『あの頃ペニー・レインと』公開20周年、監督が明かす制作秘話

Rolling Stone Japan / 2020年11月23日 22時35分

撮影現場でのクロウとペニー・レイン役のケイト・ハドソン(Photo by Neal Preston/Dreamworks pictures)

公開から20周年を迎えた映画『あの頃ペニー・レインと』。監督のキャメロン・クロウが自ら語る制作秘話、そして今なお色褪せないジャーナリズムと音楽の力を伝えるメッセージとは?

・ゼロ年代屈指の名作となった理由

1996年の作品『ザ・エージェント』が興行収入2億7000万ドルを記録し、さらにアカデミー賞5部門にノミネートされたことで、脚本と監督の両方を手がけたキャメロン・クロウは、かつてなくパーソナルな映画を撮るだけの自由を手にした。彼が描こうとしたのは、10代の頃にローリングストーン誌の記者としてデヴィッド・ボウイやレッド・ツェッペリン、ジョニ・ミッチェル等にインタビューを行った、70年代の体験に基づいた半自伝的な物語だった。「『ザ・エージェント』の成功によって信用を得たからね」。ロサンゼルスの自宅から電話取材に応じてくれたクロウはそう話す。「その時こう思ったんだ。『これを利用しない手はない。今を逃したら、この映画を撮るチャンスはもう二度とやってこないだろう。ものすごくパーソナルなこの作品を、できるだけお金をかけずに撮ろう』」

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2000年に劇場公開された『あの頃ペニー・レインと』は評論家の間で高く評価され、アカデミー賞4部門ノミネートを果たしたが、興行収入の面では失敗に終わった。「『エクソシスト』の再上映と被っちゃったんだ」。クロウはそう話す。「1973年の呪縛からは逃れられないんだって、改めて思い知らされた気分だったよ」。しかし公開から20年が経った現在、『あの頃ペニー・レインと』は単なるカルト・クラシックではなく、ゼロ年代屈指の名作として広く愛されている。「僕らは弱者の立場にあったけど、長い時間をかけて支持者を増やしていった」。彼はそう話す。「今になって、あの映画はすごく人気を集めてるんだよ」



クロウは現在、同作のブロードウェイ版の制作に取り組んでいる。公開20周年を迎えた『あの頃ペニー・レインと』について、クロウはノスタルジーとプライドの入り交じった思いを抱いているという。「動機はすごくシンプルだった。『ジャーナリズムについての映画を撮る機会なんて、そう簡単には巡ってこない。自分を支えてくれた人々や、音楽を愛する全ての人々のために道を切り拓いた者たちに、今こそエールを送りたい』。そう思ったんだ。あの映画を観た人たちは、音楽を愛する気持ちを再確認できたと思う。僕はそれを何よりも誇りに感じているんだ」


(スティーヴン・)スピルバーグはこう言ってくれたよ。「撮れる画は全部撮れ」ってね

ーロックをテーマにした映画は、大半が見当違いなものになりがちです。『あの頃ペニー・レインと』も、当初は懐疑的な見方が多かったのではないでしょうか。

クロウ 昔ピーター・フランプトンと一緒に、オーセンティックさを謳うロック映画をこき下ろしてたんだ。ある日彼に、1973年が舞台のロックをテーマにした青春映画を撮るから一緒にやろうって持ちかけると、彼はこう返してきた。「何だと? お前も魂を売っちまったのか! それが実現不可能なテーマだってことを、お前はよく知ってるはずだろ?」ってね。撮影中はその言葉が頭から離れなかったよ。

ー『あの頃ペニー・レインと』が公開された当時は、ティーンムービーと予算をかけたアクション映画が全盛でした。時代に逆行しているという実感はありましたか?

