フィル・スペクターが獄中で死去 革新的プロデューサーの波乱万丈な人生を振り返る
Rolling Stone Japan / 2021年1月18日 19時35分
1960年代初期にロックのレコーディング手法「ウォール・オブ・サウンド」で革命を起こし、一世を風靡した音楽プロデューサー、フィル・スペクターが1月16日、81歳で他界した。スペクターは波乱万丈な人生を送り、最後は悲しい晩年を迎えた。スタジオでの画期的な偉業に加え、彼が成し遂げた数々の業績は、2009年に女優のラナ・クラークソン殺害による有罪判決で色あせてしまった。
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スペクターは、本人の有名な言葉を借りれば「ロックンロールに対するワーグナー的手法」を取り入れ、60年代にザ・ロネッツやクリスタルズ、ダーレン・ラヴ、ライチャス・ブラザーズといったアーティストのために手がけた作品を「若者のためのささやかなシンフォニー」と呼んだ。スペクター作品はどれもオーケストラのごとく重厚で、ギターやホーンセクション、キーボード、ストリング、パーカッションの音を幾重にも重ね、時には複数の楽器で同じ音をユニゾンで演奏させた。彼がプロデュースした楽曲はまばゆいほどにロマンティックで、ほとんどはブリルビルディング所属の偉大な作曲家たちの手によるものだった。彼が手がけた往年の名作は、レッキング・クルーと呼ばれる優れたミュージシャンたちによって支えられていた――ザ・ロネッツの「Be My Baby」でのハル・ブレインによる4ビートのドラムのイントロは、ロックンロールの歴史に残る名作のひとつだ。
スペクターが考案した収録方法に駆り立てられ、同世代のミュージシャンらもスタジオでより野心的な試みをするようになった。「彼は時代を超越している」と、1996年にブライアン・ウィルソンはスペクターについてこう述べた。「彼はスタジオに入るたびに必ず偉業を成し遂げる。そのおかげでビーチ・ボーイズは進化できた」 その10年後にはブルース・スプリングスティーンが「明日なき暴走」で、スペクター作品の荘厳さを再現しようと試みた。「フィルの作品はカオス寸前、暴力をシュガーコーティングしたような感じだった……3分間弱のオーガズムの後、無気力な状態に襲われる」。2012年、SXSWの基調講演でスプリングスティーンはこう語っている。「フィルが教えてくれた最大の教訓はサウンドだった。サウンドそのものが言語なんだ」
「どうしようもないほど問題を抱えた天才児。彼こそは、アート作品が常にアーティスト本人よりも素晴らしい、という究極の例だった。愛による救済を歌った歴史に残る偉大な作品を残した一方で、自らの人生では愛を与えることも、与えられることもできずにいた」とスティーヴィー・ヴァン・ザントはTwitterに投稿した。
2009年以来、スペクターは第2級殺人罪で服役中だった。ロサンゼルスのハウス・オブ・ブルースで知り合ったホステスのクラークソンを殺害したとして有罪判決を受け、懲役19年から終身刑を言い渡されていた。クラークソンは同年2月3日未明、スペクターとともにアラバマ州の彼の邸宅に向かった。専属運転手が邸宅の外で待機していると、銃声のような音がしたという。運転手はのちに裁判で、邸宅から出てきたスペクターが「人を殺してしまったようだ」と言った、と証言した。
21歳にして億万長者に
本名ハーヴェイ・フィリップ・スペクターは、1939年12月26日にブロンクスで生まれた。父親は彼が9歳の時に自殺した。1953年、スペクターは母親とともにロサンゼルスへ移住。数年後には複数のジャズバンドでプレイしていた。
1958年、スペクターは高校の友人だったマーシャル・リーブ、アネット・クレインバードとザ・テディ・ベアーズを結成。1作目には父親の墓標に刻まれた言葉「To Know Him Is To Love Him」というタイトルが付けられた。この曲は全米No.1に輝くが、その後のシングルや唯一のアルバム『The Teddy Bears Sing!』は不発に終わり、バンドはほどなく解散した。
18歳の時にスペクターは、LAのベテラン・プロデューサー、レスター・シルの目に留まる。彼はスペクターに、ニューヨークに来て自分の弟子で当時成功を収めていた作曲家ジェリー・リーバーやマイク・ストーラーのもとで働くよう指示した。スペクターはリーバーと共作でベン・E・キングのヒット作「Spanish Harlem」を作曲、ザ・ドリフターズの「On Broadway」ではギターを演奏した。だがスペクターがもっとも手腕を発揮したのはプロデューサーとしてだった。彼はレイ・ピーターソンのカバーによるヒット曲「Corinna, Corinna」やジーン・ピットニーの「Every Breath I Take」、カーティス・リーの「Pretty Little Angel Eyes」を手がけた。
