氷室京介の充実期、1990年代後半の作品を振り返る

Rolling Stone Japan / 2020年12月3日 17時30分

氷室京介

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年11月の特集は、氷室京介還暦特集。今回は1996年発売『MISSING PIECE』から2001年発売『beat haze odyssey』までを、当時のポリドール・レコードのA&R臼井克幸と共に語っていく。



田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、氷室京介さんの「魂を抱いてくれ」。1995年10月にシングルで発売されて、1996年9月の6枚目のアルバム『MISSING PIECE』にも収録されていました。ともに、ポリドール・レコード移籍第一弾の作品。今週の前テーマ曲です。

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今月2020年11月の特集は氷室京介。先月7日に還暦を迎えました。氷室京介還暦、復活を祝っての1ヶ月ということで、これまでのアルバムを辿り直してみようという1ヶ月です。レコード会社の担当ディレクターをゲストにお迎えしております。今週は元ポリドール・レコードのA&R、現在はインディーレーベルJsRECORDSの代表取締役・臼井克幸さんをゲストにお送りします。よろしくお願いします。

臼井克幸(以下、臼井):よろしくお願いします。

田家:氷室さんは還暦を迎えられましたね。

臼井:はやいもので。私が担当させていただいたのは氷室さんが34~40歳頃だったので、それから20数年も経ったのかと感じています。

田家:1995年のベストアルバム『SINGLES』を最後にEMIからポリドールへ移籍して、最初のシングルが『魂を抱いてくれ』で、この曲を作った時は34歳です。作詞は松本隆さんですが、この曲で思い出されることはありますか?

臼井:移籍するということを聞いたのは1995年の頭だったんです。日本武道館で、阪神・淡路大震災のチャリティーコンサートに顔を出させていただいたのが最初ですね。

田家:イベントには布袋寅泰さんも出ていらっしゃいましたよね。

臼井:もちろん別々でしたけどね。その時は移籍っていう発表もしていなかったし、ニュースが社内にも流れていなくて。こっそり観に行ってくれって言われて、行った記憶があります。

田家:移籍第一弾をバラード曲にしようと思ったのは、なぜなんでしょう?

臼井:氷室さんからこの曲をシングルにしたいという話があって。私は勢いのある曲で来ると思っていたんですけど、後ろに考えていたのがアルバム『MISSING PIECE』でした。「魂を抱いてくれ」を聴いた時にこれでアルバムを出すとは思えなかったんですね。それで話している最中に、シングルの『STAY』とか『SQUALL』を出してアルバムを出すという流れになりました。もちろんアルバムの完成自体が長く時間がかかったっていうのもあって、最初のシングルは『魂を抱いてくれ』でよかったんじゃないかと結果的に思います。

田家:『魂を抱いてくれ』を出す時には、もうアルバムの構想があった?

臼井:あったんです。でも、私も氷室さんも「魂を抱いてくれ」ですぐアルバムを出すイメージがなかったので。勢いのある曲だったらすぐアルバムを出す考えもあったかもしれませんね。それとアルバム全体の進行も時間がかかって。加えて、活動の場をロサンゼルスに移す最中だったんです。だから、日本レコーディングとロサンゼルスレコーディングの両方もありました。

田家:この「魂を抱いてくれ」は、レコーディングに時間がかかったっていう話もありましたね、歌入れも何回もやったと。

臼井:ただ、曲を聴いた時にこの人のバラードはすごいなと思いましたね。

田家:今日はそんな話をじっくり伺っていこうと思っています。それで、この曲が入った6枚目のアルバム、1996年9月発売の『MISSING PIECE』からタイトル曲「MISSING PIECE」。



田家:この曲で思い出されることは?

臼井:アルバムのタイトルチューンなので、このアルバム全体に色々な要素が詰め込まれていることがタイトルに由来していると思うんです。自分に足りないものや欠けている物を探しつづけるアルバムで、タイトルもそういうイメージだったんじゃないかなと思います。詳しくは本人じゃないと分かりませんが。

田家:作詞家の松井五郎さんと話をしていて、最後の一遍を探す旅に出る絵本というのがタイトルになったと聞いたことがありますね。

臼井:たぶんそうだと思います。曲としてもすごくいいですし、私はこのアルバムの中でもすごく好きな曲です。

田家:ロサンゼルスやニューヨークでもレコーディングして、とても時間がかかって大変だったんですよね?

