27歳で他界した「27クラブ」のスター20人|2020年ベスト
Rolling Stone Japan / 2021年1月5日 7時40分
ジム・モリスン、エイミー・ワインハウス、カート・コバーンら27クラブの面々(Photo by Aradlo Di Crollalanza/REX Shutterstock, Matt Dunham//AP/REX Shutterstock, Stephen Sweet/REX Shutterstock)
2020年、Rolling Stone Japanで反響の大きかった記事ベストを発表。この記事は「音楽部門」第6位。ロックンロールの歴史において最も謎めいた、非常に痛ましい偶然のひとつ「27クラブ」について。(初公開日:2020年7月12日)
27クラブという名称が広く知られるようになったのは、1994年にカート・コバーンが死んだ後、ロックファンが彼の年齢をジム・モリソンやジャニス・ジョップリン、ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックスらと結びつけるようになってからだ――もっとも、1970年代初期に4人の天才たちが2年間で立て続けに他界したときから、ファンの間ではすでに有名な話だった。
2011年にエイミー・ワインハウスが27歳でこの世を去ると、さらに27という数字の意味合いに注目が集まった。27クラブの大半はミュージシャンだが、それだけに留まらず、多くの俳優やアーティストが薬物中毒や自殺、不慮の事故など様々な理由で命を落としている。今回は27歳という若さでこの世を去った人々の一部をご紹介しよう。
・ロバート・ジョンソン
デルタ・ブルースで最も名高い唯一無二の存在、ロバート・ジョンソンが遺した楽曲はスウィングと不協和音を利かせた、時に調子外れのギターに、地獄の番犬、悪魔、絶望感を綴った鳥肌ものの民話的な歌詞を乗せられている――ロックンロールの歴史で何十年も脈々と流れてきた嗜好だ。収録した楽曲は50曲足らず――そのうちいくつかは、後にクリームや(「Cross Road Blues」)、キャプテン・ビーフハート(「Terraplane Blues」)、ローリング・ストーンズ(「Love in Vain」「Stop Breaking Down」)らによってカバーされた――ハウリン・ウルフやエルモア・ジェームス、メンフィス・スリムといった面々と演奏し、名声を手にした。「最高のブルースがどんなものか、知りたいか?」と、かつてキース・リチャーズは言った。「これがそうさ」 1938年8月、27歳の誕生日からわずか数カ月後、ジョンソンは出演していたライブハウスのオーナーの妻に言い寄り、口の開いたウィスキーを勧められ、それを飲んだ3日後にストリキニーネ中毒と肺炎で死亡した。彼の遺体はミシシッピー州の名前のない墓に埋葬されている。
・ブライアン・ジョーンズ
(Photo by Mark and Colleeen Hayward/Getty Images)
1969年、ジョーンズがイングランドの別宅で死んだのは自らの愚かな行動が招いた結果に見える。アルコールとドラッグを併用してプールに飛び込むことは、死神の腕の中へまっすぐ泳いで行くようなものだった。これほど明白でありながら、多くの人々が事件の公式発表に疑問を投げかけ、ブライアン・ジョーンズの死はロック史最大の謎として今も語り継がれている。ローリング・ストーンズのメンバーでさえも疑問の声を上げている。「彼の死を巡る謎は未だ解明されていない」と、かつてキース・リチャードは言った。「実際に何があったかは知らないが、なにやら良からぬことが起きていたんだよ」
・アラン・ウィルソン
(Photo by Susie Macdonald/Redferns)
キャンド・ヒートは作品的にも商業的にもかなり成功し、1969年には見事ウッドストック出演を果たした。だが、ギタリストの”ブラインド・オウル”ことアル・ウィルソンは悩み多き男だった。27クラブの大半のメンバー同様、彼もまた家族と疎遠だった。自信が持てず、鬱病に悩まされていた。彼の奇行のひとつに「屋外で寝る」というものがあったが、ボーカルのボブ・ハイトのロサンゼルスの自宅で迎えた人生最期の夜もそうだった。1970年9月3日、ハイト宅の庭でウィルソンの遺体が発見された。胸の上で両手を組み、傍らには睡眠薬セコナールの瓶があった。公には睡眠薬の過剰摂取による事故死とされたが、ドラマーのフィト・デ・ラ・パラは自殺だと信じていると語っている。
