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氷室京介の2000年代から2016年「LAST GIGS」までを語る

Rolling Stone Japan / 2020年12月11日 12時0分

氷室京介

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年11月の特集は、氷室京介還暦特集。今回は、東芝EMI在籍時代に氷室京介を担当していた制作部ディレクター子安次郎をゲストに迎えて、2003年のベストアルバム『Case of HIMURO』から2016年「LAST GIGS」の時期の氷室京介について語っていく。



田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、氷室京介さんの「ANGEL 2003」。2003年3月発売のベストアルバム『Case of HIMURO』収録でした。歌詞が変わってましたね。"臆病者にはなりたくはない"、オリジナルは"臆病な俺を見つめなよANGEL"でした。今週の前テーマ曲です。

関連記事:氷室京介の充実期、1990年代後半の作品を振り返る

今月2020年11月の特集は氷室京介。先週と今週は元東芝EMI制作部ディレクター、現在はユニバーサルミュージックのプロデューサー、子安次郎さんをお迎えしております。こんばんは。

子安次郎(以下、子安):よろしくお願いします。

田家:氷室さんは2002年にポリドールから、再び東芝EMIに戻ってこの『Case of HIMURO』から子安さんが担当されました。それが決まった時はどう思われました?

子安:また一緒にできるんじゃないかなっていう気持ちはあったんですよね。我々はウェルカムだよっていう信号は常に発し続けていたというか。具体的には話してないですけど、ライブによくお邪魔したりとか、また一緒にできたらいいなという気持ちはずっと出し続けていたので。そういうタイミングが来たんだなという嬉しい気持ちと、戻ってきてくれたなっていう喜びはありました。

田家:『Case of HIMURO』はロサンゼルスでレコーディングが行われて、子安さんも向こうに行って再会したという。

子安:何回か向こうにお邪魔するようになって、家で久しぶりに会いました。そんなに深い話はしてないんですけど、この数年間、何をやってたかとか、日本の音楽状況はこうなってるんだよっていうことを話しているうちに、次のアルバムリリースの前に、15周年という区切りでこれまでの音楽の流れをまとめた集大成をリリースしようという話になりまして。ロサンゼルスでリマスタリングして、この時代の良い音でリリースしようということになりましたね。

田家:この「ANGEL2003」の新しい歌詞はどう思われました?

子安:ライブでこの楽曲をやり続けてきた中で、楽曲が進化していったんだなという感じがしました。ご本人の年齢を重ねてきた部分とライブの中で作られてきた部分。歌詞だけではなく、サウンドも尖った形になってきたし、この間に世界の音楽の流れが少し変わってきたので、新たにそういうものを形にしたいという想いが氷室さんの中にあったんでしょうね。

田家:東芝EMI復帰の第一作オリジナルアルバム、2003年8月発売の『FOLLOW THE WIND』はまさにそんなアルバムでした。そのアルバムから、「Weekend Shuffle」。



田家:僕この曲好きなんですよ。この畳みかけ方と滑り出し方が実に気持ちいいなと思って。子安さんが復帰された時には、このアルバムの制作段階はどれくらいだったんですか?

子安:デモテープはほとんど聴いてなかったですね。まず『Claudia』のシングル盤やタイアップの話もあった中で、断片的に出てきてはいました。

田家:『FOLLOW THE WIND』は、一旦出来上がったものを全部破棄したと伺ったことがあります。

子安:全部ということはないですけど、一回歌ってみて言葉のノリが違うので歌い直したりとか。氷室さんは、単に音符に言葉を乗せていくんじゃなくて、氷室さんなりの言葉の乗せ方が個性だと思うんですけど、そこでビート感やスピード感も含めて、その時代のサウンドになっているかということはすごく気にしていたんじゃないかと思います。

田家:このアルバムは、HIPHOPの要素とかも取り込んでいて。一曲目の「VIRUS」は特にそんな感じでしたね。

子安:氷室さんはロサンゼルスに住んでいて、現地の音楽を肌で感じられる環境にいて。これから自分が生み出していく音楽も、そういう場所で自信を持って出せるものにしたいという想いは強かったのかなと。久しぶりに会ってまずびっくりしたのが、英語がペラペラだったんですよ。スタジオで通訳なしで、氷室さんご自身でやられるのを見て、もうそんなレベルなんだということを『Case of HIMURO』のレコーディングの時に感じました。

田家:なるほど。『FOLLOW THE WIND』を聴いた時はどう思われました?

