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AUTO-MOD山岡重行と手島将彦が語る、閉塞した社会におけるサブカルチャーの重要性

Rolling Stone Japan / 2021年1月12日 17時0分

山岡重行(左)と手島将彦(右)

「アーティストのメンタルケア」が近年、注目を集めている。日本では2019年、音楽学校教師で産業カウンセラーの手島将彦が、書籍『なぜアーティストは壊れやすいのか? 音楽業界から学ぶカウンセリング入門』を上梓。洋邦問わず、ミュージシャンたちのエピソードをもとに、カウンセリングやメンタルヘルスに関しての基本を記し、アーティストやその周りのスタッフが活動しやすい環境を作るべきだと示した。

一方、日本のロック史において、80年代からユニークな存在感を放つバンドAUTO-MODの元メンバーであり、ユニークネスを研究する社会心理学者として聖徳大学心理学科の専任教員も務める山岡重行。サブカルチャーへの造詣も深く、血液型、オタクや腐女子といった分野を中心に、データを用いてステレオタイプを否定していく、"闘う心理学者"とも呼ばれている。

関連記事:ピエール中野と手島将彦が語る、現在の音楽業界に必要なメンタルヘルス

そんな2人による対談を敢行。多数派から少数派に対する差別的な見方や、ミュージシャンやサブカルチャーと社会の関係性について語り合ってもらった。

ー手島さん自身、AUTO-MODのファンでいらっしゃったんですよね。

手島将彦(以下、手島): AUTO-MODOのほぼ全作品をアナログで持っていたんですよ。当時は地方都市に住んでいたので、レコードを集めるのもなかなか大変でした。色々と検索をしているうちに山岡さんが書かれた心理学の著書も読ませていただきまして。ぜひお話を伺ってみたいと思ったんです。今日は個人的にとても感慨深いです。

ー山岡さんは大学で教鞭を取られていて、”闘う心理学者”という肩書きもお持ちでいらっしゃいますよね。どういった研究をされているのでしょう?

山岡重行(以下、山岡):元々心理学の領域でやっていた研究テーマが、人間が持つ他人と違っていたいという「ユニークネス欲求」で、博士論文もこのテーマで書きました。それは、「俺はお前たちとは違う」という多数派に対する少数派の自意識と捉えてもいいと思うのですが、逆に「多数派が少数派をどう見るか?」 という方面にも関心が広がっていきました。少数派を見る多数派の意識は、容易に差別意識に変わるのではないかと。そこから広がって、血液型性格診断に付随する少数派の血液型であるB型やAB型に対する差別の調査や、腐女子やオタクに対する多数派からの意識も研究するようになりました。その結果、差別の実態を明らかにしたり少数派のステレオタイプをデータに基づいて否定する、ことをやってきました。

手島:僕も、少数派や多数派という見方を持っておくのは大事だと思っているんです。山岡さんの著書(「サブカルチャーの心理学」福村出版)でも触れられていますが、アメリカの公民権運動では、アフリカ系アメリカ人の方々も少数派だったわけですよね。存在していることが悪いわけではないのに、単に少ないという理由で否定や差別されるという点では、発達障害や性的マイノリティ、双極性障害などのメンタルヘルスに関しても同じだと思っていて。社会システムなどが、少数派に適したように構築されてないということもあるし、そもそも社会のシステムは多数派寄りに作られているから、少数派の人たちが割を食っている部分もある。だから、少数派の存在を否定的に捉える前に、世の中をちょっと疑ってみたらいいんじゃないかなと僕は思うんです。


手島将彦(左)と山岡重行(右)

山岡:多数派を形成するためには、スケープゴートが必要なんですよ。例えばアメリカは、移民をまとめ上げた国ですから、常にどこかと争ってきたんですよね。最初に北アメリカに渡ってきたプロテスタントのアングロサクソン系の白人が土地を自分たちのものにして資本家になっていき、遅れてきたカトリック系白人は小作人などの労働者階級になった。一方、明らかに白人とは異なる有色人種の黒人やユダヤ人もいる。その社会の中ではランキングが先ずあって、白人がいて、その下に有色人種がいる。明らかに違う階級を作ることで、上の階級がまとまって多数派を結成するわけです。異質な存在がないと多数派が形成できないんですよね。日本は、歴史的に士農工商の身分格差などはありましたが、言語、人種や宗教の多様性は外国に比べると少ない方なので皆が一緒だという意識を作りやすい場所ではありますね。

ー少数派を差別対象に見るというのは、集団心理的なものなのでしょうか?

