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対BOØWYから対自分へ 1990年代前半の氷室京介を語る

Rolling Stone Japan / 2020年12月1日 21時50分

氷室京介

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年11月の特集は、氷室京介還暦特集。今回は、東芝EMI在籍時代に氷室京介を担当していた制作部ディレクター子安次郎をゲストに迎えて、1993年のアルバム『Memories Of Blue』と1994年のアルバム『SHAKE THE FAKE』の時期の氷室京介について語っていく。



田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、氷室京介さんの「Memories Of Blue」。1993年1月発売の4枚目のアルバム『Memories Of Blue』のタイトル曲です。今週の前テーマ曲です。

今月2020年11月の特集は氷室京介。先週と今週は元東芝EMI制作部ディレクター、現在はユニバーサルミュージックのプロデューサー、子安次郎さんをお迎えしております。こんばんは。

関連記事:氷室京介が自己表現を確立するまで 当時のディレクターが回想

子安次郎(以下、子安):よろしくお願いします。

田家:こうやってアルバム毎にお話する機会というのはあるものなんですか?

子安:いや、そんなにはないですね。忘れていたことが断片的に繋がっていく、流れに沿って一つ一つを掘り下げるっていうのは僕にとっても刺激的ですね。

田家:子安さんのレコード会社のディレクター・プロデューサー人生の中で一番大きな比重を占めているのがBOØWYと氷室京介さんになるんですよね。

子安:その出会いが無ければ、この仕事はとてもじゃないけどできなかったですね。あり得なかったです。

田家:氷室さんのキャリアの中での初期のアルバムで一番大きな転機になったというのがこのアルバム『Memories Of Blue』だと言われていますが、このアルバムについてどんな風に思いますか?

子安:当時はBOØWYを解散してソロでも成功していたんですけど、ミリオンセラーというものがなかったんですね。実はBOØWYも解散するまでの間に出したアルバムでも、最後の時期でも売り上げは4,50万枚だったんです。

田家:『BEAT EMOTION』は100万枚超えたと言われてますが。

子安:結果的には、ですね。発売当時は100万枚に達していなかったんです。一番売れたのは最後のオリジナルアルバム『PSYCHOPATH』だったんですけど、それでも4,50万という数字だったんです。でも、枚数よりも現象の方が大きくて。世の中の印象に強く残ってると思うんですけど、数字で言えばレベッカさんの方が売れていたでしょうね。

田家:バンド史上最初のミリオンセラーがレベッカの『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』で、そのすぐ後を追うように、BOØWYの『BEAT EMOTION』が100万枚を超えたということになってますね。

子安:解散した後にBOØWYの全てのアルバムが売れ続けてミリオンを超えたんですよ。ソロになってからも6,70万枚くらい売れていて、それもすごいことなんですけど、『Memories Of Blue』は初めてミリオンを突破した金字塔的なアルバムであったと思います。

田家:BOØWYを超えたと当時のインタビューで語っていましたもんね。

子安:名実共にソロアーティスト氷室京介が確立されたアルバムだったんだなという感じはしますね。

田家:セールス的な意味だけではなくて、ずっとBOØWYのあのビートの呪縛から逃れようとしていたんだけど、それが『Memories Of Blue』で終わったと本人は話してましたね。

子安:本人の中では色々なこだわりや闘いがあったと思いますね。それがソロになってからも続いてたことだと思うんですけど、まさしくここで吹っ切れたんだろうなと思います。

田家:1991年の『Higher Self』から1993年の『Memories Of Blue』、その間にもう一枚、1992年12月にリミックスアルバムをリリースしておりました。このアルバムが語られる機会はあまりないので、今日はこの話から伺っていこうと思っております。1992年4月発売のアルバム『masterpiece #12』から、「Urban Dance」。



田家:この曲で思い出されることはありますか?

