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ヴァン・ヘイレンを発掘したプロデューサー、故エディの素顔を語る「彼は単なるテクニシャンではなかった」

Rolling Stone Japan / 2021年1月23日 10時0分

エディ・ヴァン・ヘイレン(Photo by Fin Costello/Redferns/Getty Images)

2020年10月8日、65歳で亡くなったエディ・ヴァン・ヘイレン。ロックギターの常識を塗り替えた彼の功績を振り返るべく、バンドを発掘した伝説のロック・プロデューサー、テッド・テンプルマンの貴重インタビューをここに掲載する。

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テッド・テンプルマン
カリフォルニア州出身の伝説的ロック・プロデューサー。60年代にハーパース・ビザールの一員として活躍後、1970年にワーナー・ブラザーズ入社。ドゥービー・ブラザーズを皮切りにヴァン・モリソン、リトル・フィートなどを手掛けたのちヴァン・ヘイレンを発掘し、最初のアルバム6作をプロデュース。写真は2020年発行の自叙伝『Templeman : A Platinum Producers Life In Music』

1977年のある日、ウェスト・ハリウッドのStarwoodでヴァン・ヘイレンのショーを初めて観たプロデューサーのテッド・テンプルマンは、クラブから飛び出して最寄りの公衆電話に駆け込んだ。信頼を寄せるエンジニアのドン・ランディーの留守電に、彼はこうメッセージを残した。「ヤバいやつを見つけた」。彼を興奮させたのは、圧倒的なテクニックを見せつけていたギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンだった。当時ワーナーの専属プロデューサーだった彼が抱いていたのは、「何が何でもこのバンドを契約させる」という使命感だった。その翌日、彼はレーベルのトップだったモー・オースティンを同会場に連れて行き、その場でヴァン・ヘイレンと契約を交わさせた。

「彼らはあらゆるレーベルから却下されてた」テンプルマンはそう話す。「(KISSの)ジーン・シモンズは彼らをニューヨークまで連れていき、レコード会社との話を進めようとしたけどダメだった。だから僕がバンドのことを知ったとき、彼らは未契約で一文無しも同然だった。初めてのセッションのとき、エディの車がギターの弦で縛られてたのを覚えてるよ。ドアが勝手に開いてしまわないようにね」

彼らをスタジオ入りさせたテンプルマンは、ダイヤモンドディスクに認定されたデビュー作をプロデュースしたことをきっかけに、以降5作でバンドとコラボレートしている。「Runnin With the Devil」「Dance The Night Away」「Unchained」「Panama」「Jump」等をはじめ、彼はバンドと共に数々のクラシックを生み出した。デイヴィッド・リー・ロスがバンドを脱退すると、テンプルマンはヴァン・ヘイレンとのタッグを一旦解消するが、エディとは親しい友人同士であり続けた。2人はプライベート・ライフのアルバム2枚を共同プロデュースしているほか、テンプルマンはサミー・ヘイガー加入後のアルバム『For Unlawful Carnal Knowledge』にも共同プロデューサーとして名を連ねている。今年10月にエディがこの世を去るまで、2人の交流は続いていた。

「あの日、初めてステロイド注射を打ったと彼から聞かされた」。エディがガンと診断されたときのことについて、テンプルマンはそう話している。「元気そうだったけど、その2週間後に彼は入院した。しばらくは電話で話してたけど、やがてそれが叶わなくなった。それでも、『化学療法はしんどいよ』みたいな携帯メールを毎日送ってくれた。そのうちに、メールの最後に短いけど真摯な言葉が添えられるようになった。『テッド、愛してるぜ』みたいなさ。『俺を一番最初に信じてくれたのは君だった』なんていうメッセージをくれたこともあったよ。薬に頼りっぱなしになっていても、彼はいつもの彼だった」

友人が経験した苦しみを想像するテンプルマンは辛そうだったが、ヴァン・ヘイレンと共有した素晴らしい思い出の数々や、最後まで変わらなかった彼に思いを馳せながらこう語った。「彼が初めて新車を買ったときのことを思い出すよ」。テンプルマンはそう話す。「僕のところに来て、『俺のピカピカのポルシェを見てくれ』って言うんだ。1年くらい前に会ったときも、30万ドルくらいの新車に乗ってきたからね。彼はスウィートで、昔からずっと変わらなかった。『約束は4時だけど、3時に行ってもいいかい? ちょっと早いけど』みたいな気遣いができる人だった。彼は思いやりのある、かけがえのない友人だった」

テンプルマンがバンドと共に歩んだ日々、そしてロック史に名を残すヒット曲の数々を生み出したときのことについて振り返るときはいつも、無二の親友だった彼との思い出が蘇るという。「僕は仕事仲間ではなく、友人を失ったんだ」

シャイな人柄と「嵐の前兆」

―エドの第一印象はいかがでしたか?