山岡:少数派をネガティブに見る傾向があるんです。錯誤相関(Illusory correlation)と言うんですが、多数派と少数派の2つの集団があり、一人一人の情報をスライドで映していく。その中で、ネガティブなことをした人もいるんですがその割合を2つの集団で同じにしておくんです。全部のスライドを見てもらった後で、ネガティブなことをした人はそれぞれどれくらいいたか? と訊くと、少数派に多いと認識する傾向があったんです。どうにも人は、少数派の方にネガティブなところを強調して見てしまう心理があるみたいですね。

手島:日本だとエンターテインメント、芸事に属する人たちって、士農工商の時代で言うとその枠から外れたある種のネガティブな少数派に捉えられている部分もあると思うんです。その辺はいかがなのでしょうか?

山岡:江戸時代、例えば役者は河原乞食って呼ばれたり、吉原の遊郭も士農工商から外れた人々で、遊郭は通常の社会とは完全に別世界で、ほぼ治外法権的な扱いをされてきたわけです。でも、花魁や歌舞伎役者は江戸時代のファッションリーダーでした。ある意味で、階級社会の外にいる人たちの影響を上の階級の人が受けるというのは、日本独特なポイントなんです。ヨーロッパの歴史だと、王様たちを楽しませるための弦楽四重奏などもありましたけど、それはある意味で正しい音楽ですよね。宮廷の正しい音楽がオーケストラやオペラになり下位の階級に伝わるんです。でも、日本の場合、正しい音楽という認識はなかったと思うんです。もちろん宮内庁には雅楽部がありますけど、それ以外の音楽を否定したわけじゃない。お神楽など階級が上の人たちに近い音楽を庶民もやっていたし、庶民の中で流行ったもの、例えば琵琶法師の語りを偉い人たちが聴くこともあった。琵琶法師の社会的な地位は低かったので、もちろん差別した人もいたでしょうけど、受け容れた上位の社会階層の人もいたんですよね。日本の場合は音楽やファッションでも、完全に上から下という形だけじゃなくて、下から上に江戸時代の町人文化が侍階級などにも影響してきました。日本は、階級意識とは無関係に芸事を許容してきたのだと思います。

ー現代の音楽やエンターテインメントの世界で考えると、手島さんはミュージシャンや芸能人の社会の中での存在感が薄くなっているのでは、という話もされてきましたよね。

手島:僕が感じるのは、ミュージシャンや芸能人が普段から物を言わないということで。例えば、東京ロッカーズの方たちって、社会に対してアンチテーゼやカウンター的なことをたくさん言うわけですよね。もちろん流行や時代背景の関係もあると思うんですけど、いつからか、そういうことを言うのが格好悪い雰囲気になってしまった。できるだけ当たり障りのない話題に触れていく流れになってきている。そうなると、社会の中での存在感が薄くなっていくと思うんです。一方で、ある種の少数派の人たちはカウンターとしてすごい力を持っているはずなんです。なのに、自らそれを放棄してしまうことに繋がっている感じもして。ただ漠然とコンテンツとして消費されているんじゃないか、と思っているんです。

ーもちろん今の芸能人やミュージシャンが社会に目を向けていないわけでないと思います。でも、曲や音楽のメッセージが社会に対して明確にフォーカスされていない、もしくはしにくい状況なのかなと感じることもあります。

山岡:頭脳警察のパンタさんのトークライブで、彼が「反抗とか反体制っていうのは体制がしっかりしてないと出来ない、あいつらにはちゃんとして欲しい」と仰っていて(笑)。あの世代の人たちは60年代のカウンターカルチャーという意識があって、日本の厳然たる歌謡界に取り込まれる形じゃなくて日本にロックを根づかせようという意識が強かったんですよね。元々ロックンロールは、良識ある大人が嫌がるものだったわけですから、嫌がられてナンボ的なところもあったし、セックス・ドラッグ・ロックンロール的な感性や男性原理、暴力的な要素がロックだっていうのも一つの形としてあった。でも、その下の世代がいつまでも悪ぶってるのは格好悪い、彼らの上の世代に対する反抗として良い子になっちゃうっていう動きもあったと思います。ちょっと上の世代がやっていたことって、なんとなくかっこ悪く見えますよね。二つ、三つ上の世代のものだとちょっと格好よく見えたりもして、再流行したりもするんですけど。あとは70年代にロックがスタジアムでやる音楽になってしまって、憧れの対象ではあるけれど、機材もテクニックも必要だし、アマチュアができるものじゃなくなってしまった。そこで、楽器なんて持ったことない奴がいきなりやり始めたっていいんだ、と始まったのがパンクですよね。