子安:この曲はとにかく、読売テレビさんのドラマ主題歌を氷室さんにお願いしたいという話が浮上しまして。じゃあ作品を作ってもらおうと思ったけど、本人がどこにいるか分からない。ツアーが終わった後に世界中に出かけていたので、まず本人を探さないといけないということでからこの曲はスタートして(笑)。探してもらったら、アフリカにいると。

田家:本人はエジプトで作ったと仰ってましたね。

子安:エジプトで作ってケニアに行ってたと思うんです。ホテルでデモテープを作ったから、取りに来てくれって言われて(笑)。今ならデータですぐ送れるけど、当時はそんなことできないですからね。ケニアに来てくれって言われて、当時の私は家を出るときに必ずパスポートを持っていくという生活をしておりまして。会社に着いたそうそう、ケニアに行ってきますという話になって。すぐに旅行代理店の方に、できるだけ早くケニアに行ける便を押さえてくれという話をして。東京から大阪、大阪からロンドン、ロンドンからケニアっていう便を押さえてもらって。でも、大阪からロンドンに行く便がトラブルで来ないんですよ。来ない間に時間ができた時に、ケニアに入国するにはビザが必要だっていう電話がかかってきて。これはやばいなと思いながら、ロンドンの知り合いに連絡を取ってケニアに代わりに行って氷室さんから受け取ってもらいました(笑)。私はロンドンで知り合いからデモテープを受け取って、テレビ局の方に渡せたんですよ。さらに、この曲はニューヨークでレコーディングをしたんです。そしたら、テレビ局の人が、レコーディング中の音を聞きたいと言われて。それは無理だっていうことになったんですけどね。

田家:当時は無理でしょう(笑)。

子安:でも、やったんですよ。ここは非常にアナログな話なんですけど、ニューヨークのホテルでラジカセに録音した音を聞いてもらおうということになったんですけど、大きな音は出せないので布団を被ってラジカセを鳴らして、それを電話の受話器に当てて、その音を日本の東芝EMIの会議室で電話で受け取ってもらって。東芝EMIには、海外のアーティストの電話を録音する機械があったんですよ。それで聴いてもらえたと。本当に思い入れがある曲ですね(笑)。

田家:まさかそういう話が出てくるとは思わなかったですね。

子安:さらに、この曲を聴いたテレビ局の方が、この歌の途中の「We should be urban dancin」のところで間があって、そこにギターフレーズが入るんですけど、このギターフレーズのところに歌を乗せてもらえませんかという注文が来たんですね。この間がカッコいいのに! と思ったんですけど、氷室京介さんに伝えたら無理だっていうことになって(笑)。

田家:そういう話になりましたか(笑)。アルバムの話は次の曲の後にお訊きしようと思います。『masterpiece #12』から子安さんがお選びになったのは、1990年5月発売のシングル『JEALOUSYを眠らせて』の未発表バージョンです。

JEALOUSYを眠らせて (RARE MASTER 1990) / 氷室京介

田家:この曲を選ばれたのはどんな理由で?

子安:『masterpiece #12』のボーナストラック的にこの曲を入れさせていただいたといいますか。

田家:そもそもボーナストラックで入ってたんですか。

子安:そう、本体には入っていなかったんですね。そもそもなぜこのバージョンがあったかと言うと、この曲もドラマ主題歌というリクエストをいただいて、氷室さんは2バージョンを作ってきたんですね。実際に使われたものと、今聴いていただいてるバージョンのどっちがいいだろう? とスタッフの中でも意見が分かれたんです。なかなか結論が出なくて、大抵はレコード会社としてはどちらがいいというのをマネージャーに伝えて、それを本人に伝えるという流れがあったんですけど。氷室さんのマネージャーの土屋さんから、僕もどちらがいいかとても悩むから、子安さんから直接話してくれということになって。私はこの未発表バージョンを推しているという話を本人に話したんですね。一通り話した後に「うん、分かった。でもこっちにするよ」ということで、こちらは潔く未発表バージョンということでお蔵入りにさせていただいて。僕もすごく思い入れのあるバージョンなんですよ。

田家:そうですよね。

子安:『masterpiece #12』って、ある意味で異質というか。本来であれば、アルバムを三枚出したので、レコード会社としてはそろそろベストアルバムを出しましょうという流れになってくるのが普通ですね。でもそれって、あまり氷室さんらしくないな、何か違ったことをしたいということで話し合って。それで、リミックスアルバムというコンセプトにしようと決まって、世界的なスタッフを集めて作ったという経緯です。

田家:エンジニアの面々も氷室さんの希望だったんですか? 