テンプルマン:とにかくシャイだった。自分のスタジオを持ってからは、遠慮なくクリエイティビティを発揮するようになったけどね。彼が成長していくさまは、見ていて気持ちが良かったよ。

―初めて一緒にスタジオに入ったときはどうでしたか?

テンプルマン:彼とのレコーディングは楽で、アンプの前にマイクを立ててやるだけでよかった。エドはすでに素晴らしいサウンドを作ってたからね。ちょっとイコライザーをかけてやったくらいだよ。

最初のデモ音源を作ったとき、1日で30曲くらい録った。持ち曲を全部知りたかったからね。セッションを終えてみて、彼らはちゃんとした形でレコードを出すべきだと確信した僕は、バンドと一緒に正式にスタジオに入った。赤いライトが灯るたびに、彼は身を固くしてたよ。緊張してたんだろうね。でも、彼がミステイクを出したことは一度もなく、プレイはいつも完璧だった。ほぼ全ての曲で、彼はギターソロを一発で録った。コード演奏からノンストップでソロに入り、またコードに戻る。ソロをオーバーダビングしたことは一度もないよ。本当に素晴らしかった。

―彼はどういった音楽を好んでいましたか?

テンプルマン:ロックを好きになったきっかけはデイヴ・クラーク・ファイヴだと言ってた。いつもアル(兄のアレックス・ヴァン・ヘイレン)と2人で「Glad All Over」を弾いてたらしいよ。あとエリック・クラプトンも好きだったね。僕が彼のアルバムをプロデュースしてたとき、エディがスタジオに電話をかけてきたのを覚えてる。「そこにエリックがいるのかい?」「ああ」「挨拶しに行ってもいいかな?」「もちろんさ」みたいなやり取りをした。実際にスタジオまで来たはずだけど、結局会わずじまいだったかもしれない。彼はシャイだったからね。



―彼はどうしてそれほど内気だったのでしょう?

テンプルマン:彼は学生の頃から、人目をすごく気にする性格だったらしい。(生まれ育った家庭では)いつもオランダ語で話していたから、英語が苦手だったんだ。それが理由で、学校では辛い経験もしてた。レコーディングのときでも、僕が「Hi」って声をかけると、彼は「Yeah」って返すんだ。当時の彼は、「Hi」って言うのが苦手だった。いざ話し始めると、思ってることはちゃんと伝えられたけどね。

―デモ音源を作った際に、最も強く印象に残った曲は?

テンプルマン:「Aint Talkin Bout Love」には光るものを感じたね。他の人間がどう思うかなんて全く気にしなかった。それが特別な曲だって、僕は確信してたから。(デイヴィッド・リー・ロスの)歌詞とアプローチ、歌い方もすごくいいと思った。”欲しいものを手に入れるためなら、血を流す覚悟が必要なんだぜベイビー”そんな歌詞が書ける新人バンドはそうはいない。そしてエドは、その強烈なラインに見劣りしないプレイで応戦してた。デモを録った後、バンドはPasadena Civic Auditoriumでショーをやったんだけど、会場は満員だった。「Aint Talkin Bout Love」で彼らが「ヘイ! ヘイ! ヘイ!」って煽ると、オーディエンスは拳を突き上げてた。あの光景には興奮したよ、レコードもまだ出してなかったのにさ。(ビートルズを輩出した)キャヴァーン・クラブにもあったであろう、嵐の前兆を感じたね。



―あなたは彼とアレックスが弾いた「Eruption」を聴いて、「それは絶対に音源にすべきだ」と言ったそうですが、それはいつのことですか?