・ジミ・ヘンドリックス
(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)
1970年9月18日金曜日未明、ロンドンのガールフレンド宅に滞在中、ジミは睡眠薬を飲んだ。彼が何粒服用したのか、薬の中身を知っていたのか、誰もはっきりとはわかっていない。彼が服用した薬は強力な鎮静催眠薬ヴェスパラックス。たった半錠で8時間ぐっすり眠りこけるほど強力な薬だった――ジミは最大9錠服用した可能性がある。その上酒も飲んでいた。愚かで向こう見ずな行為だが、彼らしくもある。ツアー暮らしの数年間で、ジミはドラッグを見境なく服用するようになっていた。「ジミはヤクを一掴みして、中身も確認しないまま飲んでいた」と、友人のディーリング・ハウも語っている。
・ジャニス・ジョップリン
(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)
人生最後のレコーディングセッションを終え、ハリウッドのホテルの自室に戻ってきたとき、ジャニスが孤独を感じていたのは想像に難くない。「A Woman Left Lonely」など数曲を歌いながら、彼女は自分が恋人から大事にされていないことを悟った。1970年10月4日の午前1時頃、彼女は自分のヘロイン道具を取り出し、左腕の静脈に注射した。そしてホテルのロビーへ降りていき、自動販売機で煙草を1箱買って自室へ戻った。ドアを閉め、服を脱いで、ナイトスタンドに煙草を置こうと身を乗り出した。その途中で彼女はバランスを崩し、テーブルに顔を打ち付け、床に倒れた。翌日、倒れた状態で死亡しているのが発見された。
・ジム・モリスン
(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)
ジム・モリスンは死後、カリスマ的人気を得た。1979年にフランシス・フォード・コッポラ監督が『地獄の黙示録』のサントラに「The End」を起用したのがきっかけだった。彼のカルト的人気の陰には、ブライアンやジミ、ジャニスと同じ年齢で他界したという偶然もある。27歳という共通項が、ジムは特別な存在で、若くして死ぬ運命だったのだ、何か奇妙なことが起きているに違いない、という憶測が広まった。ジムの恋人も同じく27歳で他界したことで、さらに謎が深まった。1994年にカート・コバーンが27クラブの仲間入りを果たす頃には、ポップミュージック界では誰もが知る伝説となっていた。
・ロナルド・マッカーナン
(Photo by Tom Copi/Michael Ochs Archives/Getty Images)
ロン・”ピッグペン”・マッカーナンは感受性が強く、少々見苦しい人物で、アルコール中毒だった。1964年、彼がジェリー・ガルシアとボブ・ウィアーの3人で結成したジャグ・バンドは、後にグレイトフル・デッドとなった。ピッグペンは12歳からずっと酒浸りで、20代半ばにはすでに肝硬変や潰瘍など複数の病を抱えていた。1973年3月8日、ピッグペンは一人、サンフランシスコ湾を望むコルテ・マデラのアパートで息を引き取った。家主が発見したのは死んでから2日経ってからのことだった。
・デイヴ・アレクサンダー
(Photo by Leni Sinclair/Getty)
ザ・ストゥージズ創設時のベーシスト、”ザンダー”ことデイヴ・アレクサンダーはグループ結成前から問題児として評判だった。高校3年生のとき、友人と賭けをして始業式からわずか45分後に中退した。ビートルズに偶然出くわすかもしれないと淡い期待を抱いて、ザ・ストゥージズのギタリスト、ロン・アシュトンと渡英したこともあった。彼はまた、インドにヒントを得たデビューアルバムの1曲「We Will Fall」や、1970年のアルバム『Fun House』の「Dirt」など、常識外れのアイデアをバンドにもたらした。だが『ファン・ハウス』リリースの数日前、アレクサンダーはフェスティバルの出演前に鎮静剤を摂取し過ぎてろくに演奏できなかったため、フロントマンのイギー・ポップからクビにされた。書籍『The 27s(原題)』によれば、彼は残る人生を薬物中毒や病気と闘いながら過ごしたという。膵炎を患うほど酒に溺れ、その後肺に水が溜まって病院に担ぎ込まれたが、1975年2月に肺水腫で死亡した。「彼はストゥージズの原動力だった」と、かつてロンは言った。「彼は時代の先を行っていたんだ」
・ピート・ハム
