯で、兵士を受け入れていた中田さん。

知られていない基地の歴史を掘り起こすことに力を注いできました。

基地が運用されていたのは終戦間近の数か月だけです。

中田健吉さん(81)「玄界は海軍終焉の地なんだ。海軍航空隊じゃないですか、水上機といえども。ここで終戦を迎えたという意味だと思います」

航空隊の基地と言っても滑走路は無く、新たな施設も建てられませんでした。

”集落に溶け込むように”兵士は民家や寺で寝泊まり

兵士たちは民家に分れて宿泊。そのうちの1軒が当時8歳だった大部節子さんの家です。

大部節子さん(87)「あっちこっちに何か松原に隠してここは4機か5機ぐらいですかね。もう見ちゃいかん。近寄ってはいかん」

当時とほとんど変わらない2階のこの部屋に整備兵たちが寝泊まりしていました。

大部節子さん(87)「『私はここで死ぬ覚悟でしたから』と。なんかものすごくここに名残り惜しいようなそういう気持ちを持ってあったみたい」

水面から発着する「零式水上偵察機」

地元の資料館は玄界航空基地に関する展示を2年前から行っています。

志摩歴史資料館 稲冨聡さん「あえて基地としての施設を大がかりに作らない。住民の中に集落の中に溶け込むような感じで、施設も全ての集落の中の民家やお寺とか旅館なんかを借り上げて、基地の施設とした」

ロビーに展示されているのは基地で運用されていた零式水上偵察機(れいしきすいじょうていさつき)の部品です。

零式水上偵察機は、翼の下に浮き=フロートがあり水面から発着する飛行機で、主に偵察任務に使われていました。

大部さんが資料館に託した部品からこの偵察機が、福岡で作られていたことがわかります。

志摩歴史資料館 稲冨聡さん「銘板がついているんですよ」「製造所が株式會社渡邊鐵工所と書いてあります。九州飛行機のことですね。使用機体は零式水上偵察機一一型」

戦時中に軍用機を生産した「渡辺鉄工」

福岡市博多区の「渡辺鉄工」は戦前から続く会社です。

戦時中は「九州飛行機」という名前で軍用機を生産していて、当時の建物が今も使われています。

ただ、終戦直後にほとんどの資料が処分されたため詳細は伝わっていません。

「ゴジラ-1.0」に登場した「震電」も製造

その九州飛行機が製造したのが映画「ゴジラ-1.0」に登場した局地戦闘機「震電(しんでん)」です。

大刀洗平和記念館はゴジラの撮影で使われた「震電」の実物大の模型とともに九州飛行機について紹介しています。

大刀洗平和記念館 岩下定徳さん「学徒動員の方たちも含めて2万人以上の方たちが九州飛行機で働いていました。零式水上偵察機も戦時中1200機以上の生産を九州飛行機が手掛けていました」

現在の春日公園や陸上自衛隊の基地を含む広大な敷地があった九州飛行機で零式水上偵察機の8割が製造されました。

太平洋進出で重宝された水上飛行機

太平洋の島国パラオの海に沈んでいる零式水上偵察機。

広大な太平洋に進出しながら飛行場を十分に整備できない中で重宝されたのが水上飛行機でした。

現在、国内で唯一その機体を見ることができるのが鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館です。

国内「唯一」機体の展示

RKB 今林隆史記者「砂に埋もれた状態で発見された機体。福岡県の糸島にあった基地から飛来したものでした」

糸島の玄界航空基地から飛び立ち指宿の基地を経由して沖縄方面を偵察した零式水上偵察機。

米軍機の追撃を逃れながら帰る途中、燃料が切れて不時着したものです。

糸島の資料館に展示されているのと同じ部品が見えます。

有名な戦闘機零戦=零式艦上戦闘機と同じ1940年に採用された機体は大戦末期には旧式化していたということです。

万世特攻平和祈念館 楮畑耕一さん「アジア太平洋戦争中というのは、航空機の進化というのは非常に早かったと考えられています。陸海軍の戦闘機でも当時の連合軍の戦闘機にはおそらくかなわなかったのではないかと思いますので、零式水上偵察機はだいぶ旧式化していたと思います」

アメリカ軍が「遅い」 撮影された零式水上偵察機

1944年、アメリカ軍が攻撃中に撮影した零式水上偵察機の映像です。

この時、米軍の記録では零式水上偵察機について「速度が遅い」と報告されています。

「Jakes were slow」

その水上飛行機も特攻に使われていたことを伝えている鹿児島県の指宿海軍航空基地の跡地。

水上飛行機の基地があった指宿からはあわせて44機・82人が爆弾を抱え片道分の燃料だけを積んで飛び立ちました。

「特攻に志願」零式水偵の搭乗員だった98歳の男性

速度が遅い水上機による特攻はフロートを下駄に例えて「下駄履き特攻(げたばきとっこう)」と呼ばれました。

なぜ当時の若者は特攻に飛び立ったのか?

零式水上偵察機の搭乗員だった神馬文男さん(98歳)も上官に特攻に志願するか尋ねられたことがあります。

神馬文男さん(98)「搭乗員20人くらいで並んだんですけど、その時に『特攻を志願する者、一歩前に出れ』って。出たです、私。みんな出た。みんなが出た。残ったら大変でしょう。出なかったら。いや俺は行かないっていうね、そういう者が出るはずがない。環境が違う。出なければならない。行かなければならない」

神馬さん自身は特攻に飛び立つことはありませんでしたが、多くの戦友が特攻で命を落としました。

神馬文男さん(98)「みんな仲間が行った、次々行った。いつ自分の番になるだろうか。その方がむしろつらかったですよね。戦争終わったって聞いた時は何とも言えないね、感じだったんですね」

今も残る機体 戦争の理不尽さ

下駄履き特攻にも使われた零式水上偵察機に関する展示を行う意味を担当者はこう話します。

万世特攻平和祈念館 楮畑耕一さん「80年前にはこういう飛行機がたくさんあって、実際戦争に参加して、実際それには人が乗っていて、亡くなっている人たちも結構います。実際そういったことがあるということを喚起させる何かがこれにはあると思います」

志摩歴史資料館 稲冨聡さん「ここから沖縄に毎晩往復攻撃に出ました。かなり過酷なものだったと思います。死地に向かうのと同じなので、今平和だからこそここでそういった人たちが生活していたんだといったことを知ってもらいたい」

戦争を体験し証言できる人が減り続けている中、下駄履き特攻という言葉と今も残る機体は戦争の理不尽さを静かに語りかけています。

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