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LOW IQ 01の青春時代 「スラップ奏法に目覚めた1989年」

Rolling Stone Japan / 2021年1月25日 11時30分

LOW IQ 01

LOW IQ 01のインタビュー連載企画「イッチャンの青春時代」。1988年を振り返った前回に続き、第7回は「1989年編」。イッチャンが過ごした1989年とは? 当時の世相とともに語り尽くします。

ー今回は1989年、平成元年のお話を伺いたいと思います。この年の出来事で言えば、昭和天皇が崩御されて、元号が昭和から平成に変わりました。この頃イチさんは何歳でしたっけ?

高校で言うと高校3年生の年で、まだ18歳だね。毎回言っているかもしれないけど、一番遊んでいた時期です(笑)。

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ー確かに毎回言ってますね(笑)。

ずっと遊んでいるんですよ(笑)。でも、当時はちょっとだけアルバイトもしてたかな。そういえばアルバイトの話は一回もしたことがなかったよね。初めにアルバイトしたのが1987年の16歳の時、都立大学にあった居酒屋「村さ来」で。ここは何回も辞めたり入ったりしたりしていたけど、1989年はそこに一番長くいたかな。なんでそこで何回もアルバイトしているかというと、当時ギターが欲しかったんだよね。今The Birthdayのギタリストのフジイケンジくんが在籍していたバンドをよく観に行っていて、その時フジケンが使っていた国産のGrecoのセミアコを俺も欲しいなと思って、アルバイトを頑張った。その時までは、テレキャスターとかレスポールを使っていたんだけど、1989年はサイコビリーとかのジャンルの音楽にどっぷり浸かった年でもあって、だからセミアコを欲しがったんだと思う。



ーそこで箱物にいったわけですね。

そうそう。フジケンがセミアコをギターケースに入れないで、モッズパーカーに縛って背負っているのがすごいかっこよくてさ。「それなに?」って訊いたら、まさかモッズパーカーにギターを包んでいて(笑)。そのギターが欲しくて、サイコビリーとかロカビリーはやっぱり箱物だなと思ったんだけど、のちに分かったんだけどラヴ・タンバリンズの斎藤圭市さんもまるっきり同じギターを使っていて。国産だけどいい音するって話をよくしてたなあ。そんな1989年だね。

ー当時の世の中的な部分でよく覚えてることはありますか?

1月に昭和天皇の病状のニュース速報が流れてくるのをすごく覚えているなあ。あとは消費税導入も1989年か。当時は「消費税ってなんだよ!」と思ったもんね。よくテレビでDAIGOが、当時は周りに色々言われたって話するじゃん。当時は価格が100円って書いてたら本当に100円で、ジュースを買うにも100円でワンコインで買えたのに、面倒くさいなって思ったよね。でも、今となっては消費税がなかったら世の中大変なことになっていると思うし、この時に導入して良かったのかもしれないね。

ー慣れないうちは、なんでこんなに1円玉が増えるんだって思いましたよね。また、この1989年には任天堂からはゲームボーイも発売されました。

ゲームボーイは画期的だなと思ったんだよね。ちょっとアナログに戻った感じ。任天堂のイメージって元々ゲームウォッチから始まって、ファミコンで爆発的にヒット。それでゲームボーイがまたコンパクトになって。スーパーファミコンはその次の年に話題になったんだよね。だからゲームボーイは原点回帰みたいな感じもあった。ゲームボーイのソフトといえば、やっぱりテトリスとドクターマリオじゃない? 皆首からゲームボーイ下げたりしてたよね。

ー歌手の美空ひばりさんが亡くなったのもこの年です。

6月頃じゃなかったかな。中目黒のひばりさんの家の前に行列ができていて、その様子をテレビで流してたのすごい覚えてる。家結構近かったのよ。西郷山公園の近く、それこそ代官山蔦屋書店のある辺りですよ。家の前を通ったりしていたな。




