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特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#55

RKB毎日放送 / 2024年8月16日 17時6分

太平洋戦争末期の石垣島で、墜落した米軍機の搭乗員を処刑したとしてBC級戦犯に問われ、死刑になった幕田稔大尉。米兵3人を殺害した石垣島事件では、幕田含め全部で7人に死刑が執行された。山形市出身、剣道四段の達人で海軍の特攻、震洋隊の隊長だった幕田大尉は法廷の証言台でも軍人らしく毅然とした態度で事実を述べていたー。

◆幕田大尉は「明確に事実を述べた」

幕田稔大尉がスガモプリズンに入所したのは、1947年3月14日。3日前に逮捕の指令が出て、勤め先の北海道から連れてこられた幕田大尉は、GHQに接収されていた明治ビル(現・明治生命館)で取り調べを受けている。石垣島事件の戦犯裁判は。この年の11月26日から始まった。4ヶ月に満たない審理が行われて、翌年の3月16日に判決が宣告された。

法務省が1964年に石垣島事件の関係者に聞き取り調査をした記録が、国立公文書館に残っている。宮崎県在住の元二等兵曹が調査に応じていた。被告たちの法廷での証言態度の中に幕田についての記載があった。

(二等兵曹の面接調書) 特攻隊長、幕田大尉は長い証言を行い、明確に事実を述べた。幕田大尉は、精神的には疲れていた。検事は、そこにつけ込んで、ミスを作らせ、証言価値を衝こうとしたが、幕田大尉は自身が承知している範囲は明確に一切を証言してくれた。

石垣島事件の戦犯裁判では、石垣島警備隊の井上乙彦司令ら上官たちが命令系統を明瞭にしなかったために、処刑実行者たちが自主的にやったような筋書きになっていた。米軍の調査官がそういう筋書きを作って、それに沿うように被告たちから調書を録り、それを検事側の証拠として提出していたということもある。そのため、共同謀議で41人に死刑判決という異常な事態になった。

◆米軍調査官の暴行 当時は「生命に対する危険」

では、幕田大尉は法廷でどんな証言をしたのか。

外務省の外交史料館が所蔵している「本邦戦犯裁判関係雑件 横浜軍事裁判関係 『公判概要』綴(石垣島の部)」に幕田大尉が述べた要旨が載っていた。

幕田大尉は1948年1月27日(火)から5日間に渡って証言台に立った。初日の27日は田口泰正少尉の尋問が終わってからだったので、書面の確認だけで終わった。本格的な尋問は翌28日からだ。

<公判概要 1948年1月28日(水)> (幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 検事提出の第17号証及び第18号証は自由に作られたものではない。前者は明治ビルで作られたものであるが、ダイヤー調査官から首を絞められ、顔を叩かれ(これはかすった程度)足ですねを蹴られた。後者は3月22日頃から4日間、取り調べられた時のものであるが、この時もダイヤー調査官から腕をつかんで烈しく揺すられ、靴先ですねを蹴られた。明治ビルで首を絞められた時は、一時的ではあるが息苦しかった。生命に対する危険があったとは今は思わないが、当時は感じていた。 弁護側提出の第34号証が、検事に述べていることと違っているのは、当時は北海道から三昼夜ほとんど睡眠せずに来て、朝6時東京着、すぐに明治ビルに出頭し、頭がボンヤリしていたところに、ああだろう、こうだろうと強要されたためである。

石垣島事件を担当したヴァーネル・ダイヤー調査官は、ほかの被告にも暴行を加えている。特攻隊長の幕田大尉ですら生命の危険を感じる程だから、威圧感も相当なものだったと想像する。

◆誘導尋問で答弁を強要

(幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 直接、暴行され、脅迫された為ではない。検事側提出第18号証は、巣鴨で自分の口頭陳述を検事側で書いたものだが、刑務所へ入れられて調べられることは誰でも恐ろしいことだ。誘導尋問で答弁を強要され、自分の言わぬことが陳述書に書かれている。 例えば仇討ちというようなことは全然言った覚えがない。ダイヤー氏は「事件の筋書きは既に分かっている。お前を調べるのは、それに合うか否かを見るだけだ」と言い、こうだろうこうだろうと自分の答を封じ、言わんとする所を言わせず、先方の求める答を押しつけた。 署名の時は山田通訳一人で、且つ全部は和訳してくれなかった。自分の真の答がゆがめられているのは、署名の前になされたのか、署名の後に為されたのか分からない。英語は、少しは読める。法律は勉強したことはない。

◆恐怖のあまり「斬首は知らぬ」

(幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 明治ビルで取り調べを受けた時、初めは飛行士を斬首したことについては、知らぬと言った。それは恐怖のあまりであった。その時の尋問は4,5時間かかったが、その日のうちに自分は自白した。暴行は調査の時にされたので、署名の時には暴行はされなかった。署名の意味も分からず署名をした。 巣鴨刑務所内での暴行については、刑務所の職員に報告しなかったのは、その時の取調室に扉があったか否か忘れた。番兵が廊下を歩いていたかも知れぬがはっきりしない。自分は、呼び声は出さなかった。暴行を受けた時、刑務所職員に届けると言う規則のあることは知らなかった。 ○○が士官室で自分が言ったりしたことを証言しているのは、偽りを述べているのである。検事側提出第11号証で○○が○○斬りたいと言ったと述べているのは全く正しくない。この点に関する限り○○は嘘つきである。

なお、外交史料館のこの公判記録は、名前がすべて黒塗りになっている。(判明していない黒塗りの名前については○○で表記した)虚偽の証言については、幕田大尉ははっきり法廷で指摘している。

◆過去にも”斬首”の経験

(幕田への検事の反対尋問 答弁要旨) 自分は前に斬首の経験はある。しかし自分が本事件にて選ばれた理由は分からぬ。自分は志願したのではない。司令との問答内容は私が「司令、参りました」という意味のことを言うと司令は「幕田大尉、来たか」と言う意味のことを言われたので、「はい」と言うと司令は「今晩、処刑があるからお前が初めに斬れ」と言う意味のことを言われたので、自分は「はい」と命令を承知した。 自分は士官室に居た。他の者には何も言はぬ。処刑には自分の軍刀を使った。司令に会う前に斬首のことは知らなかった。司令の命令に対し、異議は申し立てなかった。士官室で反対意見は何も聞かなかった。

◆自分は斬りたいとは思わなかった

空襲後、本部に集まる慣例はなかった。他に志願者があるか否か知らなかった。自分は斬りたいとは思わなかった。田口の斬ることは士官室から処刑場に向かって出る少し前に聞いた様な記憶がある。 命令であるから、しなくてもよいように努力する余地はない。斬首志願者の有無を訊ねた事はない。当時と現在では状況が異なるので、当時、司令の命を断り得たか否か分からぬ。自分の選ばれた理由は分からぬ。午後9時頃、本部で司令から命ぜられ、初めて処刑の事を知った。司令からは最初にやるように言われた。

幕田大尉は繰り返し、自分が志願したのではなく「司令から命令があった」と述べた。

朝9時から始まった幕田大尉への尋問は、夕方4時半の閉廷まで続いた。そして、また次の日も朝から尋問が続いたー。
(エピソード56に続く)

*本エピソードは第55話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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