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映画『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』公開から50年、ストーンズのアメリカ制覇の手法を読み解く

Rolling Stone Japan / 2020年12月13日 14時0分

「〜ギミー・シェルター」の一場面、マディソン・スクエア・ガーデンで演奏するローリング・ストーンズ。

映画『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』の公開から50年が経つ。ミック、キース、そしてメンバーたちがどのようにして究極のロックンロール・ホラー映画を世に出したのか? 米ローリングストーン誌のロブ・シェフィールドが語ってくれた。

50年前の12月6日、ザ・ローリング・ストーンズは映画『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』を公開した。すこぶる評判の悪いこのドキュメンタリーは、1969年のツアー終盤の数日間におけるイギリスから来た悪童たちの様子から始まり、オルタモント・スピードウェイでの悲劇の無料コンサートへと話が進む。そして、最後には究極のロックンロール・ホラー映画の様相を呈する。アルバート・メイズルス、デヴィッド・メイズルス、シャーロット・ズウェリンの3人が監督したタイムカプセル的このドキュメンタリーはもう一度観るのをためらう作品だが、過去9ヵ月間に渡ってライブ音楽が消滅している現在は、あのオルタモントの悲劇という結末であっても興味をそそられてしまう。とは言え、2020年にこの作品を観るには覚悟を決めないと難しい。「ジェファーソン・エアプレインの数分間、ドラッグで暴徒化したバイカーたちがビリヤードのキューを振り下ろす姿に耐える」と。

1970年に公開された『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』(※日本での公開は1971年12月25日)は、映画2作品が合わさったようにも思える。前半はマディソン・スクエア・ガーデンからマッスル・ショールズまでストーンズのUSツアーの終盤を映し出し、後半がアルタモント。すなわち、前半はセックス、後半が暴力だ。言い換えれば、バンドが歴史を作るのが前半で、歴史がバンドに牙を剥くのが後半なのだ。そして、このロックメンタリーがよく知られている一番の理由がこの後半だ。しかし、前半はワイルドさ全開の音楽が楽しめる佳作であり、ライブバンドが頂点を極めるという点では衝撃的でもある。最高の瞬間が来るのは、ストーンズが「ホンキー・トンク・ウーマン」を演奏したあとだ。身体にフィットしたキャットスーツと赤いスカーフのミック・ジャガーが飛び跳ねる。「俺、ズボンのボタンを弾き飛ばしたみたいだ」と観客に打ち明け、「お前ら、俺のズボンが落ちるのなんて見たかないだろ?」と言う。

観客は間違いなく、ミックのズボンが落ちるのを見たかったはずだ。


メイズルス兄弟はストーンズのUSツアーの大半に参加できず、11月末に行われたニューヨーク公演にだけ参加できた(ズウェリンは編集段階で参加)。そうはいえども、メイズルス兄弟は威光すら感じられる演奏で観客に集中砲火を浴びせるストーンズの姿を余す所なく捉えている。映画の冒頭で「俺たち、お前ら一人ひとりを見てるぜ」と言ってミックがファンに流し目を送る。「お前らの最高の姿を見せてくれ。なあ、ニューヨークシティのみんな、喋りすぎだ……俺たちがお前らを見る番だぜ!」と。キース・リチャーズがアラバマにあるマッスル・ショールズ・スタジオのソファーに寝そべり、満足げな表情で「ワイルド・ホース」のプレイバックを聞きながら、ミックのヴォーカルに合わせて「Ive had my freedom, but I dont have much time」と唇を動かす。その顔は信じられないほど若く、純粋だ。ホテルの一室でキーフとミックが「ブラウン・シュガー」のラフミックスを聞いているとき、飛び跳ねるその姿は浅はかな子どものようだ。記者会見では「サティファクションは見つかったか?」と聞かれ、ミックは自分の状況を「経済的には不満、セックスは満足、悟りは努力している最中」と答える。



さらにミックはストーンズのUSツアーを、12月6日にヒッピーの聖地であるベイエリアで開催される無料フェスティバルで開催したかった理由を説明する。曰く「そこでは小宇宙的な社会ができあがっていて、彼の地以外のアメリカ国内で今後大きな集会が行われる場合の良い例となるから」。

