死刑執行された下士官の姿を探して「これは忠邦さんに間違いない」泣き崩れた94歳~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#72
RKB毎日放送 / 2024年12月13日 15時27分
石垣島で米軍機搭乗員3人を殺害した「石垣島事件」で、BC級戦犯として死刑執行された28歳の藤中松雄ら7人。そのうち26歳で命を絶たれた成迫忠邦は、最年少の下士官だった。大分県佐伯市の500戸の集落出身の成迫は、村で唯一の大卒の若者。「眉目秀麗だった」という成迫の写真を特定しようと、アメリカの国立公文書館が所蔵する写真を手に、大分県へ向かった。訪ねたのは94歳の男性。成迫は、戦死した兄の友人で、面識があった。写真を見た男性はー。
◆写真を確認できる男性に連絡が取れた
成迫忠邦の故郷は、大分県佐伯市木立。この木立在住の武田剛(こう)さんという方が、地元の歴史を調査研究している佐伯史談会が発行した「佐伯史談210号」(2009年7月)に、「成迫忠邦さんの思い出」という文章を残していた。武田さんにお電話をしてみると、ご高齢のため、電話の声が聞き取りにくいということだったが、「成迫忠邦」という名前を出すと、声のトーンが変わった。
「武田さんは、成迫忠邦さんをおぼえていらっしゃいますか?」
「はい、わかります。成迫さんを忘れたことは一日もありません」
「成迫さんの写真を見たら、この人だとわかりますか」
「はい、わかります」
武田さんは力強く答えてくださった。2024年6月。私たちは佐伯市へ向かった。
◆海軍基地がおかれ「軍都」として発展した佐伯
佐伯市といえば、豊後水道の喉元に位置し、観光スポットとしては「寿司」のまちとして有名だが、歴史をみれば海軍と関わりが深い地だった。
1934年(昭和9年)に、日本で8番目の海軍航空隊が佐伯におかれたが、それ以前、明治時代後半から毎年のように演習のため艦隊が集結していたという。つまり、「軍都」として街が発展したという経緯があった。
日中戦争や真珠湾攻撃では重要な役割を担う地となったが、それゆえに終戦間近には航空隊基地の存在が攻撃の標的となって、度々、空襲に見舞われたという。
◆戦争体験の「語り部」
成迫忠邦の故郷、木立は、海沿いのエリアからは15分ほど山に向かって車を走らせたところだった。武田さんの自宅は、緑に囲まれていた。
1929年生まれの武田さんは、終戦時16歳。ご自宅には武田さんが描いたという油絵がたくさん飾られていた。こども時代の佐伯は、海軍景気で沸いていた。佐伯湾に停泊する軍艦を見に行って、戦艦の名前をおぼえたという。1941年には戦艦や航空母艦、巡洋艦など数十隻で構成された艦隊も山頂から見ていた。真珠湾攻撃の直前だったという。
6歳年上の兄はサイパンで戦死。空襲で遺体を目の当たりにしたり、機銃掃射で吹き飛ばされたりした。そうした体験を地元の小中学校で話していたそうだ。
◆忠邦さんの写真じゃよ
まず、「スガモの父」、田嶋隆純教誨師の遺品にあった、白い海軍制服姿の青年の写真をおみせした。武田さんはじっと見ていたが、確信を得られないようで、何も言わなかった。次に、横浜裁判で判決を受ける青年の写真を見てもらった。こちらはアメリカの国立公文書館が所蔵しているものだ。武田さんはこの写真もしばらく凝視していたが、写真を手にしたまま、すっと立ち上がると、戦死した兄や妻らの遺影が並ぶ仏壇のほうに移動した。そして、「忠邦さんの写真じゃよ」と言って、嗚咽を漏らした。
考えてみれば、この判決を受ける青年が成迫忠邦であるとすれば、宣告されている判決は「死刑」ということになる。武田さんは写真の人物が成迫であると認識した瞬間に、気持ちがこみ上げたようだった。しばらくして、武田さんはもとのイスに戻られたが、「これは忠邦さん、間違いない」とつぶやくように言った。
◆パインの缶詰とクワガタの思い出
武田さんには、小学生のころ、中学生の兄に連れられて成迫家を訪ね、当時はめったに口にできなかったパイナップルの缶詰を御馳走になり、さらに空き缶一杯に成迫がクワガタを捕って詰めてくれたという思い出があった。
そして、成迫が死刑判決を受けたあと再審でも死刑となり、当時村長だった武田さんの父がその知らせを成迫家に伝える役目となっていた。父がふすま越しに泣いていたのを武田さんは聞いていた。実はそのあと、武田さんの父は急死してしまったのである。
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月)
「お父さんが倒れた。早くこれに乗って帰れ!!」と言う。自転車に飛び乗って帰ったら、父は忠邦さんの家に行く途中、我が家から1キロ程の所で倒れ、戸板に乗せられていて、その場で医師の治療を受けていた。狭心症だと言う。
武田さんの父は、役場の職員に成迫家への伝達を遺言して、翌日息を引き取った。1949年3月9日のことだ。56歳だった。内ポケットに入れられていた成迫の「再審も死刑」の知らせは、葬儀が終わってから職員によって成迫家に届けられた。
◆死刑囚からのお悔やみの手紙
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 父の死は成迫家から巣鴨拘置所の忠邦さんに知らされたのか、忠邦さんから丁寧なお悔やみに手紙が届いた。死刑囚からのお悔やみの手紙である。薄い便せんの四枚にびっしりと書かれている。母はそれを読み、せき上げて泣いた。お悔やみの文のあとに、「自分はもう佛のふところに抱かれたような気持ちである。決して心配してくれるな」という悟りのような事を書いているのが何ともやりきれなかった。しかしその手紙の終わりに数首の歌が添えられてあった。その中の一首。
盂蘭盆(うらぼん)のひと夜衣とりかえて 我と踊りしかの少女はも 以来私は盆踊りがつらい。
武田さんは、この手紙を大事にとっていた。金庫の中から出て来た、「死刑囚からのお悔やみ」は、小さな字で丁寧に便箋いっぱい、びっしりと書かれていた。
緑に囲まれた静かな村には、悲しみが立ちこめていたー。
(エピソード73に続く)
*本エピソードは第72話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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