1961年後半、スペクターとシルはフィルズ・レコードを立ち上げる(レーベルの名称はオーナー2人のファーストネームの略称)。プロデューサーとしてのスペクターの評判が広まっていたころ、彼はクリスタルズというガールズグループに力を入れ、「Theres No Other (Like My Baby)」「Uptown」でヒットを飛ばした。波紋を呼んだ3枚目のシングル「He Hit Me (And It Felt Like a Kiss)」が不発に終わると、スペクターはオリジナルメンバーを解雇し、代わりにダーレン・ラヴとそのバックコーラス、ザ・ブロッサムズを入れた(こうした即決独断的なやり方は、のちにスペクターのキャリアの代名詞となる)。メンバーチェンジは功を奏し、新生クリスタルズの第1弾「Hes a Rebel」はミリオンセラーを達成。フィルズ・レコード最初のNo.1シングルとなった。レーベル設立からわずか1年後、スペクターはレスター・シル所有の株を買収し、21歳にして億万長者となった。
さらなる成功と見え始めた闇
スペクターは西海岸へ渡り、LAのゴールドスタースタジオでレコーディングするようになった。ギターにグレン・キャンベルとバーニー・ケッセル、ピアノにレオン・ラッセル、ドラムにハル・ブレインという最高峰のスタジオミュージシャンを集めたレッキング・クルーの手をかりて、時にはジャック・ニッチェやソニー・ボノのアレンジや助言を取り入れながら、自らの「ウォール・オブ・サウンド」をさらに推し進めた。スペクターは1963年に4曲をトップ10入りさせる。クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」、「Then He Kissed Me」、ボブ・B・ソックス・アンド・ザ・ブルー・ジーンズの「Zip-a-Dee-Doo-Dah」、そして最大のヒット、ザ・ロネッツの「Be My Baby」。この曲で、世慣れたハスキーヴォイスの若きシンガー、ロニーことヴェロニカ・ベネットの存在が世に知れた。
スペクターはシングル製作に注力していたが、1963年の暮れには唯一のアルバム『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィルズ・レコード』をリリースした。レーベル所属のアーティストが勢ぞろいした名作アルバムで、ザ・ロネッツが官能的にカバーした「サンタが街にやってくる」など、往年のクリスマスソングが大半を占めていた。だがもっとも目を引いたのは、スペクターとジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチが書き下ろした新曲、ダーレン・ラヴの「クリスマス」だ。当然のごとく、この曲は今でもクリスマスの定番曲として歌い継がれている。
スペクターはロックンロール最初のスーパープロデューサーとなった――1964年のトム・ウルフによる有名な紹介文では、「初の大物ティーンエイジャー」と評された。1964年にはさらに数多くのザ・ロネッツのヒット曲をプロデュースし、ブリティッシュ・インヴェイジョンに対抗した。翌年には男性2人組ライチャス・ブラザーズで再び脚光を浴びた。彼らの「Youve Lost That Loving Feeling」は200万枚のセールスを記録し、フィルズ・レコード3度目のシングルNo.1となった。
だが次第にスペクター作品は手間のかかる野心作となっていった――中には詰め込み過ぎだと言う者もいた。1966年、本人が最高傑作と自負するバロック風のポップ超大作、アイク&ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」は全米シングルチャート88位どまりだった(だがイギリスではシングルチャート3位までヒットした)。憤慨したスペクターはハリウッドの豪邸に引きこもり、カウンターカルチャーの名作映画『イージー・ライダー』のドラッグ・ディーラー役でカメオ出演したきり、2年間ほとんど姿を現さなかった。1968年にはロニー・ベネットと結婚。ロニーは1990年の回顧録『Be My Baby: How I Survived Mascara, Miniskirts, and Madness, or My Life as a Fabulous Ronette』の中で、夫のスペクターが虐待的で、常軌を逸したとまではいかなくとも、突飛な行動に走る傾向にあったと記している。
「(フィルは)私から歌を取り上げた。もうレコーディングさせてもらえないんじゃないかと気が気じゃなくて、胸が張り裂けそうだったわ」 2016年、ロニー・スペクターはローリングストーン誌にこう語った。「私の生きがいだったパフォーマンスがもう2度とできないんじゃないかって思った。すごくショックだったわ、私のために曲を書いてプロデュースした人間が目の前にいるのに……それが突然、歌わせてもらえなくなった……彼が刑務所に入ってようやく、因果応報という意味を実感したわ。だって私は豪邸の囚われの身で、外にも出してもらえなかったのよ。7年間どこにも行かせてもらえなかった」
ビートルズとの関係、レコーディング中に銃を携行
スペクターが音楽界に復帰したのは1969年のことだった。新生ロネッツのシングル「You Came, You Saw, You Conquered」は不作に終わったが、同じ年にリリースしたソニー・チャールズ&チェックメイツの「Black Pearl」はシングル13位にランクインした。再び軌道に乗り始めたスペクターはビートルズと手を組む。ジョン・レノンのソロ・ヒット作「インスタント・カーマ」をプロデュースすると、バンドが途中で投げ出した『ゲット・バック』のレコーディング音源からアルバムを製作する仕事を任された。そうして完成したのが、ビートルズ最後のスタジオアルバム『レット・イット・ビー』だ。