テンプルマン:Sunset Soundでセッションをしていて、僕がトイレかコーヒーブレイクかでスタジオを離れてたときに、彼のプレイが聴こえてきたんだ。まるでバッハのフーガのような、オルガンでしか成立しないようなラインで、ギター1本で奏でているとは到底思えなかった。僕が「今のは何だ?」って言うと、エディはこう返した。「大したものじゃないよ。俺がショーの前にいつもやってるウォームアップさ」。「ドン、テープを回してくれ!」って僕が叫ぶと、彼は落ち着いた声で「もう回ってる」って言った。彼は僕とエドのやりとりを聞いてたんだ。

当時のレコーディングを巡る記憶

―バンドとの関係は良好だったようですね。

テンプルマン:アルバム4~5枚目くらいまではすごくやりやすかったね。皆といい関係が築けていたし、全員が自分の役目を果たしていた。デイヴはとにかく独創的だったよ。歌詞は最初のうちは散漫なんだけど、エドのプレイがそれを曲に発展させていくんだ。彼が手を加えていない曲はほぼ皆無だと思う。ソングライターとしての2人の相性は抜群だったよ。ジャガーとリチャーズ、ロジャースとハマースタインが一心同体であるように、エドのコード進行とデイヴの歌詞はまさに黄金コンビだった。さらにエドのリフやソロが、曲にさらなる魅力とダイナミックさをもたらしてた。彼のソロには何度もぶっ飛ばされたよ。

ある日デイヴが、ベティ・エヴェレット「Youre No Good」のカバーをやろうって提案した。僕は彼に、リンダ(・ロンシュタット)が5年前に同じことをやってると伝えた。でも一晩中考えて、僕はエドとデイヴにこう言った。「あの曲の”僕はゆっくりと確かに彼女の心を引き裂いた / 君に似た誰かと恋に落ちて彼女を傷つけた / ようやく分かったんだ あなたが悪い人だって”っていう部分、あれは君らにハマると思う。思いっきりアレンジして、破壊力抜群な曲にしよう。『サイコ』みたいな、悲鳴をあげたくなるようなやつにね。デイヴ、イメージは『サイコ』だ」。完成した曲は、僕がイメージした通りだった。エドのソロにも蜘蛛のような不気味さがある。言うまでもなく、彼のテイクは完璧だったよ。



―バンドは1年に1枚のペースでアルバムを発表し、あなたは最初の6作でプロデュースを手がけました。時が経つにつれて、彼らはどのように変わっていきましたか?

テンプルマン:過酷なツアースケジュールのせいで、彼らは消耗していた。エドが僕に怒りをぶつけたこともあったよ。MTVの影響力が絶大だった頃、デイヴはやたらミュージックビデオを作りたがってた。彼らが「Oh, Pretty Woman」のカバーをやると言ったとき、僕は反対した。僕はあの曲が大嫌いだったからね。でも彼らに押し切られて、結局レコーディングした。曲がヒットしたことで、バンドはレコード会社からアルバムを完成させろとプレッシャーをかけられることになったんだ。それでスタジオに入ったものの、その時点で曲は半分もできてなかった。

エドが温めてたリフを聴いて、僕は「Dancing In The Street」のカバーをやったらどうかって提案した。ハマると思ったし、モータウンのヴァイブが夏にぴったりだったからね。でもあの曲が原因で、僕とエドは衝突してしまった。最初はみんな気に入ってたけど、しばらくして誰かに「君らはカバーなんかやるべきじゃない」って言われたらしくてさ。「Oh, Pretty Woman」だってカバーなのにね。それでエドは僕のアイデアに反対し始めたんだけど、〆切が迫っていたから他に選択肢はなかった。あれが原因で、僕とエドの間にわだかまりができてしまった。決して悪いアイデアじゃないと僕は思っていたんだけどね。でも大きな問題には発展しなかった。



―サウンドから察するに、あのアルバム(『Diver Down』)のレコーディング自体は楽しかったに違いないと思ったのですが。

テンプルマン:つい最近あのセッションのアウトテイクを聴いてたんだけど、「Happy Trails」ではメンバーの笑い声が入ってるのがあってさ。エドが「テッド、笑わせるなよ」って言ってて、僕は姿が見えないよう床に伏せてたんだけど、彼はずっと笑ってた。他にもいろいろと収録されてるんだ。いざレコーディングが始まっても、彼らは笑いをこらえることができずにいた。多少のわだかまりはあったけど、レコーディングは楽しかったよ。

―アウトテイクはたくさんあるのですか? 未発表音源なんかも?