臼井:ですね。ただ、それが『MISSING PIECE』というアルバムなんじゃないかと思います。一箇所でイメージが固定して作ったアルバムと違って、日本やロサンゼルスなど色々なもの探しながらレコーディングしてミックスしていったので。チャレンジしたアルバムというか、結果的には大作だと思うんです。

田家:レコーディングには、A&Rとして現地に行ったりしたんですか?

臼井:氷室さんが移籍してくる時に、ビートニクスという原盤制作をする会社というイメージだったんです。我々は新たなレーベルで、制作をしている氷室さんのバックアップをする。宣伝・販促を中心にバックアップしていくイメージをしていたので肝心なところだけ顔を出して連絡して、全体像の打ち合わせは必ず氷室さんとするっていう感じでしたね。

田家:そういう関わり方、関係のアーティストって当時の日本ではかなり珍しかったですよね。続いて、このアルバムの中で臼井さんが選ばれたのはアルバム最後の曲「NAKED KING ON THE BLIND HORSE」。



田家:この曲を選ばれた理由は?

臼井:アルバムの中で9曲目と10曲目を同じ曲で持ってきて、しかも全然違うアプローチで作っていて。

田家:アルバムには美久月千春さんと佐橋佳幸さんが参加されていました。

臼井:そういう違いも面白いし、僕は2テイク目の最後の曲の方が、彼がロサンゼルスにいったイメージが強くて。それが前面に出ているんですよね。あとはこのアルバムはシングル曲がすごく多いので、敢えてシングルではない曲を選んだんです。

田家:当時、なんで2曲入ってるんだろうって思いましたね。

臼井:曲が足りないからだって言う人もいたんです。ただ、我々の中ではそんなことはなくて、違うアプローチをしたので当然別の曲なんですね。曲が足りる足りないっていう議論は関係なくて、アルバム内の全く違うアプローチだというイメージがあったので、全然気にしなかったです。

田家:なるほど。本人は「何言ってんだ皆」って思ったでしょうね。お聴きいただいたのは、1996年9月発売の『MISSING PIECE』から、アルバム最後の曲「NAKED KING ON THE BLIND HORSE 2」、佐橋佳幸さんのバージョンでした。



田家:1997年12月発売、7枚目のアルバム『I・DÉ・A』の一曲目「RE-BORN」です。かっこいいですね! 特にドラム。

臼井:これはあとで出てくると思うんですけど、スティーヴ・スティーヴンスが編曲ですね。

田家:このアルバムは氷室さんが急曲の氷室京介と仰っていた作品で。アルバムから「HEAT」がシングルカットされていますね。この「RE-BORN」はそのシングル盤のカップリングでした。一方で参加したアメリカのミュージシャンからは、なんで「RE-BORN」がA面じゃないんだという反応もあります。

臼井:これは氷室さんともだいぶ話しました。氷室さんはもうロサンゼルスに行かれていたので、彼が思った日本のリスナーのイメージにヒットするには、やっぱり「HEAT」だろうという思いがあったんですよね。

田家:最終的には氷室さんが決めていたんですね。このアルバムはギタリストのスティーヴ・スティーヴンスと出会って作ったアルバムです。その出会いの経緯は、どうご覧になったんですか?

臼井:私は、彼と一緒にやるということでスティーヴ・スティーヴンスを紹介されたもので。選ばれた経緯自体はちゃんと伺っていないんですね。ただ紹介された時はびっくりしました。ビリー・アイドルやマイケル・ジャクソンらと共演してきたすごい人呼んできたな、と。

田家:外国でのレコーディングは、明らかに日本とシフトした感じでしたよね?

臼井:そうですね、私が担当させていただいた1995年から2000年までってMVに時間をかけるというか、映画みたいな良い作品を作っていく。これがいいプロモーションだというイメージがあったんですね。実際、アメリカなんかだとMVがちゃんとしていないとヒットしないイメージがあったので。大勢の人に見てもらう、これが宣伝だというのがこの時代に根付いた感じがします。もう少しいえば、CD全盛期の時代だったので、お金をかけた映画のようなMVを一番最初に手掛けたのが氷室さんじゃないかなと思うんです。

田家:氷室さんがアメリカに移住されたきっかけが、「魂を抱いてくれ」のMVの撮影で現場の若いスタッフが本当に情熱的で。小さな仕事をやってる若い人の情熱に胸を打たれて、俺はこれを忘れているなと思ったのがきっかけだったというのがありましたもんね。続いて、臼井さんが『I・DÉ・A』から選ばれたのはこの曲です。



田家:作詞が松本隆さんですね。これを選ばれたのは?