ポール・マッカートニーをはじめスペクターを批判する一部の人々は、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のようなストリングを多用した曲にはあまりそそられなかった。だがマッカートニーのバンド仲間はむしろスペクターの仕事ぶりに満足気だった。ジョージ・ハリスンが3枚組のソロアルバム『オール・シングス・マスト・パス』のプロデュースを依頼した上に、レノンも『プラスチック・オノ・バンド』と『イマジン』の共同プロデューサーに彼を起用した。この2枚のアルバムはスペクターにしては珍しく音数が少ない。当然の流れで、レノンは史上最高のロックのクリスマス・アルバムを作ったスペクターに、シングル「ハッピー・クリスマス(ウォー・イズ・オーヴァー)」をプロデュースしてもらった。
1974年、スペクターはハリウッドで交通事故に遭い、なんとか一命をとりとめた。車のフロントガラスを突き破り、ほぼ即死の状態だった。数時間にわたる手術により、命だけは助かった――頭から顔にかけて700針、後頭部は400針以上にもおよぶ重症だった。
交通事故に遭う以前、スペクターはワーナー・スペクターという新レーベルを立ち上げた。ワーナー・ブラザーズの子会社で、そこで彼はシェールやハリー・ニルソン、ダーレン・ラヴ、彼が売れっ子になると予想した新人ジェリ・ボー・キーノーなどを収録した。ワーナーと決別した後はフィル・スペクター・インターナショナルと名称を変え、長らく廃盤になっていた60年代の名曲を集めたアルバムを再販した。同レーベル肝入りのニューアルバム『Born to Be with You』はスペクターとディオン・ディマッチ両者にとって復活劇となる予定だったが、批評家の間でも商業的にもひまひとつだった。
その後リリースされた2枚のアルバムは、豊かなサウンドを求めていたカルト的アーティストのために書かれたものだったが、いずれもファンからの評判は良くなかった。1977年にプロデュースしたレナード・コーエンの『ある女たらしの死』は、シンガーソングライターとしてのコーエンの生真面目なアコースティックなスタイルとは対照的だった。1980年には成り行き任せに4枚の古典アルバムをリリースした後、ラモーンズの『エンド・オブ・ザ・センチュリー』の仕上げを任された。伝え聞くところでは、スペクターはラモーンズのレコーディングに銃を携行してメンバーを脅していたそうだ。
刑務所内で過ごした晩年
1989年にロックの殿堂入りを果たしたころには、スペクターは事実上すでに音楽ビジネスからは10年近く遠ざかっていた(授賞式ではアイク・ターナーとティナ・ターナー両人から賞を授与された。スペクターは2人に、片方に声がかかっていたことを言わなかった)。1995年にはセリーヌ・ディオンのアルバムをプロデュースすることに同意したが、カナダ人シンガーのマネージメントと折り合いが合わず、のちに降板した。
その後の10年間、彼はほとんど刑務所内で過ごすことになる。1997年には裁判の末、「To Know Him Is To Love Him」のイギリスでの著作権保持に成功する。だが3年後のアメリカの裁判では、ロニー・スペクターとザ・ロネッツに主にライセンス料として260万ドルの支払いを命じられた。このころの彼は気難しい人物として知られていた。「世間は俺を美化して、俺のようになりたいと言う。だが教えてやる、『いいか、俺みたいな人生はまっぴらごめんだと思うぞ』」と本人。「俺は虐げられた魂の持ち主なんだ」 だが、スーパープロデューサーの人生を最も変える裁判が行われるのはまだ先の話だった。
2003年、警察がアラバマ州にあるスペクターの邸宅に急行すると、クラークソンが銃で撃たれて死亡しているのが見つかった。運転手の宣誓供書にもあるように、スペクターは「彼女を殺したと思う」と運転手に告げたにも関わらず、のちにこの発言を撤回。警察にはクラークソンが「誤って自ら命を絶ったのだろう」と供述した。スペクターは第2級殺人罪で逮捕・起訴された。
●【画像を見る】2007年、殺人罪公判でのフィル・スペクター(Photo by Getty Images)
何年間も表舞台から身を引いていたプロデューサーは、ついにTV中継された裁判に現れた。手入れをしていないもじゃもじゃ頭という驚くべき姿だった。公判では数人の女性が検察側の証人として証言台にたち、スペクターから銃で脅されたと証言した。いずれの場合もスペクターは「女性に恋愛感情を抱いていたが、女性から足蹴にされると怒り出した」と、検察側は主張した。
2007年9月、陪審員は大多数が有罪に傾いていたが評決には至らず、2008年10月に再審が行われ、最終的に第2級殺人罪で有罪判決となった。2009年、スペクターは懲役19年から終身刑を言い渡され、息を引き取るまで服役していた。
※Daniel Krepsが加筆
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