ーイチさんの代官山蔦屋書店のインストアライブの時に「よくこの辺で遊んでたけど変わったな」って仰ってましたもんね。ベイブリッジもこの年に完成しました。

ベイブリッジは何か洒落たもんができたなって感じなんだよね。

ーデートコースにもなっていましたよね。

そうそう。皆が車に乗って行くトレンドのスポットだったよね。この頃、アイゴンが車に乗っていたから、色々なところに連れてってもらって。今振り返ってみて1989年に何かしていたかというと、さっき話した居酒屋のアルバイトが0時くらいに終わって、そこからアイゴンの家に行って。朝まで遊んで帰るっていう遊びをよくしてた。そこで色々な音楽に触れたりとか。アイゴンもバンドやってなくて、こんなのやりたい、何かやりたいねって言っていたのが、まさしくこの時期。自分でやってたバンドに、アイゴンにゲストみたいな感じで入ってもらい始めたぐらいかなあ。よくラーメンも一緒に食べに行ってた。

ーよく2人でラーメン屋巡りをしてたんですね。この前後の時期に、博多ラーメンが東京に来たイメージあるんです。

「なんでんかんでん」辺りが博多ラーメンを持ってきたんだと思うんだよ。この頃のアイゴンって、ザ・コレクターズのローディをちょっとやっていて。それでメンバーの古市コータロー君とか加藤ひさし君とかから地方の美味しいラーメン屋を聞いて、その中でアイゴンが教えてくれたラーメン屋が「天一(天下一品)」なのよ。当時はまだ都内に3店舗しかなかったからね。江古田と高円寺と三宿しかなくて。最初に食べたときの、衝撃が凄すぎて。セックス・ピストルズを聴いたときと同じぐらい(笑)。三宿店もうちから遠くなかったから、夜中になると無性に食いたくなって。それまでは、三宿の交差点のところにあった吉野家に行っていたんだけど、そこを飛び越して深夜2時まで営業している天一に飛び込んでいた。



ーあれは相当パンチの効いたラーメンでしたよね。

そうそう。それこそアイゴンは車に乗っていたから、ときわ台にある「土佐っ子」っていう店のラーメンも好きで車で行ってったんだよ。今は「下頭橋ラーメン」に変わっちゃったんだけどさ。「天一」はセックス・ピストルズの衝撃で、「土佐っ子」はザ・ダムドの衝撃と一緒だった。覚えているんだけど、その時にアイゴンが話していたのは、古市コータローくんは「天一」がすごい好きで、加藤ひさしくんは「桂花ラーメン」が好きだと。その時に「桂花ラーメン」も初めて新宿店に行ったんだけど、桂花の太肉麺を最初に食った時の衝撃はクラッシュでした(笑)。これは当時の三大ラーメン。とにかく1989年はラーメンを食う、衝撃のラーメンに出会うと一年だった。

ーラーメンをパンクバンドに例えるのはユニークですね(笑)。ファッションは何か覚えていらっしゃいました?

この時期は高級カジュアル・渋カジってのが流行っていたじゃないかな。レッド・ウィング、ベルボトムとか前回も話した古着のGジャンが10万円とか値段がついてくる時代でさ。当時の世の中ってアメカジといえばベルボトム。それにレッド・ウィングとハーレーのTシャツ。

ーわかります。

それとVANSON。これはガンズ・アンド・ローゼズの影響だと思うんだよね。でも俺はレッド・ホット・チリペッパーズ派だったわけよ。ガンズはもう現地でも大スターだったけど、レッチリは『母乳』で知名度を上げるんだよね。当時、アイゴンの車の中でよくこのアルバムを流していてさ。それ以前の作品も聴いていたんだけど、かなりの衝撃を受けた作品だったね。ジョン・フルシアンテが加入して火が点いて、翌年に初来日するんだよね。ガンズはイメージ的にHR/HMの要素が強かったから、俺は断然レッチリ派で、ここで俺のベースの手法も大きく変わったというか。



ースラップ奏法もやり始めたってことですかね?

それまでピック弾きだったのが、ここでチョッパー弾きになってね。ただサイコビリーのウッドベースのスラップベースも聴くようになるのよ。そういう時期、俺のスラップ元年かな。

ー面白いですね。テレビ番組とかは覚えていらっしゃいますか?