臼井:私が担当させていただいた時代の曲で一番好きかもしれません。まず、タイトルもそうなんですが、聴いた時にバラードの中に日本人が作るバラードと違うイメージがあって。洋楽のバラードっていう感じがすごくある曲なんですよね。それが一番表に出た曲だなと思っていて。スティーヴ・スティーヴンスと作った影響も大きいと思うのですが、やっとロサンゼルスに行った意味がこのアルバム、この曲に出ているのかなと思っています。

田家:スティーヴ・スティーヴンスは、氷室さんがアマチュアの時代から憧れていたギタリストだというがありますもんね。洋楽といえば、「RE-BORN」について音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の元編集長の東郷かおる子さんが、あの曲って洋楽よねって言っていたのを思い出しますね。

臼井:本人もたぶん、ソロ10年を迎えた自分の自信作ができたっていうイメージもあったんじゃないかなと思います。

田家:氷室さんのこの後のアルバムのインタビューを読み直すと、『Memories Of Blue』と『I・DÉ・A』を超えなくてはいけないんだっていう話が出るようになります。『I・DÉ・A』の後には、スティーヴ・スティーヴンスも参加したツアー「"COLLECTIVE SOULS"1998 One Night Stand」がありました。

臼井:スタジアムツアーですね、7月15日の横浜アリーナからスタートして、9月の横浜スタジアムで終わるというものでした。そこでもスティーヴ・スティーヴンスがメインになって、レコーディングにも参加しているドラマーのマーク・シューマン。ベースが西山史晃さんで、ギターが本田毅さん、キーボードが大島俊一さんというツアーメンバーでしたが、マーク・シューマンが特に凄かったですね。

田家:マーク・シューマンは、氷室さんが実際にライブを見て探したと。

臼井:マーク・シューマンだけだったかは分からないですが、スティーヴ・スティーヴンスがマーク・シューマンを観に行こうという時に一緒に連れていってもらいまして。サンタ・モニカの近くのライブハウスにマーク・シューマンのバンドが出ているから観に行こうということになって。パワフルなドラマーですごいなと。日本人とは違うパワフルさがあって、即決だった気がします。

田家:アメリカでも当時はメジャーじゃなかったですよね?

臼井:そうです。ただ、スティーヴ・スティーヴンスの紹介もあったし、氷室さんも気に入ったということで。レコーディングにも参加してもらって良いアルバムもできたので、ツアーにも参加しようっていうことですね。



田家:2000年2月発売のアルバム『MELLOW』から、「ダイヤモンド・ダスト」でした。『MELLOW』は初めてのバラードアルバムでしたが、この曲で思い出されることは?

臼井:この曲は1999年10月27日にシングルで発売されたんですが、その年の10月から12月の月9ドラマ『氷の世界』の主題歌になったんですね。10月からテレビで流れたので、発売を10月27日にしたということなんですが、元々この曲を使っていただく経緯があって。テレビ局のプロデューサーが氷室さんの第ファンで、次にドラマを作る時にドラマのイメージで曲を作って欲しいという依頼があって。曲を持ち込んだわけではなくて、最初にドラマありきでそのイメージに合った曲を書き下ろしたと。なので、今手元にドラマの台本があるのですが、曲名は入ってないんですね。氷室さんがプロデューサーに直接話を聞いたり、台本を読んだりしてできた曲なので。私としても当時が思い出される曲ですね。

田家:これは1999年10月にシングルになったわけですが、『I・DÉ・A』の後の1998年にソロ10周年があってベストアルバム『Collective SOULS 〜THE BEST OF BEST〜』がリリースされました。そこには新曲「炎の化石」が入っていたのですが、当時シングルカットされませんでしたね。

臼井:シングルとして発売されたことになっているんですが、実際にシングルとして発売しているつもりがなくて。当時は8cmシングルが終わった時代だったので、『ダイヤモンド・ダスト』が氷室さんにとって最後の8cmシングルで、徐々に12cmシングルに変わっていって。その中でそれ以前のシングルも12cmシングルとして発売する中で、『炎の化石』も12cmで出したんです。そしたら、やっぱりシングルとして扱われたということなんですね。

田家:『Collective SOULS ~THE BEST OF BEST~』がリリースされた時、「炎の化石」はシングル用ではなかったんですか?