子安:ものすごく尖っているというか。前向きに攻めている感じのアルバムですね。

田家:このアルバムから、子安さんが忘れられない曲として選んだのがこの曲です。「RAP ON TRAP」。



田家:この曲を選ばれたのは?

子安:氷室さんがご自身の中でかっこいいと思われるものをストレートに表現して、日本のマーケットではどう受け取られるのか? という投げ掛けがあったのかなという感じがして。特にこの楽曲が、当時の氷室さんから考えると実験的でもあったでしょうし。すごく残った曲ですね。

田家:森雪之丞さんの朗読が入っている箇所もありましたもんね。

子安:森さんというキーマンが、この時期から共同作業していくわけですね。

田家:子安さん自身は、森雪之丞さんとお付き合いがあったんですか?

子安:私は何回か一緒に仕事をさせていただいたことがありました。

田家:他のアーティストと組んだ時と氷室さんと組んだ時で、森雪之丞さんの言葉の質感が全然違いますもんね。

子安:森さんは色々な引き出しをお持ちですけど、氷室さんにはこの引き出しを開けるべきだっていうものを見事に出してきてますね。

田家:このアルバムを携えた2003年のツアー「KYOSUKE HIMURO TOUR 2003 "HIGHER THAN HEAVEN」のアンコールで、氷室さんが歌えなくなったんですよね。「CLOUDY HEART」の時に、「プロモーションもやらずにロサンゼルスで好き勝手にマイペースでやってるだけなのに、こんなに集まってくれて」と涙ぐんで歌えなくなってしまった。あの涙をどう思いました?

子安:音楽をずっと続けてきて、アメリカに行ってしまえば皆は俺のことを忘れてるだろうと。でも、一番大事にしてきたファンとの信頼関係を作っていくんだ、途切れさせないんだと、ツアーのステージでご本人が感じられたんじゃないでしょうか。

田家:特に『FOLLOW THE WIND』は日本のメインストリームの音楽とはかなり違う、尖った音楽だったわけです。それでもこんなにファンが集まって支持してくれているということで、感極まった。お聴きいただいたのは、子安さんが選ばれた曲「RAP ON TRAP」でした。



田家:"傷つくのは弱さのせいじゃない"。氷室さんは、「俺と雪之丞さんとの共通項は傷なんだ」と仰っていましたね。この曲で思い出されることはありますか?

子安:このスピード感とビート感は、前の作品とは一段階違う時代感。楽曲ができた時に、この曲はライブですごく盛り上がるんだろうなというのを感じましたね。

田家:この「Wild Romance」がシングル盤でリリースされる前に、2004年8月22日に東京ドームで「KYOSUKE HIMURO "21st Century Boøwys VS HIMURO"」という、ソロの曲とBOØWYの曲を交互に披露するライブが行われました。

子安:BOØWYというものをどう消化しているのか。BOØWYで歌っているのは氷室さんですし、ソロで歌っているのも氷室さんですし。そこで一つ踏ん切りというか、一皮剥けて堂々とやっている感じがしましたね。

田家:両方とも俺なんだ、とちゃんと言えるようになってる。そんなに身構えずに、今の曲の方がかっこいいんだっていう想いがあったからできることもあったんでしょうしね。このアルバム『IN THE MOOD』は、それまでのアルバムとかなり違う要素がありました。