クロウ もちろんだよ。だから興収の面で成功しなかったことにも、特に驚きはしなかった。僕はあの機会を、『ザ・エージェント』の成功に対するご褒美みたいに捉えていたんだ。ドリームワークスを立ち上げたばかりだった(スティーヴン・)スピルバーグはこう言ってくれたよ。「撮れる画は全部撮れ」ってね。ブラッド・ピット(当初ラッセル・ハモンド役を演じる予定だった)の代役を探すことになった時も、特に圧力をかけられたりはしなかった。スピルバーグはこう言ってたよ。「真のスターは脚本だ」

ーローリングストーン誌の記者として取材をしていた頃、それらが映画の素材になると考えたことはありましたか?

クロウ まったくなかったね。だって当時は、ローリングストーン誌に寄稿すること自体が僕の夢だったから。今はサンディエゴに住んでた頃のことを題材にした自伝を書いてるから、当時の資料に目を通す機会が多いんだ。1973年付のスケジュール帳が出てきたんだけど、予定がぎっしり入ってる。「ジミー・ペイジと電話取材、ジョン・プライン、ボニー・レイット……」みたいなね。毎日大好きなアーティストにインタビューすることができて、お菓子屋さんではしゃぐ子供みたいな気分だったよ。

ーとはいえ、あなたはただ賞賛を送るだけじゃなく、手厳しい質問もしていますよね。

クロウ 相手がジョニ(・ミッチェル)のようなアーティストの場合は、敬意を示しつつも棘のある質問をした方がいいんだよ。彼女はそういう質問に答えるのを楽しんでた。君がそのことに気付いてくれてうれしいよ。僕はリサーチをすごく大切にしていたからね。最近はそうでもないけど、当時はその意義を軽視する音楽ジャーナリストがたくさんいたんだ。レッド・ツェッペリンをこき下ろした人は山ほどいた。ローリングストーンを含むロック専門誌を開けば、何も分かってないような輩を必ず目にしたよ。だから分厚い手帳に手書きでぎっしりと質問を書き込んでるようなジャーナリストに対しては、アーティストも「少なくとも、こいつは俺たちの音楽を知ってるんだな」って感じるんだ。

ー70年代に経験した出来事の中で、あまりに非現実的で映画には使えなかったことなどはありますか?

クロウ 何もかもが1973年に起きたわけじゃないよ。映画で描かれてるのは、あくまであの時代の縮図なんだ。僕は18歳になるまで免許を取らなかったんだけど、ローリングストーンとプレイボーイ用にボウイを取材した時には、彼が車であちこちに連れてってくれた。『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディングに一晩中立ち会ったこともあったよ。黄色のフォルクスワーゲンで、朝の渋滞に巻き込まれながら、僕を泊めてくれてた(フォトグラファーの)ニール・プレストンの家までよく送ってもらったよ。

窓の外では職場に向かう弁護士たちが行き交い、黄色の小さなVWのバグの運転席には髪を赤に染めたデヴィッド・ボウイが座ってる。ロックスター的なエピソードからは程遠いけど、非現実的な光景であることは確かさ。実際に目撃しない限り絶対に信じてもらえないようなことを、当時はたくさん経験したよ。

つい最近、ボウイにインタビューした時のテープを聴き直したんだ。ローリングストーン誌で彼の作曲プロセスを紹介するっていう企画で、彼はそのために1曲書き下ろしてくれてた。そのテープには、誰も聴いたことがない彼の曲が収録されてるんだよ。そういう経験は、僕にとってかけがえのない宝物さ。

ーあなたをモデルにしたウィリアム・ミラーという役柄と、実際のあなたの違いを挙げるとしたら?

クロウ 僕はどっちかというとお調子者だったってことかな。でも僕はミラー役を演じたパトリック(・フュジット)ほど、周囲の世界に対する思いを饒舌に表現することはできなかったね。パトリックは見事に演じたと思う。周囲に馴染もうと努力し、その世界に自分の居場所を見つける。ウィリアムはそういうキャラクターなんだ。


ワインバーで告げられた楽曲使用の返答とは?

ー映画ではレッド・ツェッペリンの曲が複数使われています。あなたはロンドンまで赴き、ジミー・ペイジとロバート・プラントに映画を観てもらったそうですが、彼らの反応はいかがでしたか?

