スガモプリズンで叶わなかった面会「ストップ!」とMPに阻まれ カービン銃をつきつけられた男性~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#73
RKB毎日放送 / 2024年12月20日 9時57分
1950年4月7日、28歳の藤中松雄と一緒にスガモプリズンで死刑が執行された下士官、成迫忠邦。26歳で命を奪われた成迫を直接知っている男性がいた。同郷の武田剛(こう)さん。武田さんは、当時500戸の全村民の助命嘆願書を担いで、スガモプリズンまで届けに行ったという。しかし、MP(米軍の憲兵)に銃をつきつけられ、塀の中にいる成迫に会うことは出来なかった。そして、間もなく村に届いた知らせ。激震が走ったー。
◆日大の学生だった成迫忠邦
成迫忠邦のふるさと、大分県佐伯市木立。現在も木立にお住まいの武田剛(こう)さんは、94歳。(2024年6月取材時)サイパンで戦死した兄と親しかった成迫のことはよく憶えている。日本大学の学生になった成迫は、帰郷した時、武田さんの頭に角帽をかぶせてくれた。こどもだった武田さんから見ても、成迫は綺麗な顔立ちをしていたという。
そんな成迫がBC級戦犯として囚われ、一審で死刑の判決が出たあと、さらに「再審でも死刑」という過酷な知らせが届いた。それを成迫家へ届ける役目だった武田さんの父(当時の村長)は、成迫家に向かう道の途中で心臓の病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
その10ヶ月後、武田さんは村の青年団の活動発表で上京する際に、成迫の減刑を求める嘆願書を持っていくことになった。
◆村中の嘆願書を担いでスガモプリズンへ
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月)
青年団員は手分けしてまたたく間に全村民の署名を集め、私は団員からのお餞別で汽車の切符を買い、リュックサックに署名簿と上京中食べる米を六升ばかり入れて「よし、この署名簿で助命をかちとってみせる」と、はやる気持ちで汽車に乗り込んだ。助命嘆願などどこでどうするのかさっぱり知らないまま、行けばどうかなるという旅立ちだった。 いよいよ巣鴨の忠邦さんに面会に行った。巣鴨の駅に降りると一面の焼け野原に高さ7~8メートルはあろうかというコンクリートの高い壁が延々と連なっていた。「あの中に忠邦さんが居る、やっと会える」と、高鳴る気持ちでその壁にたどりつき、正門をめざした。門には白いヘルメットにMPと書いた米兵が二名、カービン銃を横に持って立っていた。門の前に小さな事務所があり、米兵と日本人も居た。
しかし、面会したい旨を告げると、「肉親しか会えない」と言われた。署名簿も見せたが、係は首をふるばかりで、「気の毒だが帰りなさい」と言う。居ても立っても居られず、武田さんは門に近づき、入ろうとした。
◆塀の向こう側にいるのに会えない
(武田剛さんの話) 「スガモプリズンに2,3歩入ったら、『ストップ』って言われて、カービン銃で押し返されたんですよ。それでどうしても会えんで。この塀の向こう側におるのに、会わしてくれたらよかのに会えんで。情けのうて、わんわん泣いたんですよ。背中に助命嘆願の村中の署名簿を担いで行ったんですけど」
武田さんは、「忠邦さーん、忠邦さーん、武田のこうです。忠邦さーん」と壁を叩いて、幾度も叫んだという。翌日、GHQへも足を運んだが、とても近寄れる雰囲気ではなく、誇らしげに闊歩する米軍将校たちの姿に、「ああ戦争に負けたんだ」と気落ちしたそうだ。
すし詰めの列車に四十時間ゆられて木立村に帰り着き、青年団に「折角の署名簿も役に立つかわからない」と報告したら、二百人近い団員が皆じっとうつむいて、誰一人質問をする人もなかったという。
◆いくばくの我の余命か
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 成迫さんに「面会に行きましたが会うことが出来ませんでした」と手紙を書いたら、すぐ返事が来て、わざわざ来てくれたことを感謝する言葉のおわりに次のような歌が添えられていた。 いくばくの我の余命か今日も又 母の写真を取り出して見し この歌に胸を突かれるような想いがしたあとすぐの、四月の初めに村に激震が走った。四月七日に忠邦さんが処刑されたという。呆然として、お悔やみに伺った。星の見えぬ暗い夜、成迫家はあかあかと灯がついていた。沢山の弔問の人は皆おこったような顔をしてあまりものを言わなかった。
◆忠邦は春雨に濡れて行った
成迫に刑場まで寄り添った田嶋隆純教誨師から、家族には最期の様子が伝えられていた。武田さんは成迫が言い残した言葉を聞いた。
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛) 遺骨の前にお母さんが打ち伏していた。忠邦さんは「忠邦は春雨に濡れて行ったとみんなに伝えてください」と最後の言葉を言い残し、刑場に入ったという。私は歯がみするように悔しかった。
武田さんは、アメリカの国立公文書館に残されている、死刑宣告を受ける成迫の写真を手に、目を伏せて、つぶやいた。
「美男子で優しい人やったんや。ああ、なんと、なんとも、戦争ちゃむごい」
(エピソード74に続く)
*本エピソードは第73話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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