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それはそうなのだが、目論見通りとは言えなかった。今ではこのフェスティバルがどのような形で終わったのか、誰もが知っている。コンサート会場は開催36時間前に荒れ果てたオルタモント・スピードウェイに変更された。そして、ビリヤードのキューを手に持ち、そのキューで流血するまで観客を叩きたおすヘルス・エンジェルズがステージを制圧した。ミックは「兄弟姉妹よ、もうやめてくれ! みんな、冷静になってくれよ!」と言って事態の鎮静を試みる。前列にいたヤク中がスミス&ウェッソンの22口径ピストルを手に持って振っていると、バイカーたちがこの男をナイフで刺し殺す。この模様はカメラに収められており、この数十センチ先でストーンズが「アンダー・マイ・サム」を演奏している最中の出来事だ。

オルタモントの2日前、グレイトフル・デッドがフィルモア・ウェストで最高の新曲を発表した。新たなヒッピー族のユートピア的夢がテーマの「Uncle Johns Band」がそれだ。もしもグレイトフル・デッドがオルタモントでプレイしていたら…と想像するとかなりシュールな光景が目に浮かぶ。ジェリー・ガルシアが観客席で暴れまくるバイカーたちに向けて「お前は優しいか?」と歌っているシーンが、『〜ギミー・シェルター』に入った可能性があるわけだから。しかし、デッドは暴動の可能性を事前に耳にしており、”悪いけど俺らはやめとくぜ”とばかりに出演を取りやめた。その代わりに、ガルシアとフィル・レッシュが楽屋でこの暴動の知らせを受けて、ジェリーが「なんてこったよ、参ったな」と言い、ついでフィルが「それって間違ってるよ、まったく」と言うシーンが『〜ギミー・シェルター』に挿入されている。

オルタモントにヘルス・エンジェルズを連れてきた張本人がグレイトフル・デッドだったが、映画ではその経緯には触れられていない(デッドのマネージャーのロック・スカリーは「エンジェルズはまともな連中だ。名誉と尊厳を持ったやつらだ」とストーンズに教えた)。しかし、危なげな雰囲気が漂い始めると、デッドは最も近いヘリコプターに飛び乗った。その結果、ストーンズがステージに登場するまでの2時間、一切音楽が演奏されない空白の時間ができてしまったのである。これが状況をさらに悪化させた。グレイトフル・デッドの公式年代記編者デニス・マクナリーが書いた本『A Long Strange Trip』では、オルタモントから逃げるヘリコプターの中で、デッドは夜空を見ながら占星術の話をしていた、と記されている。

デッドの歴史に存在する奇妙な要素の一つがごろつきたちへの執着で、デッドはタフな男たちに振り回されたいという欲求を消せなかった。それもバンド内でも、バンド外でも。オルタモントの一件はデッドがバンドとしてエンジェルズに憧れを持っていたことに起因していて、このとき、彼らの執着も欲求も完全に満たされたと一般人は信じている。しかし、デッドはこの事件をストーンズのカルマのせいだと責めたのである。スカリーは「ストーンズのせいだ、ホント。あのシナリオは連中が作ったんだ。払った金の分、しっかりやってもらったってこと。Let it bleedさながらにね」とローリングストーン誌に語った。それから数週間後、デッドはこの一件をテーマにした楽曲を公開した。それが「New Speedway Boogie」。歌詞を書いたロバート・ハンターは現場にいなかった。彼は映画『イージー・ライダー』を見たいがためにフェスティバルに行かなかったのである。これは、あの日最も分別のある決断だった。


『〜ギミー・シェルター』にはフライング・ブリトー・ブラザーズとジェファーソン・エアプレインのグルーヴィーなライブ映像が収録されている(サンタナとCSNYも出演していて、若かりし頃のジョージ・ルーカスが撮影クルーの一員だった)。エアプレインのセットの序盤でヴォーカリストのマーティー・バリンに数人が襲いかかり、完全にノックアウトされた。「愛し合うのでなければ身体に触れないようにして」と、放心状態のグレイス・スリックが言い、エンジェルズとファンの両方を責めた。「今のあなたたち、両方とも狂ってる」と(これは”偽りのバランス”の初期の声明で、あの当時この概念があれば、スリックのこの声明がニューヨーク・タイムズ紙のトップニュースの補足記事に掲載されていたかもしれない)。