(Photo by Fin Costello/Redferns)
カート・コバーン以外に、自殺と断定された中で最も有名なのがバッドフィンガーのピーター・ハム。1960年代、ビートルズが立ち上げたアップルレコードと契約を結んだバンドのメンバーだ。他の自殺の例に漏れず、ハムも死が唯一問題を解決してくれると信じるところまで来ていた。1975年4月24日、28歳の誕生日の3日前の夜、彼はイングランドの自宅近くのパブでバンドメンバーのトム・エヴァンズと会い、こう言った。「心配はいらないよ、解決法はわかっているから」 自宅に戻ったハムは酒の勢いを借りて、マネージャーへの恨みつらみを遺書にしたため、ガレージで首を吊った。その7年後、エヴァンズも首を吊って自殺した。
・クリス・ベル
1972年頃(左から)クリス・ベル、ジョディ・スティーヴンス、アンディ・ハンメル、アレックス・チルトン(Photo by Michael Ochs Archives/Getty)
クリス・ベルのキャリアは彼の死同様、痛ましいものだった。才能溢れたミュージシャンはパワーポップのヒーロー、ビッグ・スターの中心的存在で、ギタリストとしてボーカルのアレックス・チルトンと共に『#1 Record』の大半の楽曲を作曲した。だがいざリリースすると――楽曲はもちろん、10代の時に人気グループBox Topsのフロントを張ったチルトンも批評家から大絶賛されたにも関わらず――アルバムは不発だった。ファーストアルバムのリリースから6年後、ベルはビッグ・スターを脱退し、慢性的な鬱と薬物中毒にはまっていった。その後何度か音楽生活に復帰しようと試みたものの上手くいかず、最終的には家族が経営するレストランで働かざるを得なかった。1978年12月、バンドのリハーサルから帰宅する途中、愛車のトライアンフTR7が電柱に激突し、ベルは即死。死後ソロ作品の多くがリリースされ、ビッグ・スターのサウンドに彼がいかに重要な役割を果たしていかが改めて世に知れることとなった。
・D・ブーン
左端がD・ブーン
ミニットメンのボーカル兼ギタリストD・ブーンは、バンドと共にパンクとハードコアの様式を拡大し、電光石火の早弾きで、ファンクやジャズ、インプロビゼーションを織り交ぜた立役者だ。南カリフォルニア出身の4人組はレーベル仲間のブラック・フラッグと共に、80年代音楽シーンのDIY精神を確立し、80年代初期に4枚のフルアルバム――金字塔を打ち立てた2枚組アルバム『Double Nickels on the Dime(原題)』も含まれる――の他、シングルやEP盤も数枚リリースした。やがて有名人からも愛されるようになり、マイケル・スタイプがR.E.M.の3週間に渡る北米ツアーのオープニングアクトに彼らを起用したのは有名な話だ。1985年12月、ツアーを終えて帰郷してから数日後、ブーンは高熱を出した。それでも彼は、アリゾナ州にある恋人の実家で休日を過ごすことにし、恋人が運転する間一休みしようと、ワゴン車の後部座席で横になることにした。道中、恋人は運転中に眠気に襲われ、車は横転。ブーンは後部ドアから投げ出され、首の骨を折って死亡した。「最悪の事態だった」と、バンドメンバーのマイク・ワットは著書『Our Band Could Be Your Life(原題)』の中で語っている。「もう彼はいない。ミニットメンも終わった……彼がいなくなって寂しいよ」
・ジャン=ミシェル・バスキア
アンディ・ウォーホールとジャン=ミシェル・バスキア(Photo by AP)
20歳の誕生日を迎えた年、ジャン=ミシェル・バスキアはポップカルチャー転換期のアート界の寵児となった。高校を中退した後独学でアートを学んだブルックリン生まれの新表現主義アーティストは、ソーホー界隈に「SAMO」という署名付きのグラフィティアートを描いて70年代後半を過ごした。そして1980年、彼はようやく色鮮やかで荒っぽい人物像の横にしばしば一言添えた作品をグループ展示に出すことにした。その後はアンディ・ウォーホールとのコラボレーション作品を製作し、マドンナと浮名を流し、ブロンディの「Rapture」のミュージックビデオに出演した。また、作品を破壊したり、ドライフルーツやナッツを画商の頭にぶちまけたりと、気分屋のアーティストという伝説を作り上げた。その一方で深刻な薬物問題も抱えていた。1988年に「複数の薬物乱用による急性中毒」――具体的にはオピオイドとコカイン――で死亡するまでの数カ月間、彼は一日にヘロインを100回打っていると豪語していた。以来、彼は過去30年間で最も著名なアーティストの1人に数えられ、伝記映画が作られた他、ジェイ・Zの楽曲にも幾度となく取り上げられている。