子安:シングルが2004年、アルバムが出たのは2006年で、その間にGLAYさんとのコミュニケーションも深くなってコラボシングル『ANSWER』をリリースして。

田家:あれは夢のような光景でしたね。

子安:アメリカに根を生やしてロサンゼルスで音楽制作をしていた氷室さんと、ある意味で非常にドメスティックに活動をしていたGLAYさんが良いタイミングで会って、その中から氷室さんの中で新しいものが生まれてきたんだなという感じがしました。

田家:その一方、『IN THE MOOD』にはジミー・イート・ワールドの「Pain」やAFIの「Miss Murder」のカバーも入っていました。

子安:これは個人的にはすごく自然なんだろうなと。洋楽アーティストがオリジナルアルバムをリリースする時に、カバーを収録したりするのは自然なことですからね。カバーって自分のオリジナリティに自信がないとカバーにならないですよね。コピーはできても、カバーになるかどうかは、そこにオリジナリティがあるかないかっていうことが全てで。氷室さんは自分のオリジナリティというものを確立してきた中で、自然にこういうカバーが出てくるんだなと思いました。

田家:横浜スタジアムで「ウォーターエイド」っていうチャリティーイベントがあって、それに氷室さんが出演された時にAFI連れて来ましたもんね。このアルバムから、子安さんが選ばれたのはこの曲です。



田家:思わず笑みが溢れるくらいのカッコ良さですね。これを選ばれた理由は?

子安:これは先ほどもお話しましたけど、この時期にGLAYさんとのコラボが本当に自然な形で成立して、作品という形になったということがとても嬉しい事件で。それで選ばさせてもらいました。

田家:作詞がTAKUROさんで、演奏がGLAY、ドラムには氷室さんとGLAYの両方を担当していたToshi(永井利光)さんが参加されていました。この曲はずいぶん前に氷室さんが書いて、形になっていなかったと。それでTAKUROさんなら歌詞を書いてくれるのでは、GLAYだったら形になるのではないか、ということで依頼した。子安さんの中で、BOØWYとGLAYの似ているところと違っているところはどんな風に思われてますか。

子安:GLAYとは流れの中で繋がっているバンドですけど、BOØWYとそれぞれ見事に一つのバンドを作り上げていているんで、あえて比べる対象でもない気がしますね。

田家:GLAYのビートとBOØWYのビートって違いますよね。

子安:リズムってボーカリストが作ってるんじゃないかなと思ってるんですよ。氷室さんの誰にも真似できないビート感とGLAYのTERUさんの持ってるビート感ってやっぱり違いますもんね。

田家:本人たちじゃないと分からないものがあると思いますが、明らかに違う。でもこんな風に一緒になることもあるという曲、「Say something」でした。





田家:2010年発売12枚目、50歳になった時のアルバム『"B"ORDERLESS』からの一曲。前作『IN THE MOOD』から今作に至るまで色々なことがありました。ベストアルバム『20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST JUST MOVIN ON 〜ALL THE-S-HIT〜』では、KAT-TUNに書いた「Keep the faith」や新曲「Be Yourself」、「Lovers Day -20th Anniversary Special Arrange Version‐」が収録されていて。矢沢永吉さんの還暦記念東京ドーム公演に飛び入りしたりして、このアルバムに繋がりました。今作にはミュージシャンやアレンジャーに新しい人がかなり加わってましたね。

子安:このアルバムには、私の下で現場ディレクターをやってた阿部くんという人がついたんですが、氷室さんの中でも新しいスタッフが入ってきてた時期なんだろうなと思いましたね。

田家:ギタリストにはYTさんが加わって。彼の存在は大きかったでしょうね。

子安:阿部さんからもそういう話は聞いていて、環境によって新しい刺激を受けて新しい物を生み出すのはものすごく良いことだなと思いました。

田家:クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのサポートメンバー、アラン・ヨハネスさんがアレンジで加わったり、レッド・ホット・チリペッパーズのドラマー、ジャック・アイアンズさんが参加していたり、アダム・ランバートの「Time for Miracles」のカバーもあって。当時のインタビューで、日本でこれが受け入れられるだろうか、という発言もあるんですよね。