臼井:いえ、最初は氷室さんとしてはシングルで考えていたんです。次のシングルの打ち合わせがあってロサンゼルスに行って打ち合わせした時に、私の方から「ちょうど10周年なので、その括りで記録を残しませんか」『Collective SOULS ~THE BEST OF BEST~』を出しませんかという話をしたんです。そのベストアルバム用のプロモーションシングルにしたらどうですか? っていう話をして、MVも作るためにプラハに行ったんです。

田家:ハリウッドの撮影隊も連れて行きましたね。

臼井:でも、シングルになっていない曲のMVを作って、アルバムのリード曲にしたということですね。それで、さっき話したように8cmから12cmに移行する時に『炎の化石』もそうしたので、シングルとして発売したという記録になったということですね

田家:「炎の化石」のMVは、アルバムのプロモーションも兼ねていたんですね。

臼井:基本はアルバムのプロモーションですね。

田家:さて、このアルバム『MELLOW』は作詞家の森雪之丞さんが参加されていますが、次の曲は松井五郎さんの作詞。臼井さんが選ばれたのは次の曲です、「So Far So Close」。



田家:この曲を選ばれたのは?

臼井:純粋に好きでした。『MELLOW』というアルバムは、バラードアルバムというよりもメロウなものが多かったというイメージですね。

田家:当時の氷室さんのインタビューでは、「自分にないものを突き詰めていったアルバム」とお話ししていました。ビート系の曲との距離感は意識しながら作った曲でもあるんでしょうし、日本でイメージしていた氷室さんとアメリカに行かれて現地のミュージシャンと作った曲の距離はどう感じていましたか?

臼井:僕が感じるのは、ミディアムなナンバーやバラードの作り方が変わったなというイメージがすごく強いです。彼の中にあるビート系のノリは、日本にいる時から特別な才能がある方で最高なのですが、ミディアムナンバーとかさっきの「堕天使」なんかの作り方は変わってきたのかなと思います。

田家:2000年になると、ご家族も皆向こうに移住されていますよね。向こうにシフトして行く時はどうご覧になっていました?

臼井:それが作品にもすごく影響が出てきていて。ビッグネームであるだけに日本にいると色々なことで苦労されることが、ロサンゼルスに行くと少ないじゃないですか。そういう意味でも、すごく精神的にも良かったんじゃないかと思います。

田家:2000年には、アルバム『MELLOW』と『beat haze odyssey』の二枚が出ています。次は『beat haze odyssey』の方から、2001年1月1日に出たシングルをお聴きいただきます。



田家:2000年10月に発売された9枚目のアルバム『beat haze odyssey』から「Girls Be Glamorous」。この曲はいろいろ覚えていらっしゃるのではないでしょうか?

臼井:そうですね。氷室出演のCMソングでしたね。

田家:本人が出演するというのはどういう経緯で?

臼井:元々、資生堂から話があってどういう風にCMを撮っていくのか話す時に、氷室さんにも出演して欲しい、しかもロサンゼルスで撮影したいということで。だったらやりましょうという感じでしたね。本人は、実はその前に伏線があって、氷室さんが活動する中でテレビに出るとなると、プロモーション上の関係で「HEY!HEY!HEY!」とか「めざましテレビ」なんかにも出てもらってたんですよ。「HEY!HEY!HEY!」はスティーヴ・スティーヴンスも含めて出たし、「めざましテレビ」はツアー中に出てもらって。要は、表に出ることに少しづつ慣れていってもらったというイメージが僕にはありますね。

田家:『beat haze odyssey』のツアー中でしたよね。ライブ会場から出演してもらったことありましたよね。

臼井:あれは「HEY!HEY!HEY!」でしたね。なので、私が担当させていただいた時代には「HEY!HEY!HEY!」に2回出演してました。

田家:出演のオファーを話すにあたって、ハードルは高いものではなかったんですか?

臼井:「HEY!HEY!HEY!」は、当時のツアー「"COLLECTIVE SOULS"1998 One Night Stand」のメンバーで出演、しかも生音でできるならいいよと言っていて。テレビ局としてはそこがネックだったと思うのですが、やってくれました。すごい機材車が来てやってくれましたね。

田家:化粧品の方だとそんなに難しいことはなく?

臼井:そうですね。資生堂のCMも生ではないですし、やってもらうことってそんなになくて演技もなかったので、良かったというか。

田家:なるほど。全部ダメっていうタイプの人ではないんですね?

臼井:全然ないです。A&Rとしては話し合えるアーティスト、お互いに要望を出し合えるし、無理なものは無理、できるものはできるという話をお互いしてました。

田家:2000年にはアルバム『MELLOW』と『beat haze odyssey』の二枚が出ているのは、どういう意図でした?