ダウンタウンの番組は面白かったよね。『夢で逢えたら』は外せない。のちの『ダウンタウンのごっつええ感じ』とかコントユニットってこれが原点じゃない? ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコが出てた。

ーその後色々な芸人が集まってコント番組作るっていう原点ですよね。

俺の中ではダウンタウン元年でもあるんだよ。覚えてるのは、『全員出席! 笑うんだってば』っていう番組。放送期間は短かったけど、これはダウンタウンとB21スペシャルっていう珍しい組み合わせでもあって。元々「ひょうきん予備校」っていう番組で、1986年くらいから俺はダウンタウンを知ってたのよ。やっぱり『夢で逢えたら』でしょ。これはちょっと外せない。未だに観ても面白いからね。

ー相当お好きだったんですね。

番組内でバッハスタジオⅡという、ダウンタウンとか芸人とプロのミュージシャンが一緒に演奏するコーナーがあって。ユニコーンとか、プリンセスプリンセスが来たりとかして。ウッチャンがドラムで、浜ちゃんがベースで演奏していたのを覚えてる。今のハマ・オカモトのルーツでもあるわけか(笑)。

ーダウンタウンも東京進出し始めた頃ですかね。

そう。それでガキ使の放送も火曜日の深夜1時頃から始まってさ。でも、とんねるずのオールナイトニッポンの放送時間も被ってて。それで、オールナイトニッポンを聴きながらガキ使をビデオに録画するんだよね。ガキ使の深夜枠の前に「ヘビメタ虎の穴」ってう番組があったのよ。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の中から出てきたヘビメタ軍団ってあったじゃん? その枠が30分でスピンオフ的な番組になって、野沢直子が司会やってたのよ。

ーそれ僕も覚えてますね。

「ヘビメタ虎の穴」から色んなバンドも出てくるわけだよ。あとミュージシャンとして一番大きいのはイカ天(「三宅裕司のいかすバンド天国」)も1989年に始まるんだよなあ。バンドブームの一方で、クラブ・ミュージックもこの頃に注目を集めていて。「ダンスホールレゲエ」とか「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」とかアイゴンとよく行ったもん。よみうりランド・イーストでやってたね。デ・ラ・ソウルとかもアイゴンとよく聴いてたもんなあ。デ・ラ・ソウルはこの頃、名盤『3・フィート・ハイ&ライジング』が出たのよね。それでクラブ・キッズっていう言葉が生まれてくるわけ。DJバー「インクスティック」とかピカソとかもあってさ。

ーですよね。

そうそう。食品はやっぱり「はちみつレモン」でしょ。このCMの歌は今でも歌える。「はーちみつレモン」って歌いながらゴルフのスイングするんだよね。あと「鉄骨飲料」は、鷲尾いさ子さんが出演してたCMだったの覚えてる。

ー流行語はいかがでしょう?

「一杯のかけそば」という話も流行ったよね。でもこれって、実は作り話じゃなかったっけ? 実はそんな美談じゃない、うちはそんなことしてませんよって、お蕎麦屋さんが言ってたみたいな話を聞いた記憶があるんだけどな。5時から男もこの年か。高田純次さんが出演してたCMだよね。今考えてみるとさ、当時は一番のんきな時代だよね。日本がある意味で一番いい時代なんじゃない? バブルだし。この歳になって思うけど、もし俺が社会人で、5時から元気になるやつみたらムカつくもん(笑)。当時はのんきだったからそういうのいいねと思うけど、今の時代だったら出社から元気になれよと思うけどね(笑)。

ー確かにそういうのんきな感じはわかりますね(笑)。ヒット曲はいかがでしょう?

これは俺のイメージなんだけど、1990年になってからJ-POPっていう言葉が根付いた記憶がある。1980年代までは歌謡曲って呼ばれてて、それからたぶんな歌番組が減っていくわけよね。それと同時にJ-POP。だから歌番組の形も変わっていくわけだよ。「ザ・ベストテン」的な順位をメインにしていた番組から、「ミュージックステーション」みたいな番組に変わっていって、そこからJ-POPっていう言葉が生まれてくるイメージ。アイドルっていうのもこの時期、Wink辺りで一区切りっていうイメージがある。



ーそれはすごくわかりますね。

世の中では思いっきりバンドブームなのよ。THE BLUE HEARTSとかさ。BOØWYはもう解散していたと思うけど、1989年だと布袋さんも参加してたCOMPLEXの「BE MY BABY」だよね。1989年のヒットチャート1位もプリンセス・プリンセスだけど、彼女らもアイドルじゃないしね。俺、プリンセス・プリンセスの「世界でいちばん熱い夏」が大好き。すごくいい曲。嘉門タツオが、彼女らの名曲「Diamonds」のサビを「大木凡人だね」ってよく歌ってたの覚えているなあ(笑)。嘉門タツオの替え歌はアイゴンとよく聴いていた。

ー嘉門タツオの替え歌の中にある種のDNA的な部分って、イチさんの血の中にも確実にありますよね(笑)。映画はどうでしょう?