この映画を映画館で見る機会に恵まれたなら、恐怖の中でも大爆笑必至のシーンが一つを楽しんでほしい。そう、あの犬だ。ストーンズが「悪魔を憐れむ歌」を演奏中、観客席では武力衝突が激しくなっていくのだが、突然一匹のジャーマン・シェパードがステージに登場し、ストーンズの前を横切る。ミック、ご愁傷さま。このステージで一つの宇宙を作り上げようとがんばって、ロシア革命的なレベルまで到達しかけた瞬間、一匹のジャーマン・シェパードが登場したことで、すべてがモンティ・パイソンのスケッチと化したのである。



1969年のカリフォルニアの悪夢を描いた映画に出演したこの犬は、オールタイム最優秀犬優賞を受賞した記録を何年間もキープしていた。しかし、去年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に出演したブラッド・ピットの相棒ブランディにその座を奪われてしまった。こうなったらクエンティン・タランティーノが彼の『〜ギミー・シェルター』を作るべきだ。ラタンティーノは史実と真逆のファンタジーを描く天賦の才能に恵まれているから、タランティーノ版オルタモントでは、きっとキース・リチャーズがギターを火炎放射器にトランスフォームさせて、「フライド・ザワークラウト注文するやつ、いる?」と叫んで、土壇場で勝利を収めることだろう。

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『〜ギミー・シェルター』に戻ろう。この作品で魅力的な登場人物の一人が、ストーンズの東海岸の弁護士メルヴィン・ベリーだろう。彼の電話のシーンと記者会見のシーンはこの作品の中でも一番愉快だ。フェスティバルの音楽があまりにも酷い(pain in the ass)との苦情に対し、ベリーは「(assに応えて)私は肛門医にはなれない。私にできる範囲でどうしてほしいかを言ってくれ」と返答する。ベリーはパブリシティ大好きの目立ちたがり屋で、『スタートレック』にも一度登場したことがある(シーズン3「悪魔の弟子達」で悪役Gorganとして登場)。常に自分は悪徳弁護士(訳注:英語では”救急車を追いかける人”という)ではないと主張し、「だって私は救急車よりも先に病院に到着するからね」と言っていた。


しかし、ベリーには歴史に残る一大事に必ず関与するという奇妙なクセがあった。ミック・ジャガーは歌の中で「I shouted out, ”Who killed the Kennedys?”」とケネディ暗殺を扱っただけだったが、実はベリーは暗殺後の出来事に関与していた。そして、それは普通のストーンズ・ファンの認識よりも遥かに深かった。ジャック・ルビーがリー・ハーヴェイ・オズワルド射殺の罪で裁判を受けたとき、ベリーはルビー側の弁護士だったのだ。さらに、驚くべき偶然と言えるのが、ロバート・ケネディ暗殺事件では犯人サーハン・サーハンの弁護士だったことだ(言わずもがなだが、ルビーもサーハン・サーハンも単独犯と認定された)。つまり、ベリーはストーンズが反抗していたと思われるエスタブリッシュメントと、長い間深い関わりがあったのである。それを踏まえると、オルタモントでの彼のやり方には疑問が生じる。土壇場で会場をスピードウェイに変更する決断を下したのがベリーであり、彼がこの決断によってフェスティバルが安全に行われると保証したのだ。

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ドキュメンタリー『〜ギミー・シェルター』によってオルタモントの伝説は今日でも廃れていない。事実、オルタモントよりもひどいコンサートはごまんと開催されてきた。私も観たことがあるし、読者の中にもそういう人がいるはずだ(ウッドストック99などは、死者が出て破壊行為も横行しただけでなく、ジャミロクワイのセットまであったんだからね、まったく)。それこそ、70年代のNFLの試合では酔っ払いたちがもっとひどく暴れたものだし、(ニューイングランド・)パトリオッツの試合なんて相当なものだった。シェーファー・スタジアムの駐車場では殺傷事件まで起きていた。しかし、当時の事件はこの映画のようには記録として一切残されていない。このドキュメンタリーは最高のコンサート映画とは言えないかもしれない。私ならD.A.ペニーベイカー監督の『モンタレー・ポップフェスティバル67』を大々的に推薦する。しかし、『〜ギミー・シェルター』はロックンロール・ドリームの明暗をしっかりとすくい上げた作品で、めくるめく高みと崩壊する底辺の両方が描かれている。前半は『モンタレー・ポップ〜』と同じくらい楽しく刺激的だが、後半は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』的だ。とはいえ、両方とも確実に記憶に残る。そう、Let it bleedなのだ。

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