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あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#65

RKB毎日放送 / 2024年10月25日 15時41分

スガモプリズン最後の処刑となった石垣島事件7人の絞首刑は、1950年4月7日金曜日、午前0時半ごろ執行された。5日の午後10時頃に執行の言い渡しをされた7人は、あと26時間ほどしか残されていない最後の時間をどう過ごしたのか。海軍の特攻隊長・幕田稔大尉は充分に睡眠をとり、家族に向けて最後の手紙を書き続けた。あえて「遺書」と題名を書かずにー。

◆肉親への遺書 処刑から32年後の掲載

戦犯たちの遺書を集めた「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会 1953年12月1日発行)には収録されていなかった幕田大尉が家族へ向けた遺書。「昨日今日の日記」と題された文は、「世紀の遺書」に先立って発行された、田嶋隆純編著「わがいのち果てる日に」(1953年7月31日発行)には掲載されていた。田嶋隆純は死刑囚たちに最後まで寄り添い、「巣鴨の父」と慕われた教誨師だ。

そして亡くなってから32年後、三十三回忌を迎える1982年に「刀剣と歴史」(昭和57年11月号)刀菊山人<なまくら剣談(三十)>に掲載された。遺族は、遺書を大切に保管していたのであろう。そこには、母、弟、妹ら肉親への心遣いが刻まれている。

◆人間その境遇になれば誰でもこんな心境に

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>※現代風に書き換えた箇所あり
「人間の生死一大事因縁を究むる」というと難しく聞え、又私がここで云うと、いささか大ぼらに聞えるかも知れないが、確かにこんな心境に違いない。考えてみれば、人間必ず一度経験しなければならない死をさほど特別扱いにするのが間違っている。 人間は自らその境遇になれば、誰でもこんな心境になるだろう。現に私より更に若い井上(勝)、田口、成迫、藤中の四友も実に平然堂々たるものではないか。私は殺されるのではない。私は仏法の一行者として心魂を傾けて得た私の体験を――自己即世界宇宙と云い表現するよりほか仕方のないものであるが、――生死の道場たる私の生涯に於いて私自身が実証してみるのだ。その体験が真であったか、偽であったか自ら実験せんとしているのだ。

◆ほのかな安心感の中に無限の勇気

石垣島事件で死刑執行される7人は、50代の井上司令と40代の榎本中尉。あとの5人は31歳の幕田大尉の下はいずれも20代の4人だった。副長の井上勝太郎大尉と、田口泰正少尉。成迫忠邦と藤中松雄は下士官だ。死刑執行の言い渡しの為に死刑囚の棟を連れ出される時も、一人ずつ部屋に入れられる言渡式を廊下で待つ時も、取り乱すことなく落ち着いていた。

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> よぼよぼに老いさらばいて自然消滅の死を私がせずに済む事を私は感謝する。こんな事を考えているとほのかな安心感の中に無限の勇気が湧き出るのを私は感ずる。勇気というより「生き甲斐」というのが適当なのかも知れない。実際こんな事を書いているとき、遠くに聞ゆる省電の警笛、かすかなる自動車のサイレンの音。それに強烈ではないが、何とも云えないほのかな安心と喜びを見出し得る。

◆私はこの世界なのだ

「省電」というのは鉄道事業を鉄道省や運輸省が運営していた時代の呼び名で、国鉄は1949年6月発足なので、幕田大尉が遺書を書いている1950年4月時点では「国電」になっているが、スガモプリズンに3年在所し、国電になってから乗車した経験がない幕田にとっては、省電のほうがなじんだ名称だったのだろう。すでに敗戦から四年半が経過し、塀の外は戦後復興が進んでいた。房に聞こえて来る外の音に耳を傾けながら、幕田は鉛筆を走らせる。