これも毎回言っちゃうんだけど、寅さんはやっぱりすごいですね。毎年入ってるから、やっぱり国民的映画なんだね。あと『オルゴール』。これって要は長渕剛さん主演ドラマ『とんぼ』からの流れだよね。『とんぼ』が1988年に始まったんだけど、1989年のクールまで続いたんだよね。すごい血を流しながらタバコを吸う最終回すごいよね。そこから生きてたっていう設定で、8年後にドラマスペシャル『英二再び』っていうの放送していた。哀川翔が演じるツネが出世して変わってしまったっていうストーリーでさ。



ー洋画はどうでしょう?

洋画だと1位は『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』か。俺にとっての1989年の洋画はやっぱり『ブラック・レイン』かな。松田優作さんが出てましたよ。

ーこれが松田優作さんの遺作になるんですね。

これがかっこよかったんだよね。すごい覚えてる。亡くなった時に優作さんの家の前にワイドショーの報道陣が集まってて、家の中から「優作さーん!」って偲ぶ声が中から聞こえてて。優作さんは、俺も子供の頃から『探偵物語』とか観てきたし、やっぱりショックだったね。『ブラック・レイン』でも、彼は超かっこよかった。あと、この作品に出てたガッツ石松もいいんだよね。

ーガッツ石松さんも出てたんですね。その頃からガッツさんは俳優モードにもなっていた。

『ブラック・レイン』でも警察の役でね。高倉健さんも出てたけど、ガッツさんもいいんだよ。あの喋り方で「英語じゃわかんねえんだよ、日本語で喋れ(モノマネ)」ってさ。

ーモノマネ似てますね(笑)。ドラマは印象に残ってるものありますか?

『教師びんびん物語2』。これは2作目で、観月ありさとか小室プロデュースのDOSに参加してた西野妙子が生徒役で出てるんだよね。今思うと、1989年って雑誌「CUTiE」とかも世に出てきたイメージがあるんだよね。観月ありさとか13歳くらいの時に「CUTiE」のモデルをやってたりしてたのよ。それはすごい覚えてるな。あとは……ドラマだと『翔んでる!平賀源内』も覚えてる。確か西田敏行主演。そして、これも名作なんですよ。『愛しあってるかい』も好きだったな。この作品で、キョンキョンが何かアイドルから一つ頭抜けた感じがあって、当時のキョンキョンすげえ好きだった。

ー小泉今日子さんが主演で、陣内孝則さんも出ていましたよね。

あと何故か分からないけど、BARBEE BOYSのKONTAも出てた。俺はその前の『君の瞳をタイホする!』の三上博史派だったけどね(笑)。このドラマはとても面白かったし、すごく好きでよく見てた。この時に、生徒役で和久井映見も出てくるのよ。翌年の1990年1月1日に和久井映見が歌手デビューするのよね。懐かしいなあ。

ーでは最後にまとめると、イチさんにとって1989年ってどんな年ですか?

1989年になって、アイゴンとも毎日遊ぶようになって一緒にセッションもたくさんしてて。ライブの予定がなくてもスタジオにたくさん入ったりしだした年で。それまではギターを弾いていたけど、アイゴンもいるし、俺はギターじゃないなと思ったの。元々1984年にベースを初めて買ったって話したじゃない。この1989年に、レッチリの影響とかもあってまたベーシストになろうと思い始めたのよ。今でも思い出すけど、この時からチョッパーベースをコピーするようになった。レッチリの「ストーン・コールド・ブッシュ」を鬼のようにコピーしてた時期で、第二期のベースを弾き始めた時期かな。ベース・スラップ元年。平成元年にミュージシャンとしてのスラップ元年を迎えましたね。

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