子安:本人もここまでやって良いのかっていう想いもあったと思うんですけど、そこまで振り切ってるから良いというか。中途半端じゃない、その振り切り方が受け入れられてるんだろうなと思いますよ。

田家:洋楽をカバーする時に、息子さんに感想を訊くんだそうです。息子の方が俺よりロック詳しいんだけど、息子もかっこいいって言ってくれたから嬉しかったっていう話もありました。

子安:実際に聴いてくれる若い世代が、理屈じゃなくてかっこいいと思ってくれるかどうかってすごく大事なことですよね。

田家:向こうのロック・ステーションで流れてるような曲に混ざって遜色がないかどうかというのも、一つの目安になってるという話もありました。今作から子安さんが選ばれたのはこの曲です、「BANG THE BEAT」。



田家:2010年9月発売の12枚目のアルバム『"B"ORDERLESS』の中から「BANG THE BEAT」。2010年7月にはシングルでも発売されました。この曲を選ばれたのは?

子安:さっきも話しましたけど、私はこのアルバム当時に全体を見ていたんですけど、現場には現場のディレクターがいて、ちょっと俯瞰的な気持ちでこのアルバムを聴いた時に、この曲がストレートにかっこいいなと。好きな曲です。

田家:シングル『BANG THE BEAT』のカップリングには、マイ・ケミカル・ロマンスのジェラルド・ウェイが作詞も作曲もしていた。俺のキャリアの中でも一番洋楽なアルバムだと氷室さん本人も言ってました。このアルバムを携えたツアーが「KYOSUKE HIMURO TOUR2010-11 BORDERLESS 50×50 ROCKNROLL SUICIDE」でした。50歳で50本という数字はどう思いました?

子安:攻めてるというか。この歳でこういう挑戦をすることに見事だなと思いましたね。

田家:このツアーは、今月1週目のゲスト・日本テレビの山崎さんの話につながっていくわけですね。山崎さんが氷室さんに手紙を書いて、ツアーの取材をしたい。五十にして天命を知るということを一緒に体験したい、ということになった。このツアーの最後、2011年2月12日横浜アリーナでの公演で「俺の天命はこれだ」という言葉でこのツアーが終わるわけですが、3月11日には東日本大震災が起きて、次の曲が生まれます。子安さんが選ばれました、2011年12月配信、そして2012年3月にCDで発売になった「IF YOU WANT」。



田家:日本テレビのニュース番組「NEWS ZERO」のテーマ曲として依頼されていて、制作中に東日本大震災が起きて、歌詞が変わった曲です。番組のプロデューサーの山崎さんは、氷室さんを2010年から2016年を追った映画『DOCUMENT OF KYOSUKE HIMURO”POSTSCRIPT”』で克明に記録されています。子安さんがこの曲を選ばれたのは?

子安:流れとしては、この曲を日本テレビと組んだタイアップの初めの段階ではEMIが担当していて、最終的にリリースされたタイミングではワーナー・ミュージックに氷室さんが移籍するということもあって。本来であれば、EMIでこの曲をリリースしたかったなという個人的な気持ちも強くあってですね。

田家:山崎さん達と最初に打ち合わせしていたのは、最初は東芝EMIのスタッフだったんですね。なるほど。2011年6月11日、12日でBOØWYの曲を歌ったチャリティーコンサートがあって、その後にワーナー・ミュージックに移籍。2012年3月にワーナーからの最初のシングルとしてリリースされたのが、この曲。このチャリティーの後にも、「KYOSUKE HIMURO SPECIAL GIGS THE BORDERLESS FROM BOOWY TO HIMURO」というツアーがあって。最終日が武道館公演で、そこで氷室さんがなぜ移籍したのかという話をしていました。氷室さんが最も信頼する石坂敬一さんという東芝EMIの屋台骨だったような人が、ポリドールに行って、更にそこからワーナーに行ったので、氷室さんもワーナーへ行くと。