臼井:最初の「"COLLECTIVE SOULS"1998 One Night Stand」ツアーがスタジアム規模だったので、もっと全国を細かく周りたいっていう想いがあって。だったらツアーの前に新曲を出さなきゃっていうところで、『MELLOW』が完成してしまったのでツアーができない。なので、もう一枚作ろうっていうことでした。

田家:ツアーの本数も多かったですね。映像になっていないツアーでもあります。さて、アルバム『beat haze odyssey』から臼井さんが選ばれたのはこの曲です。



田家:この曲を選ばれたのは?

臼井:アルバム『MELLOW』から森雪之丞さんに作詞をお願いすることが多くなって、その中でも歌詞的に僕は一番好きな曲で。氷室さんの幻想的な曲の作り方がすごく好きで。森雪之丞さんと氷室さんが上手くできた曲というか。

田家:それぞれの持ち味がミックスされて。氷室さんが業界や世間でこんな風に思われてるけど実は違うんだけどなっていうことはありますか?

臼井:ビッグになればなるほど、スタッフと離れたイメージを持たれがちなんですが、全くそんなことはなくて。田家さんも感じていらっしゃると思いますけど、こっちからしっかり提案すれば、それにハッキリ応えてくれる。中途半端な意見をいうと全然ダメで、ハッキリ言えば、ダメならダメ、やるならやるで応えてくれるし、逆に氷室さんから提案もあるし。お互いそれが言えている関係を気付けるアーティストだと思います。「炎の化石」を氷室さんがシングルに切りたいと言ったのをアルバムにさせてもらったのも、ちゃんと話ができるアーティストだからだと思っています。

田家:この1995〜2000年の時間って氷室さんにとってどんな時間だったと思います?

臼井:氷室さんにとって創作意欲が一番多感な時期であること、それとロサンゼルスに行ったという事が合わさって。ジャケットや音、MVなどすごくいい効果を生んだ時期だったんじゃないかなと思っていて。氷室さんにとっては"MISSING PIECE"が続いているんだと思います。

田家:なるほど。来年には新作が出ると言われていますが、どんな作品になると思います?

臼井:全く読めないですね(笑)。シングルヒットを目指す感じではなくなるとは思います。作品が出てくるよって言われるとアルバムが出てくるんじゃないかなと思ったり、その前にはシングルを切るかもしれないですけど。大人なロックのアルバムが出てくる気がしています。洋楽としてのという風に聴こえるかもしれないアルバムが出てくるかもしれないというイメージがあります。

田家:なるほど。楽しみにしましょう。ありがとうございました。ゲストに当時のポリドール・レコードのA&R臼井克幸をお迎えしました。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」2020年11月氷室京介還暦特集Part4。ゲストに、ポリドール・レコードのA&Rの臼井さんをお迎えしました。今流れているのは、後テーマ曲で竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1995年から2001年、20世紀から21世紀。そして、日本の音楽業界がCDやDVDの売り上げが一番多かった時期。音楽業界のバブルといってもいいでしょうね。ポリドール・レコードは当時、X JAPANやGLAY、スピッツなどたくさんのミュージシャンがいて、臼井さんはそういう諸々を担当されたわけですが、その中でも忘れられないことがたくさんあるのが氷室さんだなあ、と呟きながらお帰りになられました。

でも日本の音楽業界が浮き足立って派手に行こうとしている時に、氷室さんはアメリカに拠点を移して、自分が本当にやるべきことを一から始められた。当時のインタビューから、様々な形でお話しておりましたが、あのまま日本にいたら、1人で切符も買えないスター様に祭り上げられて、自分を見失っていただろうってう話はよくしていますね。そして、ロサンゼルスに行って一から暮らし始めて、自分の好きなミュージシャンを探してコンタクトを取って、デモテープを持って行って交流を持つようになった。群馬から東京に来た時みたいなんだよねと言っていたことがありました。その中で出会った人には、スティーヴ・スティーヴンスというギタリストもいました。

『MISSING PIECE』は、最後の1ピースが見つからない旅という絵本が元になっているわけですが、そういう最後の一片をずっと探していて、スティーヴ・スティーヴンスがそこにはまったんでしょうね。でもそこから、彼はまた次に行くわけで。またはまらないものがたくさん出てきて、21世紀になって再びレコード会社が変わって、東芝EMIに復帰、新たなビートを取り込むようになります。その話はまた来週。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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