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 私のきたない肉体は亡びてこの苦しく又楽しい娑婆は残るのだ。永遠なのだ。清い事も、きたない事も、喜びも、悲しみも、且つ歓楽の街さえも私の無限の安心の代償としてあるのだから少しもさびしいとは思わない。「私はこの世界なのだ」だから私の墓は今咲き盛っているであろう桜の花であり、春霞棚引く龍山であり、千歳山であり、天上に燦く星であり、春の朧の月であり、雪にうずもれた遠山であり、みる物聞く物私ならざるはなしと言う事が出来ます。 そればかりでなく私はそのまま母上であり、弟、○子、○子等々でもある事を信じて下さい。私は必して死滅してしまったのではないのです。この様に私は絶対不滅の所に少なくとも片足ぐらいは立っている確固たる自信があります。

◆今度が最後の親不孝

幕田大尉は1937年、18歳で海軍兵学校に入校。4年後卒業して海軍少尉候補生となり、潜水母艦に乗り組み海戦へ。翌年、海軍少尉に任官される時の公文書が残っていた。「幕田稔外二十四名任官の件」として、25名の筆頭として幕田の名前が記されている。

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 私も考えてみれば随分親不孝をしたものです。戦争中から家をかえり見る事もなく、浮浪児の様にさまよいつづけ、たまに内地に帰ったと思うと、大怪我をして病院に横たわり、母上の心をわずらわし、横須賀くんだりまで再三足を歩ばせ、又九死に一生を得て復員したと思う間もなく巣鴨に無賃宿泊を続け、散々心配かけました。 そして今度が最后の親不孝です。しかし私は内心ひそかに誇り、満足しており、この諸々の親不孝の償いになると思っている事が唯一つあります。「我は世界なり」と何のためらいもなく声高らかに、絶対の確信を以って言明出来る事です。私は西方十万億土に行くのでも、天上に昇天するのでも、霊魂となってふわふわ飛び歩くのでもありません。私は実にこのまま、この無限成る大自然であり、複雑な人間社会でもあり、母上や皆さん、それ自体でもあるのですから。~一分一厘の間隙をはさまず、文字通り理窟なしに~そうなんですから。私の絶体真実なる体験を信じて戴けば、これ程安心の出来る事はないと思います。

◆私がちょっと”雲がくれ”したと思って

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 時間と空間を超越して即ち如何に遠く離れていようと、かつ永遠に皆さんと一体なのです。そしてたかが五十年の短い人生などとケチな事を言わずに、無限に、永遠に母上初め皆さんを守護し、導いてやろうと豪気な事を一人で今ニタニタ笑いながら考えている所です。否考えているのでなく確信を持ってそうしようと意図しているのです。だから皆さんもこのとてつもない豪気な幸福を得られるのですから、私が一寸雲がくれした様にただ、形だけ見えなくなる悲しみに勇敢に堪えて下さい。 資本を出さずに利益ばかり得んとしても無理な事ですからチョッピリ悲しみのもとでと思い我慢しなさい。私もこの私の絶体の確信たる「自己は世界なり」との釈尊の、道元禅師の結論を得るまでは今考えても、吾ながらよくやり得たと思う程の莫大な代償を払っているのです。

◆仏を求め暗黒を彷徨った

<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 一昨年九月頃から昨年五月二十五日まで、真に寝食を忘れ、起きて考え、寝て考え、飯を食いつつ考えたものです。それも田島先生(田嶋隆純教誨師)が未だ来られなかったので岡田氏(東海軍司令官岡田資中将)の一週間一遍の話を聞くほかは、全く独力で考えました。そして五里霧中の暗黒を、仏を求めて彷徨いつづけました。そして最后に全く思いがけなく出た究極の結論が、前に述べた唯の七語だったのです。自己の内なる暗黒の欲望や、盲目の衝動と血みどろになって闘い続けたのでした。

幕田は”悟りをひらいた”過程までを家族に説明したあと、弟や妹へ、人生の先輩として遺す言葉を書き始めたー。
(エピソード66に続く)

*本エピソードは第65話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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