クロウ 却下されるリスクは承知してたよ。劇中ではレッド・ツェッペリンの曲を4つ使ってるんだけど、(サントラのプロデュースを担当した)ダニー・ブラムソンはバンド側と密にコミュニケーションを取ってたし、最大限の敬意を示そうとしてた。僕らはジミーとロバートが顔をあわせる稀なタイミングに合わせて行動し、テープを入念にチェックし、ビジネス面の話を詰めた。その日の終わりに、あるホテルの地下劇場で2人に作品を観てもらったんだ。

立ち会ったのは編集担当のジョー・ハッシング、ダニー、それに僕の3人だけだった。僕らは最後列に座り、ジミーとロバートは前から3列目に並んで座ってたよ。2人は時々顔を寄せて、互いの耳元で何か話してた。彼らの頭が動くたびに、僕らは顔を見合わせてこう言った。「ヤバい、彼らは退出するタイミングを見計らってるんだ」

「俺は輝ける神だ!」っていうあのシーンでは、プラントはただ笑ってた。豪快な笑い方で、「まだ望みはあるらしいぞ」って胸をなでおろしたよ。ジェフ・ベイブに「ラッセル、お前ハイになり過ぎて『俺は輝ける神だ』って叫んでたぞ」って言われて、ビリー(・クラダップ)が「言ってねぇよ。いや、言ったのか?」って返すシーンで、プラントは「確かに言った!」って声を上げたんだ(笑)。あの時はこっそりハイファイブしたよ。

映画を観終えた時、2人とも笑顔だった。プラントは通路を上がってきて、僕らの隣に立つとこう言った。(見事にロバート・プラントになりきって)「キャメロン、君の母親は本当にあんな感じなのか?」って言われて、「実際はもっと極端ですよ」って僕は返した。彼は笑って、ジミーに向かってこう言った。「70年代前半からずっとしまったままのメタカロン(薬物の一種)が家にあるんだけど、今夜は使っちまおうかな」



ー楽曲の使用許可はどうやって得たのですか?

クロウ ホテルを出た後、彼らが通りの向かいにあったワインバーに連れていってくれたんだ。そこで彼らはこう言った。「悪いが『天国への階段』は却下だ、あれはトゥーマッチだからね。あの曲は何にも使わせないことにしてるんだ」。肩を落とす僕らを見て、ペイジはこう言ってくれた。「代わりに、バスキングっぽいアコースティックの曲を提供するよ。それならタダで使ってくれて構わない」。それで「天国への階段」が「ブロン・イ・アー」に置き換えられたんだ。

映画に穴を開けないために曲を無償で提供してくれるなんて、本当にうれしかったよ。ワインバーを出た後はみんなで通りを走って、その後はジェフ・バックリィがいかに素晴らしいかをひたすら語り合った。まさに最高の夜、いやむしろ最悪の夜と言うべきなのかな。いずれにせよ、ものすごく勇気付けられたことは確かだよ。レッド・ツェッペリン抜きじゃ、あの映画は成立しないからね。

ー当初はニール・ヤングが出演する予定だったんですよね?

クロウ 彼はラッセルと疎遠になっている父親のハリー・ハモンドを演じる予定で、若い妻を連れてクリーブランドでのショーのバックステージを訪れるっていうシナリオだった。2人はショーの出来を讃えるんだけど、ラッセルはその女性の視線を感じ、息子の成功に預かろうとする父親がただ弄ばれているんだと気づく。名声が複雑な親子関係をどう変化させるのかを描いた、切ないシーンなんだ。

ちょっとした見どころになるはずだったんだけどね。ベッツィー・フェイス・ハイマンがニール・ヤングの衣装を担当してて、当日着る服なんかも全部用意してたんだけど、当日の朝になってドタキャンされたんだ。でも彼は「コルテス・ザ・キラー」のアコースティック版の提供を申し出てくれて、アーカイブの中から完璧なテイクを掘り出してミックスまでやってくれた。だから全部チャラなんだ。


「可愛いダンサー」のシーンが共感を呼んだ理由

ー「可愛いダンサー」のシーンが多くの人の共感を呼んだ理由は何だと思いますか?