・マイア・サパタ
(Photo by Jackie Ransier)
ギッツのリードボーカル、マイア・サパタはパンクの申し子。シアトルで急速に発展した男性主体のグランジロック・シーンにおいて、女性ボーカルの筆頭だった。デビューアルバム『Frenching the Bully(原題)』で地元の人気バンドとなったが、2作目のアルバムリリースを控えていた1993年7月、サパタは何度も殴られ、強姦され、その上首を絞められて殺された。ニルヴァーナやパール・ジャムといったグランジロックの権威が募金集めに奔走し、集まった数千ドルの募金で私立探偵を雇い、犯人捜しが行われた。真犯人が見つかって、ようやく有罪が言い渡されたのは2003年だった。こうした事態を受け、彼女の友人は自衛組織Home Aliveを立ち上げ、シアトルを拠点に活動するバンドを集めてチャリティコンサートを開いたり、コンピレーションアルバムをリリースしたりした。サパタの友人でもあった7・イヤー・ビッチのメンバーは、1994年に追悼アルバム『Viva Zapata』をリリース。ジョーン・ジェットも、犯人捜査の資金集めのためにイーヴル・スティグ名義で(Gits Liveの逆読み)ギッツとツアーを敢行。亡き友を偲んだ。
・カート・コバーン
(Photo by Michel Linssen/Redferns)
カート・コバーンの遺体は1994年4月8日金曜日、電気技師によって発見された。書籍『Who Killed Kurt Cobain?(原題)』の著者の疑問に対する答えは簡単明瞭。カート・コバーンは自殺した。精神状態を綴った遺書を残し、彼は突如自らの手で荒々しく命を絶った。カートを担当していた薬物中毒のカウンセラーは、彼が訴訟で自宅を失うのではないかと気に病んでいたことを回顧する。「自殺傾向のある人々は、なんらかの意思表示をしたがるものなんです」と、ニーアル・スティムソン氏。「彼が自宅で自殺したというのを聞いて、(まるで)『何がなんでも家は渡すものか……』と言っているような気がしました」
・クリステン・パーフ
(Photo by Erica Echenberg/Redferns)
シアトルで行われたカート・コバーンの葬儀に、クリステン・パーフも参列していた。コートニー・ラヴ率いるバンド、ホールのメンバーで、同じくメンバーのエリック・アーランドソンの元恋人でもある。1994年、カートの死から2カ月後、パーフはジム・モリスンさながらに、シアトルのアパートの浴槽でヘロインの過剰摂取により死亡した。彼女もやはり27歳。シアトルの音楽シーンでは1年以内に、彼女を含め3人がこの年齢で死亡した。
・ランディ・”ストレッチ”・ウォーカー
絶頂期のトゥパック・シャクールは、彼の近くにいるだけで誰でも有名になれそうなほどの勢いだった。ランディ・”ストレッチ”・ウォーカーが有名になったのも、そのおかげかもしれない。だが彼は、取り巻きの一人として片付けられないような才能を秘めていた。優秀なプロデューサーでラッパーとしても長けていたストレッチは、自身のグループ、ライヴ・スクウォッドを結成した後もトゥパックのスタジオアルバムに定期的に参加し、ミキサー卓でもマイクの前でも、90年代に流行した生粋のギャングスタ精神を発揮した。その本物さゆえ、最終的には1995年11月にクイーンズで暗殺の標的にされてしまう――それから1年も経たないうちに、トゥパック本人も射殺された。今頃2人は、あの世でオールド・イングリッシュの盃を傾けていることだろう。
・ジェレミー・マイケル・ワード
ジェレミー・マイケル・ワードがLAの自宅でヘロインの過剰摂取で死んでいるのが発見されたのは2003年5月。所属するバンド、マーズ・ヴォルタのデビューアルバムのリリースまで1カ月を切っていた時だった。ファーストアルバムにも関わらず、『De-Loused at the Comatorium』はその年最も期待されていた1枚だった。2001年、アット・ザ・ドライヴインの創設メンバーだったオマー・ロドリゲス・ロペスとセドリック・ビクスラー・ザヴァラは、エルパソ時代のポストハードコア路線を捨て、メインストリームでの成功を目指し、次のレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンという地位を捨てて荒野へと乗り出した。