手島:音楽学校で働いているとそれはすごく実感するんです。ロックが最近またお金がかかるジャンルになってしまっているんですよね。10代の子が自分もロックをやりたいと思っても、ギター1本だけ買ってできることじゃないんですよ。エフェクターを何個か買って、良いアンプで鳴らして、それなりの練習する期間がないとすぐには弾けない。そんなに初期投資と時間がかかるんだったら、それに対するカウンターでHIPHOPとかが流行る流れになるのかなと。しかも、今の世の中に対してものを言っているのは、反体制的なアプローチなカラーが強かったロックよりも、ラップやHIPHOPをやってる人たちが多いんですよね。

山岡:言葉にかけるウエイトが違いますからね。楽器が使えない環境でレコードプレーヤーを楽器代わりにして自分たちの言葉を載せるところから始まっていますから。ラップは言いたいことを言う、そして何を言うかで評価されるわけですから。その時に自分の言いたいことを言って共感を得るのは一番気持ちいいですよね。

手島:あと、これは日本だけかもしれないですけど、ボカロPの人たち。彼らもパソコンがあれば曲を作れる。匿名性があるからだと思うんですけど、政治や思想的なことじゃなくても、踏み込んだ内容のことを言っていたりしますよね。

ー昨今、芸能人やミュージシャンが例えば政治的な発言をするとSNSで叩かれる、炎上するケースがあります。

山岡:社会の行儀がよくなって、表現の許容範囲がどんどん狭められていった感じがしますね。70年代の日本のドラマ、例えば「時間ですよ」なんていう銭湯を舞台にしたホームドラマでは性的な見せ方じゃなくても、乳房が映っていましたよね。80年代、90年代とだんだんその描写が少なくなっていって、2000年代ではほとんど裸が映らなくなった。あとは言葉の表現も変わってきますね。今では絶対ダメな用語や表現も、当時の映画やドラマに多かった。そういう言葉狩りがマスコミで行われて、表現の許容範囲が狭くなっていく。言葉は思考の材料ですから、そうなると、考えることの許容範囲も狭くなる。結果、それは駄目だと自主規制しちゃう人も増えてきますよね。また、学生運動のように60年代から70年代にかけて若者が政治に対して反抗していた時期もありますが、そういうことをさせないように国が若者を教育してきたのもあると思います。

手島:この前、いまの中・高学生は制服を変形させて着なくなった、という記事を読んだんです。それはそういう目論見はないにせよAO入学というシステムがあるからで、結果的に、若者たちを逸脱させない方向に落とし込んでしまっている面もある。そういう中で育ってきた分、若い人は、世の中に出ていくにあたってこれをやると不利益だっていうのが色々な場面で刷り込まれたり、もしくは恐れるようになっているのかなと。

山岡:あとは単に着崩すのが格好悪くなったんですよね。学生服が消えていった過程で、まず当時荒れていた学校が詰襟からブレザーに変えたんですよ。今、詰襟が残っているのはそれなりの進学校が多いんです。ブレザーになっても、90年代にHIPHOPが流行りだした頃には、ヤンキーは腰パンにしたり着崩していた。ギャルはルーズソックスとかミニスカートを着ていたわけですけど、当時はまだノーマルじゃない方がカッコよかったんですね。今は却って、そういうことをやると、差をつけるのは格好いいことじゃなくて悪目立ちになってしまう。イタい、格好悪いと逸脱を否定する圧力が若い人たちの中にあるように思うんですね。

ーそういう悪目立ちを嫌う雰囲気が、著名人の発言にも向けられるということですか?