クロウ (キーグリップの)ハーブ・オルト、そして(照明のチーフテクニシャンの)ランディー・ウッドサイド、そしてバスの上に組んだクレーンから撮影したカメラクルーの功績は大きいね。そういう方法で浮遊間のある画を撮ることができたから、編集に頼り過ぎることなく、どこか夢見心地なムードを作り出せたんだと思う。それに、あの映画は音楽を愛する気持ちを描いたものだし、音楽が人々を再び結びつける媒介になっているんだよ。

ー「もう帰らないと」「あなたが帰る場所はここよ」というラインが即興だったとは驚きです。

クロウ 僕がその場で思いついて、「試してみよう」って提案したんだ。あの場面で学んだことは大きかった。自分が映画の世界の一部になって、登場人物がすぐ隣にいるように感じられる。彼らの発する言葉がリアリティを帯び、観客にまっすぐ届くんだよ。

ー「可愛いダンサー」は当時、現在ほど人気のある曲ではありませんでした。

クロウ 大ヒットしたわけじゃなかったけど、あの時代のムードを見事に捉えた曲だと思う。エルトン・ジョンは作品を観てこう言ってくれたんだ。「素晴らしい。”可愛いダンサー”は今でも私のお気に入りだからね、とてもうれしいよ」。何年もの間、彼はショーであの曲をプレイするたびに、映画について触れてくれていたんだ。「この曲は『あの頃ペニー・レインと』がきっかけで有名になった」ってね。そんなことをする人は滅多にいないよ。彼は最高さ。



ースティルウォーターのその後について考えたことはありますか? ヘアメタルに転向したり、アルバムをリック・ルービンがプロデュースしたりするのでしょうか?

クロウ 『Farrington Road』(スティルウォーターの3rdアルバム)で、彼らは新しいことに挑戦し始めてた。ジャケットに自分たちの写真を使わなかったりね。あれ以降はコンセプトアルバムに挑戦したかもしれない。「Fever Dog」や「Love Thing」のヒットを経て、彼らなりの『海洋地形学の物語』を作ったかもしれないね。

それは(ジェフ・)ベイブが主導権を握った2枚組アルバムなんだけど、ラッセルが手がけたクールなインスト曲も多く収録されてる。でもセールス的には大失敗に終わるんだ。バンドは解散して、メンバーは何年もの間疎遠になる。再結成を何度も試みて、80年代にアルバムを1枚くらい出したかもしれない。その後彼らはHouse of Bluesのツアーバンドになったり、(ドラマーの)サイレント・エドがやってるバンドに加わったりする。やがてサイレント・エドがスティルウォーターの顔になり、ベイブはソロ活動を始める。ラッセルのことはまだ決めてないけど、イーグルスに加入するかもね(笑)。あるいは別のバンドでジョー・ウォルシュ的存在になるんだ。

ーいま作品を観ると、2000年当時と10代の日々のノスタルジーを同時に喚起すると思いますか?

クロウ そう思うね。ブロードウェイ版ができたら、3重のノスタルジーを覚えることになるかもしれない。3つの異なる時代を同時に追体験するわけだ。これ以上はやらないほうがいいだろうね(笑)。前に進まないと。

あの映画と物語と一緒に伝えたいのは、心からの感謝の気持ちだね。すべての音楽ファンに、素直に「ありがとう」と伝えたい。そして、ジャーナリズムを讃えたい。ヤン・ウェナー(ローリングストーン誌の創刊者)がレッド・ツェッペリンを担当させてくれたことで、僕はその素晴らしさを知ったから。母さんと父さんにも感謝してる。彼らは皆、僕のことを信じてくれた。彼らをお手本に、僕も自分以外の誰かを信じるようにしてきたつもりだよ。この映画は、僕のそういう思いを形にしたものなんだ。



from Rolling Stone US



解説:キャメロン・クロウ監督のフィルモグラフィ

1957年にカリフォルニアで生まれたキャメロン・クロウは、小学校を飛び級で卒業する天才児だった。13歳のときには地元のロック同人誌に寄稿するようになり、『クリーム』を創刊した伝説的なロック・ライター、レスター・バングスと親しく交流するようになった。