子安:当時一緒にプロジェクトをやっていたスタッフと本人の中で出てきたものだと思います。



田家:改めて、アルバム『Memories Of Blue』の話をお伺いしようと思います。今流れているのはシングル『KISS ME』が流れていますが、これは元々タイトルが「KILL ME」だったんですよね。

子安:『KISS ME』の前に、『Good Luck My Love』というシングルがありました。その流れで、もう一枚、起爆剤となるシングルがあってからアルバムに行きたいという気持ちが強くて。『KISS ME』が「KILL ME」というタイトルだった時に、これでいいのかな? と疑問に思ったところがあって。もうちょっと違う形の方がいいんじゃないかな? っていうことを制作過程の中で感じていたんですけど、マネージャーの土屋さんが氷室さんに上手く伝えてくれて、最終的に『KISS ME』へと。ちょっと時間はかかりました。

田家:今年の9月から10月にかけて、大阪で氷室京介展があって、そこで『KISS ME』の原詞、「KILL ME」がありました。『Good Luck My Love』は、テンポもビートもBOOWYとはかなり違うシングルで思ったほどの売上枚数が残せなかった。もう一つ何か必要なんじゃないかという。

子安:元々、アルバムの前にシングル二枚は出しておきたいというのはありましたけど、正直、『Good Luck My Love』はもう少し売れるんじゃないかなと思ったんですけど、シングルとしては伸びなかったので。次が勝負だなと思ったのは確かですね。

田家:なるほど。その時にはアルバム『Memories Of Blue』の制作段階はどれくらいだったんですか?

子安:半分もできてなかったのかな?

田家:とりあえずシングルを先に出してからだったと。そのアルバム『Memories Of Blue』の中で子安さんが選ばれたのがこの曲です。



田家:この曲を選ばれた理由は?

子安:このアルバムはとにかく完成度が高くて非の打ち所がなくて。どの曲もいいんですけど、その中でも個人的な好みなんですが、この曲は聴くたびに胸が熱くなるところがあってすごく好きというのが理由ですね。

田家:アルバムにも、この曲のタイトルにも"BLUE"というのがありますが、当時の氷室さんの一つのイメージの色なんでしょうか?

子安:目に見える”青”という色が氷室さんのカラーかは分からないですけど、ブルーという言葉が持っている世界観が氷室さんらしいなと思いますね。このアルバムのジャケットも綺麗な青が基調になっていて、アルバムとして色々な色の完成度、ビジュアル面も含めて半端じゃないなと思いますね。

田家:このアルバム10曲それぞれのタイプが違っていて、曲ごとの意味や表現したかったことが見えるアルバムだなと思いました。『Memories Of Blue』は青春の記憶という意味もあるんでしょうし、タイトル曲の中では、ガレージでオイル塗れだったあの頃、とも歌っておりました。この時のインタビューが一番印象深くて、暴走族だった頃の話とか訊いているんですよと。なぜ暴走族からバンドをやるようになったのかも語ってくれたインタビューでもありました。アルバムの中に「GET READY "TONIGHT" TEDDY BOY」という曲がありますが、BOØWY時代の曲「16」の原題が「TEDDY BOY MEMORIES」だったということも聞いてますね。いろんな意味で、このアルバムで氷室さんは答えを出したんでしょうね。

子安:ですね。自分がリスナーだった頃から音楽経験を積み重ねて、バンドも経験し、ソロになって。氷室京介というアーティストの人生を含めて、一つの形になったのかなと思いますね。

田家:インタビューの中で、BOØWYというワードが禁句だった時期がありました。子安さんが氷室さんと話す時に、BOØWYに触れないように神経を使う、みたいなことはあったんでしょうか?