2人は幼馴染で長年一緒に音楽をやってきたワードとバンドを結成。ワードはバンドの「サウンド・マニピュレーター」として、型破りな発想を形にした。『De-Loused at the Comatorium』はリック・ルービンのプロデュースによるプログレ・パンクオペラで、ドラッグが原因で植物状態になった患者の頭の中、という設定だった。1996年にテキサス州の高架道から飛び降り自殺した友人のアーティスト、フリオ・ヴェネガスの実話から着想を得たものだ。ワードの勝手気ままな振る舞いやアバンギャルドな才能とは裏腹に、バンドで演奏するときの彼はステージの脇に陣取り、複雑なペダルとKORG KAOSS PADで楽曲を繰り出した。彼の死後もバンドはアルバムをリリースし続けたが、いずれもファーストほどの成功を収めることはできなかった。
・ジョナサン・ブランディス
(Photo by Warner Brothers/Kobal/REX Shutterstock)
2003年のジョナサン・ブランディスの自殺は、よくある元子役スターの転落という暗い事実の現れだ。ブランディスは6歳で子役デビュー。最初は昼ドラやシットコムの端役としてスタートしたが、やがてスティーヴン・キングの『IT』といった映画に出演するようになった。だが1993年、17歳の時に人気テレビドラマ『シークエスト』に出演して大ブレイク。たちまち人気者となり、何千というファンレターが殺到し、ビートルズに迫るレベルの社会現象を巻き起こした。だが1996年にドラマが打ち切りになると、ブランディスは名声と役者人生を維持することが難しくなった。2002年、ブルース・ウィリスとコリン・ファレルが共演した『ハーツ・ウォー』に起用されたが――本人はカムバックのチャンスと考えていた――彼が出演したシーンは全てカットされてしまった。1年後、彼はロサンゼルスのアパートで首を吊り、その後搬送先のシダーズ・サイナイ医療センターで息を引き取った。
・エイミー・ワインハウス
(Photo by Matt Dunham/AP/REX Shutterstock)
2011年7月ロンドンの自宅で最後のウォッカを呷ったとき、エイミーがどんな心持ちだったかのか、今となっては知る由もない。彼女は生前、人生でまだまだやりたいことがたくさんあると語っていたが、もはやそれも叶わなくなってしまった。色々な意味で実に正直であけすけだったにも関わらず、自分の内面についてはあまり話そうとしなかった。我々が知るエイミー像から判断する限り、彼女はキャリアに嫌気がさしていたという見方が強い。ジミ・ヘンドリクスやカート・コバーン同様、彼女も自分のイメージに囚われてしまったのだ。またジャニス・ジョップリンの場合と同じく、最期の瞬間に彼女の恋人もそばにいなかった。エイミーが心の拠り所とし、度々振り回してきた人々も同様だ。
・アントン・イェルチン
(Photo by Getty Images)
アントン・イェルチンは27歳の生涯で数多くの作品を遺した――2011年から2015年の間だけで声の出演を含まずに18本の映画に出演――それでもとても十分とは言えない本数だが。ジム・ジャームッシュやドレイク・ドレマス、ジェレミー・ソルニエといった先見の明を持つ監督たちから愛された繊細な俳優は、まだ絶頂期を迎えてもいないうちに、自分の車とレンガの柱の間に押し潰されるという不慮の事故でこの世を去った。だが彼は、超大作から(リブート版スタートレックで情熱的なチェコフ役を演じた)ホラーのリメイク(2011年の『フライトナイト/恐怖の夜』で物語のキーパーソンを熱演)、ミニシアター系ロマンスものまで(『今日、キミに会えたら』ではフェリシティ・ジョーンズと恋に落ちる)、輝かしい芸達者ぶりを見せてくれた。もし生きていたらどんな役者になっていたか知る由もないが、今はただ、彼が遺した功績に感謝を示すばかりだ。
註:エントリーNo.2~7、9、14、15、19は、Da Capo Pressの承諾を受け、ハワード・スーンズ著『The 27s: A History of the 27 Club through the Lives of Brian Jones, Jimi Hendrix, Janis Joplin, Jim Morrison, Kurt Cobain, and Amy Winehouse(原題)』から引用・転載しています。
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