ローリングストーンから記事執筆の依頼が舞い込んだのは15歳のとき。すぐに彼は雑誌に欠かせないスタッフとなった。70年代以降のロックの変化に戸惑っていた年上のライターたちとは異なり、10代のクロウにとっては同時代のサウンドすべてが新鮮に響いたからだ。アーティストたちからも愛され、イーグルスやジョニ・ミッチェルなどから取材記者に指名されることも多かったという。

ローリングストーンが映画進出を模索しはじめると、21歳になっていたクロウは高校生を偽って地元の高校に潜入取材を敢行してルポルタージュを書き上げる。これに目をつけたユニバーサルが、クロウに映画脚本を書かせたのが、学園コメディ『初体験/リッジモント・ハイ』(1982年)だった。高校生たちの日常生活をヴィヴィッドに描いた脚本は評判を呼び、同作に出演したショーン・ペンやジェニファー・ジェイソン=リー、フィービー・ケイツらが注目されるきっかけとなった。1984年には同様のコンセプトを持つ『ワイルド・ライフ』の脚本を執筆。音楽はエディ・ヴァン・ヘイレンが担当している。

監督デビューは高校卒業したての10代の恋愛を描いた『セイ・エニシング』(1989年)。ジョン・キューザック演じる主人公が、アイオン・スカイ(英国のフォーク・シンガー、ドノヴァンの娘)扮するヒロインの寝室の窓にラジカセをむけてピーター・ガブリエル「イン・ユア・アイズ」を聴かせるシーンは、スティーヴン・スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』をはじめ、多くの映画でオマージュを捧げられる名シーンとなった。

当時の夫人でハートのギタリスト、ナンシー・ウィルソンの地元シアトルで撮影した『シングルス』(1992年)は、ロックスター志望の青年を中心とした群像劇。出演もしているパール・ジャムをはじめ、グランジ・ロック・ブームが燃え上がる瞬間を真空パックした貴重な作品に仕上がっている。そしてトム・クルーズが主演を務め、レネー・セルウィガーがブレイクするきっかけとなった『ザ・エージェント』(1996年)の監督兼脚本を手掛けたことで、クロウの評価はハリウッドで揺るぎないものになった。



そんな彼が初めて過去を振り返った作品が『あの頃ペニー・レインと』(2000年)だった。舞台は1973年。ストーリーは15歳の少年ウィリアムがローリングストーンからの依頼でロックバンドのツアーの同行取材を行うというもの。つまりクロウの半自伝である。

ウィリアムが恋するペニー・レインは、同名の女性やリヴ・タイラーの母でもあるビビ・ビュエルといった実在のグルーピーたち、バンドのリーダー、ラッセルはイーグルスのグレン・フライや本作の音楽も手掛けたピーター・フランプトンらがモデルらしい。

そんな本作だが、決して才能と運に恵まれたクロウの成功物語で終わっていない。思春期にロックンロールに触れたときにティーンの誰もが感じるであろう、五感が拡張していくかのような多幸感を、クロウはそれまでの青春映画で培った甘酸っぱいダイアローグとともにスクリーンに焼きつけているのだ。敬愛するビリー・ワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』へのオマージュも効いている。新人発掘に定評のあるクロウ作品らしく、ここからもペニー・レイン役のケイト・ハドソン、ウィリアムの姉役のズーイー・デシャネルがスターになった。本作でクロウはゴールデングローブ賞作品賞(ミュージカル・コメディ部門)とアカデミー賞脚本賞を受賞している。

その後もクロウはトム・クルーズと再び組んだ『バニラ・スカイ』(2001年)、『エリザベス・タウン』(2005年)、シガー・ロスのヨンシーが音楽を手掛けた『幸せへのキセキ』(2011年)、『アロハ』(2015年)といった話題作を監督する傍ら、親交深いパール・ジャムやデヴィッド・クロスビーのドキュメンタリーを手がけるなど、ロック・シーンに関わり続けている。
文:長谷川町蔵

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