山岡:その人のメインフィールドから外れたことを言うと、「何を生意気なこと言ってるんだ、何を勘違いしてるんだ」と、言われる。自粛警察にも共通するものがあるかもしれないんですけど、ちょっと違う方向に目立った人を中に押し込めようという力が、大人だけじゃなくて若者の中にもあるように思いますね。

手島:それは感じますね。なぜでしょう? もちろん、素人が専門外のことでデマを拡散したのなら、それは叩かれても仕方ないかもしれないですけど。例えばミュージシャンが音楽以外の話をしたら、突然その何様のつもりだって言われてしまうのはなぜなのか。

山岡:強く出れなくなったというのもあると思いますけどね。例えば事務所の方針とか。

手島:実際、事務所からそういうことは言わないようにしてくれ、と言われてる話は耳にします。たしかに、その方が得なことは多いと思うんですよね。でも、ハッキリとは言わないけど、本人は確実にそう思っているんですよね。

ー自分の生活を人質に取られてるようなものですよね。コロナ禍でも、事務所から出るなと言われたからイベントに出ませんというミュージシャンは少なくなかった。この先の活動に影響するから無理なことはしない、見えない何か圧力みたいなものを感じます。

手島:皮肉だなと思うのが、コロナ禍で自粛を真っ先に遵守したのがエンタメやコンサート業界だったにも関わらず、結局のところ一番後回しにされているのもこの界隈の人たちということなんですよね。何故そうなったかというと、日頃からちゃんとものを言わなかったが故に、後回しにしてもいい人たちになってしまったんだと思います。そういう風に見えてしまってるところが、ちょっと悔しいですよね。

山岡:クラスターを生み出したということで、最初にライブハウスとミュージシャンが悪者にされましたからね。

手島:それこそ少数派をスケープゴートにした構図になったんだと思うんですけど、スケープゴートにしやすいと思われたんだろうという気もするんです。要は、こいつらは敵に回すと厄介な少数派だと日頃から思わせられれば、真っ先に取り上げないような気もするじゃないですか。ミュージシャンや芸能人には何を言ってもいいという意識は、世の中全体に多少あるんじゃないかなと思います。

―SNSでの誹謗中傷コメントで自ら命を絶ってしまう芸能人やミュージシャンの方も出てしまいました。

手島:コロナ禍で彼らが自ら命を絶ってしまったのには、3つほど原因があると思うんです。一つは経済的な困窮や将来への不安の増大。もう一つは、今までやれていたこと、もしくはストレス解消になっていたことができなくなったこと。そしてもう一つが、彼ら自身が不要不急みたいに扱われて、自分の存在意義を否定されたところにもある。不要不急かどうかは、誰かに決められる話ではないじゃないですか。そもそも、何かの役に立つためにやっている、生きているわけじゃないと思いますし。その辺りの意識によって、エンタメに関わっている人が自分自分を追い詰めてしまい、辛くなっている気もしますね。

山岡:ある意味、ミュージシャンは異質な存在に見えるから本当のことを言えるんでしょうね。ヨーロッパには昔は宮廷道化師という、他の人が王様に言えないことを冗談めかして言う道化師がいたんですよ。社会がみんな同じことしか言わなくなると閉塞しちゃうんです。想定外のことが起こったときに対処できなくなるんです。そうなった時に、オルタネイティブとしての異質な人間が必要になる。社会の多くの人が行き詰まったときに、彼らが何か非常識なことをやって壁を壊して、指標を示す。そういう一種の予備装置の機能を担っているのです。一つの視点だけじゃなくて、別の視点を提供するっていうのがサブカルチャーだと思うんです。

手島:音楽に限らないことでもありますが、最近特に多いのが、共感できる=音楽の良い評価になっているということ。もちろん、それはそれで一つの音楽の受け入れ方や価値になると思うんですけど、僕は、今仰っていたような新しい視点や驚きを提示するのがアーティストやクリエイターだと思うんですよ。最近は大衆への共感に寄り過ぎている感じもします。作り手も、何か共感を得ようとしている感じがあるというか。もちろん、僕は彼らを一概に否定しないし、それで得られるカタルシスも大事だと思います。でも、もう少し常識を超えたり、新しい世界を見せてくれる存在であってほしいなとも思う。特に、閉塞している今の世の中だから、その閉塞している気持ちに共感を示しても良くないと思うので、何か違う感じがあってもいいんじゃないかなと思います。

山岡:閉塞を打ち破る馬鹿力が必要ですよね。

ーでも、所属事務所やレーベルなどとの関係性や世間の目もあり突っ切れないというのも事実としてあるわけですよね。

手島:これからは思ったことをちゃんと発信する人の方が支持されると思いますよ。単純に流行の話で言えば、この20年くらいの共感し合いは、リスナーもそろそろ飽きてきたと思いますけどね。

