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パラリンピックの歴史や精神はスポーツ分野にとどまらない奥深さがある

RKB毎日放送 / 2024年9月6日 18時9分

車いすラグビー日本代表が悲願の金メダルを獲得するなど、メダルラッシュが続いているパリパラリンピックは、9月8日に閉幕する。「障害者スポーツの頂点とされるパラリンピックの歴史や精神には、スポーツという分野にとどまらない奥深いものがある」と話すのは、2021年東京大会で毎日新聞のオリンピック・パラリンピック室長を務めた山本修司さんだ。9月6日に出演したRKBラジオ『立川生志 金サイト』でコメントした。

パラリンピックの「パラ」の語源は?

最初に断っておきたいのですが、確かにパラリンピックは障害者スポーツの最高峰といえるのですが、障害者スポーツを包括しているわけではありません。パラリンピックのほかに障害者の国際大会としては、聴覚障害者の大会であるデフリンピック、それから主に知的障害者を対象とするスペシャルオリンピックスがあります。

一方、パラリンピックには聴覚障害者や知的障害者のカテゴリーはありません。パラリンピック=障害者スポーツではないということは押さえておく必要があります。

これは、パラリンピックの成り立ちに理由があります。パラリンピックの原点は1948年7月、イギリスのロンドン郊外にあるストークマンデビル病院の一角で、16人の車いす選手が参加したアーチェリー大会にあります。

第二次大戦で脊髄を負傷した兵士のリハビリが目的で、パラリンピックが、脊髄損傷などによる下半身麻痺を意味する「パラプレジア」の「パラ」と「オリンピック」を合わせた造語なのもこのためです。

国際オリンピック委員会(IOC)が「パラリンピック」を正式大会名と認めたのは1985年で、それ以前にも遡って使っていますが、すでに脊髄損傷以外の選手も出場していたことから、大会名の意味をギリシャ語で「平行」とか「もう一つの」を意味する「パラ」を使って「もう一つのオリンピック」として再解釈しました。これは豆知識です。

日本のパラリンピックの父は大分県出身の医師

最初のパラリンピックを実現させたのはこの病院のルードウィヒ・グットマン博士で「パラリンピックの父」といわれていますが、日本のパラリンピックの父は、九州の人なんです。

大分県別府市出身の医師・中村裕(なかむら ゆたか)さんは、障害者自立のための施設「太陽の家」を作ったことでも知られています。1964年に東京オリンピックが開かれ、この東京大会が、初めてオリンピックに続いてパラリンピックが開かれた大会となったのですが、これに尽力したのが、中村さんでした。

ここでちょっと、個人的な話も含めて脱線してしまうことをお許しください。太陽の家はオムロンやソニー、三菱商事、ホンダといった企業が出資して、障害者が職業を持って自立する当時としてはかなり画期的な施設なのですが、実は、私の父は毎日新聞の記者で、主に別府で取材活動をしていたときに太陽の家を何度も取材し、中村さんとはとても懇意でした。

父は64年の東京オリンピックで長崎支局から東京に派遣され、陸上競技の取材を担当したので、その面でも話が合ったのだと思います。私はそのとき中学生でしたが、太陽の家のお祭りがある時などに父の取材によくついて行って、お手伝いをしていたので、中村さんと話をしたことがありました。

大分弁で「お前、親父んごと新聞記者になるんか」などと聞かれて、「はあ、そう思うてます」と答えると、「やめとけ。新聞記者やら生活不規則やし、給料もたいしたことねえし、そげな仕事せんで医者になれ」などと言われたものです。

私が毎日新聞でオリンピック・パラリンピック室長を務めるとき、私は事件記者出身でオリンピックの取材をしたこともありませんでしたから「何の縁もない人間がオリパラを担当する」などと言われたものですが、実は結構大きな縁があったわけです。

“失う前よりも能力を発揮した”選手

本題に戻りますが、パラリンピックの精神は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」です。例えば右腕を欠損した選手は、残された左腕と足などを最大限に使って競技をします。

中には失ったのにそれ以上の実力を発揮する選手もいます。私がよく覚えているのは、イランのパワーリフティング選手、シアマンド・ラハマン選手です。パラリンピックのパワーリフティングは、仰向けに寝てバーベルを上にさし上げるベンチプレスのことで、大胸筋と上腕三頭筋を主に使うのですが、実際には足を踏ん張って、他の多くの筋肉も使うとより重いウエートをあげることができます。

ラハマン選手は足が不自由で、腰のあたりをベンチにベルトで固定して、上半身だけであげますので、当然健常者より不利なのですが、何と300キロをあげてしまうのです。健常者の選手でも、300キロをあげる人は何人もいません。

ラハマン選手は「健常者だったら300キロをあげられたかどうか分からない」と話していて、「残されたもの」を最大限に生かした結果、失う前よりも能力を発揮したというすごい選手なのです。「障害を負ってかわいそう」などというセンチメンタリズムを吹き飛ばすすごさをパラリンピックは内に持っているのです。

ラハマン選手は東京大会直前に亡くなってしまい、世界中のパラリンピアンやファンが悲しんだことをよく覚えています。

日本のパラリンピック選手育成には課題残る

日本の選手はパリ大会で大活躍でしたが、当初は大きな差がありました。先ほど述べたとおり、戦争の負傷兵士のリハビリがパラリンピックの始まりですから、ヨーロッパの選手はもともと屈強な軍人でした。

一方、日本では64年の東京大会当時は、障害者は家で寝ていなさいという感じで、そもそもの体力が違いますし、外国のパラリンピック選手は車いすで銀座などに買い物に行くなど楽しんでいたのに対し、日本では障害者は家にこもっていることが普通でした。

日本は第二次大戦以降戦争をしていませんから、もともとのアスリートが怪我をしたというケース以外は、体力的にそれほど優れていない選手が多かったのは仕方のないことでした。今は、東京にナショナルトレーニングセンターがあり、ここで障害者もトレーニングを積むことができます。これが活躍の背景です。

一方でまだ問題があります。床に傷がつくなどの理由で車いすの競技を許可しない体育館があるなど、決して環境が整っているとはいえません。先日の放送で、サッカーの発展は裾野が広がったところにあるというようなこと言いましたが、裾野を広げるためには、障害者も誰もが、ナショナルトレーニングセンターに来るレベルでない人も、スポーツを楽しめる環境を作ることが欠かせません。

私はメダルの数にはあまり興味がありませんが、こうした点は強調したいと思います。障害の有無にかかわらずどんな人もスポーツを楽しめる権利を持つことは当たり前のことですから、今回のパリパラリンピックを機に、当たり前の環境になることを望むばかりです。

◎山本修司(やまもと・しゅうじ)

1962年大分県別府市出身。86年に毎日新聞入社。東京本社社会部長・西部本社編集局長を経て、19年にはオリンピック・パラリンピック室長に就任。22年から西部本社代表、24年から毎日新聞出版・代表取締役社長。

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