子安:石坂さんはもう亡くなられてしまいましたけど、氷室さんもすごくリスペクトしていたミュージックマンですよね。氷室さんが一緒に動かれたというのは、私としても「だったらしょうがないな」と(笑)。

田家:ワーナーに行かれて、第一弾が2013年の『KYOSUKE HIMURO 25th Anniversary BEST ALBUM GREATEST ANTHOLOGY』。翌年の2014年にツアーが始まって、そのツアーの最終日の7月13日に周南市文化会館で、引退の話をすると。

子安:声が出ない、体が動かないというのはどこかで来るのでしょうけど、このタイミングということが信じられなかったですね。

田家:子安さん選曲の最後の曲は2016年に出たベストアルバム『L ÉPILOGUE』から、この曲です。

The Sun Also Rises [Live] / 氷室京介

田家:この曲を選ばれたのは?

子安:アーティストにとっての自分の歩いてきた道。ただ音楽が好きで聴いていて影響を受けていたところから始まって、自分が音楽家になり、それを好きな人が生まれて、その中から新しい世代が登場してくる。過去や現在、未来の流れを、この年齢だからこそ歌える曲なんだな、氷室さんにとっても一つの代表曲になるだろうなという感じがしてました。直接関わってないんですけど、個人的にすごく好きな曲です。

田家:今のアルバムには、前半にBOØWYの曲のセルフカバーもありました。そして、最後には今のライブバージョン、2014年7月19日、豪雨と骨折の横浜スタジアムの1日目の公演が収められていて。この後に7月20日の奇跡の1日があって、2016年の「LAST GIGS」に繋がっていくわけですね。子安さんは、BOØWYの「LAST GIGS」にも立ち会われているわけですが、この2つの「LAST GIGS」についてどう思われますか?

子安:BOØWYの方は、もうバンドとして解散するんだと。解散宣言は前年の12月で、年が明けたら発表するというもので、ある意味で次が始まっていた中での「LAST GIGS」という存在だったので、言ってみればひとつのお祭りのようなもので、感傷的なものは自分の中では少なかったんです。でも、ソロでのラストということが本当にピリオドになる可能性もあるけど、この曲のタイトル通り"また日は登る"、何かが次につながっていく可能性も残されているんじゃないかなという意味で、この曲が印象に残ってます。何らかの形で、次の絵が見れるんじゃないかと希望を感じる「LAST GIGS」だったと思います。

田家:来年、どんな絵をご覧になりたいですか?

子安:私が想像するような物ではない、それを超えたものを見たいですね。

田家:来年を楽しみにしましょう。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」2020年11月氷室京介還暦特集Part5。ゲストに、当時の東芝EMIディレクター子安次郎さんをお迎えしました。今流れているのは、後テーマ曲で竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

5週間に渡った特集、いかがだったでしょうか? これだけメディアや公の場所に出てこないでも聴かれ続けているというのは、氷室さんはかなり稀有なキャリアですね。1988年から2020年、32年間でオリジナルアルバムが12枚です、最新作『"B"ORDERLESS』は既に10年前なのですが、語り継がれているし、語らなければいけないこともあるし、語るほどに次々と色々なテーマが出てくる人でもありますね。

私事ですが、『KYOUSUKE HIMURO since 1988』という1988年から書いてきた原稿がまとまった本が来年に発売なります。これを改めて読み出してみると、時間が経てば経つほど色々なことが分かってくるんですね。最初の頃に書いてあることは、やっぱりどこか恥ずかしいくらいに浅いんですね。氷室さんは、キャリアを重ねるごとに純化していって、ますます孤高になっていくというアーティストであります。来年はどうなるんでしょう、どんな作品になるのかな? と思います。子安さんも言ってましたが、中途半端な作品にはならないだろうな、僕らが思っていることとは違う、こういうだったのか! という驚きとともに感想が語られる作品になる気がしています。

10年位前からですね。氷室さんのコンサートを立って見ることができなくなったら、俺は引退だと思うようになってました。来年、またライブを見ることができるのでしょうか? まだまた立って見ることができるなと思っております。楽しみにしてます。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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