ーSNSのタイムライン上で、共感できる作品やコメントが流れてきて、共感のいいねを押すことはありますけど、それもタイムラインの中で埋もれていって、一週間後、一ヶ月後まで残っているものがあまりないと感じるんです。僕個人としても、アーティストはもっと視点とか新しいものを刻みつける存在であって欲しいと思うんです。

山岡:ある意味、傷を刻みつけたいんですよね。

手島:結果的に共感するっていうこともありますからね。僕も初めてAUTO-MODを聴いた時は「なんだこれ!」と思ったんですよ。でも、その後に「あ、こういう世界もあったんだ」という共感がやってくる。最初に驚きや新しい世界に触れた感覚があって、場合によっては傷もつけられますけど、今まで覚えているくらい好きだっていう衝撃でもあるんですよ。

山岡:今度ぜひ兄貴(※AUTO-MODのボーカル・GENET)とも対談して下さい(笑)。今日の話をまとめると、元々は全部少数派のサブカルチャーだったのが、それを戦争や階級闘争みたいな時代意識で束ねていたんだと思うんですね。自分たちと違う人たちを束ねる大きいものがあったのに、それがなくなってバラけちゃったんだと思います。バラけて少数派になったのに、それに気づかないで多数派意識だけ持ち続けているんです。人間って皆自分が正しいと思いたがるんですよね。自分勝手にやって欲求が充足されて生きているのが一番楽しい。でも、それだと他人とぶつかっちゃうから調整しないといけない。その中で自分は多数派のメインカルチャーだと思って絶対に正しいと思い込んじゃうと、他人のことを平気で否定するようになるんです。コロナ禍の自粛警察がライブハウスやミュージシャンを目の敵にしたようになるんです。自分が100%正しいわけじゃないと心のどこかで思っていないと、歯止めが利かないんですよね。自分だけが正しい、それに従わない奴は間違っていると思う人々がやってきたひどいことは歴史上たくさんありますよね。

ー歴史上でも宗教戦争など色々な例がありますね。

山岡:なにより大事なのは、自分は間違っていてもいいんですよ。むしろ多くの人が間違いだと思っているからいい。そう思うものを社会のメインストリームの物や考えに対してぶつけて、許容させていく。そうしてメインカルチャーの視野を広げていったり、意識を徐々に変えていくのが、サブカルチャーの役目なんだと思います。ロックやラップに顕著ですが、それ以外の音楽ジャンルでも人々に伝えられると思います。

手島:間違っていてもいいというのは、僕も最近思っていて。ネットや政治などどこでも見られることですけど、自分の間違いを絶対に認めない、謝らない側面があるじゃないですか。それはもちろん本人の問題もあるんでしょうけど、間違いを許容しない環境もあるのかもしれないですよね。

山岡:『男はつらいよ』シリーズの寅さんなんかも、ほとんど間違えていますからね(笑)。迷惑を被るかもしれないけど、みんな寅さんが帰ってくるのを待っている。人間誰でも間違えたり失敗したりします。間違えや失敗する人を許容しないと、こうでなきゃいけないという固定観念が強くなり、失敗した他者や自分を許さないギスギスした世の中になってきますし、新しいチャレンジもできなくなり社会が行き詰まります。異質な人たちも普通に生活しているのが当たり前の社会、ダイバーシティーが社会を活性化させ元気にするのです。

手島:世の中としても、もうちょっと間違いや異質なものを受け容れてあげる雰囲気があってほしい。「ごめん、間違った!」で、許す雰囲気があってもいいと思います。


<書籍情報>



手島将彦
『なぜアーティストは壊れやすいのか? 音楽業界から学ぶカウンセリング入門』

発売元:SW
発売日:2019年9月20日(金)
224ページ ソフトカバー並製
本体定価:1500円(税抜)
https://www.amazon.co.jp/dp/4909877029

本田秀夫(精神科医)コメント
個性的であることが評価される一方で、産業として成立することも求められるアーティストたち。すぐれた作品を出す一方で、私生活ではさまざまな苦悩を経験する人も多い。この本は、個性を生かしながら生活上の問題の解決をはかるためのカウンセリングについて書かれている。アーティスト/音楽学校教師/産業カウンセラーの顔をもつ手島将彦氏による、説得力のある論考である。

手島将彦
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライブを観て、自らマンスリー・ライヴ・イベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。Amazonの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。保育士資格保持者であり、産業カウンセラーでもある。

山岡重行
福村出版『サブカルチャーの心理学』

発売日;2020年8月30日(日)
定価:2500円(税抜)

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