子安:BOØWYというものを出す=後ろを振り向くという感じもありましたからね。僕の中では、氷室さんの前に向かって進んでゆくスピードにどうやって付いていくか? というのがテーマでもあり、すべての意識が必然的に前の方に向かっていきましたから、BOØWYという単語は自分の中からも出てこない感じがありました。

田家:BOØWYを持ち出す意味がなかった。なるほどね。氷室さん=BOØWYと結び付けたがったのは、周りだったんでしょうね。

子安:かもしれないですね。

田家:改めて当時のインタビューを読み直していて、「過激な言い方をすると、この曲で終わるためのアルバムだった」と話していた、あまりラジオでかけたことがないのではないかと思って、この曲をお届けします。『Memories Of Blue』最後の曲、「WILL」。



田家:ゴスペルのような曲ですね。この曲順は、子安さんからも案を出されたりしました?

子安:そうですね。何人かで案を出して、最終的には本人が決めます。

田家:この曲で終わっている意味もありそうですね。

子安:改めて聴き直してみると、ソロとしてのスタートにも繋がるような感じがありますね。

田家:ずっと探し回っているような感じがありますね。先週流した「CALLING」もそういう曲でしょうけど。氷室さんには、メディアの情報とか、カラオケで歌っているだけでは見えてこない面がたくさんあるという例の一つかと思いました。お聴きいただいたのは、1993年のアルバム『Memories Of Blue』最後の曲、「WILL」でした。



田家:1994年8月発売10枚目のシングル、5作目の一位獲得曲になりました。この曲で思い出すことも色々ありそうですね。

子安:アルバム『Memories Of Blue』での大成功があって、その次にどこに行こうかという状況の中で、色々な試行錯誤が始まった時期なんだろうなと思います。そういう意味では、新しい環境や何かが変わっていく必要性があったんじゃないかなと。僕がレコーディングスタジオに入った時間が一番短い作品ですね。色々なミュージシャンやアレンジャーの方もいて、次にどういうチームでどういう音を作っていったらいいのかと、探っていた時期なのかなと思いますね。

田家:それは改めて振り返ってみてそう思われますか? その最中には、そういう試行錯誤しているなというのは感じました?

子安:うーん、それまでも色々と試行錯誤を続けてきていた流れがありましたからね。常に自分で自分を追い詰めたりし続けてきた方なので、僕はこの時期にレコーディングスタジオにあまり入らなくなったんですけど、そういうものは常に感じていましたね。

田家:この曲が入っているアルバム『SHAKE THE FAKE』のインタビューを改めて見直してみましたら、それまでは対BOØWYだったのが、対自分になってしまったと。

子安:『Memories Of Blue』でバンドを超えた、音楽的にもセールスでも色々な面で超えた。そういう意味でも自分に対峙する場面がより強くなったと思うんですね。

田家:自分が作ったものに負けちゃいけない、こんなに考えたことはなかったと話していて。歌入れの最中には、自律神経失調症になったとも明かしてました。

子安:自律神経失調症だという報告は僕の元には来なかったんですけど、本人がすごく大変な状況にあるというのは感じていましたね。

田家:「VIRGIN BEAT」もホッピー神山さんがアレンジしていましたが、これも初めてでしょう。アレンジにも佐橋佳幸さんなど色々な人たちが入ってきて、関わったミュージシャンもこのアルバムが一番多いんですよね。キーボード4人、プログラマー2人、ギター3人、ベース4人、ドラム4人、エンジニアも6人関わっている。

子安:色々な方とどうコミュニケーションしながら作品を生み出していくのか? まさに試行錯誤だったと思いますね。

田家:子安さんがスタジオに入らなくなったのは理由があったんですか?

子安:役割として、その現場にいて何をすればいいのかというのが、自分自身でも見えなかったんです。生まれてきた作品のプロジェクト全体をどう動かしていくのかという方向に自分の役割を置いていた感じがありますね。

田家:なるほど。『Memories Of Blue』の時は、自分の役割を果たしたという達成感はありましたか。

子安:ある意味ではあったと思います。

田家:その中で、子安さんが『SHAKE THE FAKE』から選んだのは最後の曲でした。



田家:この曲はファンの中でも支持の高い名曲でありますね。

子安:結果として考えると、このアルバムで氷室さんはレコード会社を移籍して、私は担当でなくなるという大きな変化があって。言ってしまえば、最後の曲ということで、自分の中でも思い入れが非常に大きいですね。

田家:そうやって関わってきたアーティストが、1995年7月にベストアルバム『SINGLES』を出してポリドールに移籍してしまうわけですよね。離れていかれる時にはどんなことを感じられてましたか。

子安:自分の中ではいつでも戻ってきてくださいね、という気持ちだけは伝え続けました。

田家:『SHAKE THE FAKE』のレコーディングが思うように進められなかったということもあって、環境を変えたいというところに繋がったということはありそうですか。

子安:こればっかりは本人の中のことなので分かりませんが、長いキャリアの中で新しい環境が必要なタイミングだったんじゃないかなっていう感じはしますね。

田家:東芝EMIのアルバム「BOØWY」からちょうど10年ですもんね。

子安:50年分くらいの中身がある10年だったという感じはしますね。さらに自分を高みへと引き上げていって、この先も誰もやったことのない何かをやるだろうという期待する部分はもちろんありました。

田家:氷室さんはポリドールへ移籍して活動して、2002年に再びEMIに戻ってこられて、子安さんもそこからまた責任者として関わることになるわけですね。

子安:そうですね、私もまだ会社にいましたので(笑)。

田家:じゃあ再来週もまたご登場願います。ありがとうございました。

子安:ありがとうございました。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」2020年11月氷室京介還暦特集Part3。ゲストに、当時の東芝EMIディレクターの子安次郎さんをお迎えしました。今流れているのは、後テーマ曲で竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

今週は1992年から1995年、アルバムで言うと『Memories Of Blue』と『SHAKE THE FAKE』の二枚のオリジナルアルバムが中心になりました。私事なんですが、初めて私が氷室さんのインタビューをしたのが、アルバム『NEO FASCIO』の時でした。実は、僕はBOØWYの東京ドームと日本武道館公演を見てたましたが、インタビューはしたことがなかったんです。LAST GIGSの後に、マネージャーの土屋さんから電話がかかってきて「氷室がソロになるので、これからお付き合い願えますか」と言われたんですね。その時に僕は「BOØWYのインタビューもしたことないんですけど、いいんですか?」と言ったら、「BOØWYは同じところで始めた同世代の人たちでチームを組んでいて、田家さんはおじさんだと思ってましたからお声がけしませんでした。これからは違うところに行くので、よろしくお願いいたします」というところから始まりました。そういう意味ではBOØWY体験から入ったわけではないので、むしろ新しく氷室さんを聴くようになったリスナーの方と近いのかなと思っておりました。その中で一番印象的だったのが、『Memories Of Blue』のインタビューだったんですね。それも来年発売になる『KYOSUKE HIMURO since 1988』に収録されております。これだけ時間が経って改めて考える時に、当時の自分はちゃんとわかってなかったなと思うところがたくさんあります。30年間原稿を書いている中でのそうした変化も記録されているかもしれません。これも当時のインタビューで語っていましたが、やっぱり自分のことをずっと探しているのが自分にとっての音楽だと。そういう意味では、どのアルバムも、彼の模索の記録でもあるんだと思いますね。音楽的なことだけではない、人としての葛藤がアルバムに込められているというのが、改めての発見でもあります。

彼は『SHAKE THE FAKE』のリリース後、アメリカに拠点を移します。その話はまた来週。


田家秀樹(左)と子安次郎(右)


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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