テンプルマン:いや、数はすごく少ないよ。2日かけて作ったあのセッションの最初のデモは僕が持ってる。2日目には40曲くらい録ったんじゃないかな。デイヴがこう言ったんだ。「これで全部だ。必要なら『Happy Trails』を歌ってもいいけどね」。それで本当に、あの曲のアカペラを録ることになったんだ。そのときのデモは今でも持ってるよ。デモの半分を録り終えた初日の時点で、僕は内容に自信を持っていた。僕のすべきことはいい音で録ってやることだけだった。

―エドはバックアップヴォーカルを多数こなしています。彼は自分の歌声にも自信を持っていましたか?

テンプルマン:彼はいい声をしてたよ、あまり知られてないけどね。僕らが一緒に作った曲の中で最もポップなのは「Dance The Night Away」だけど、あの曲では僕とエドとマイクがバックコーラスの大半をやってる。1テイク目はエドとマイク(・アンソニー)だけで録って、2テイク目では僕も加わった。僕はエドのサポート役で、彼と全く同じパートを歌った。僕の役目は少し厚みを加える程度だったけど、マイクの声はパワフルだった。エドは昔、彼のことを「キャノンマウス」って呼んでたらしいよ。彼は歌が得意で、通りの向かい側にいても聞こえるくらいの声量の持ち主だった。マイクは人柄もいいし、ベーシストとしても素晴らしい。彼の演奏はいつも完璧で、バンドにとって不可欠な存在だった。アルも同じで、彼のリズムキープはまるでメトロノームだった。ヴァン・ヘイレンのメンバーは、みんなプロ中のプロだったってことさ。そういうバンドとの仕事はやりやすいよ。



「Jump」は好きになれない

―エドと仕事をする中で、彼が天才だと確信したのはいつでしたか?

テンプルマン:愚問だね。そんなことはスタジオに入る前から知ってたよ。彼らはみんな僕の自宅のすぐ近くに住んでて、よくデイヴの家の地下でセッションしたよ。僕が「そこはちょっと変えてみよう」みたいに提案すると、エドが「じゃあこれでどうだ?」みたいな感じでさ。彼はクリエイティビティの塊だった。忘れられない瞬間をひとつ挙げるとしたら、「Eruption」のフレーズを聴いたときだね。僕が受けた衝撃をよそに、彼は平然としてた。「これかい? 別にどうってことないよ」みたいなさ。初めてのリハーサルの場でも衝撃を受けたけど、Starwoodでのショーを観た時点で、僕は彼が天才ギタリストだってことを確信してた。それまでにもいろんなギタリストと仕事をしたけど、彼のようなプレイヤーは見たことがなかった。アート・テイタムやチャーリー・パーカー級の逸材、そう思ったよ。

―彼はギタープレイ以外の面でも才能を発揮していました。

テンプルマン:音作りもすごく独創的だったね。フットペダルをテープでくっつけたりして、音を自在に操るための工夫をしてた。許容量以上の交流電流を送ることでアンプのパワーを最大限に引き出したりと、彼は独自のやり方で自分の欲しい音を作ってた。それでも、彼の最大の魅力はやっぱりプレイスタイルだった。彼のタッピングは革新的で、まさに神技だった。ステージであれを観たときは、開いた口が塞がらなかったよ。あんなサウンドは聴いたことがなかった。しかもそれをソロの途中で繰り出したりするんだからね。最初のデモを録ったとき、ソロにあのタッピングをちりばめてて度肝を抜かれた。彼は正真正銘の天才さ。ドゥービー・ブラザーズやヴァン・モリソンなど、僕はいろんなギタリストと仕事をしていたし、ロニー・モントローズなんかは非の打ち所のないプレイヤーだった。それでもエドのプレイを観たとき、僕はこう思ったんだ。「こいつは完全に別格だ。次元が違う」

―ヴァン・ヘイレンのメンバーが不仲だったことはよく知られています。あなたが喧嘩の仲裁に入ることはよくありましたか?

テンプルマン:いいや。彼らは喧嘩してたわけじゃなくて、ただ反りが合わなかったんだよ。原因はおそらく、キャリア初期のデイヴの横柄な態度だと思う。彼は(興行師の)P・T・バーナムみたいだった。「俺たちは何としてもこのチャンスをものにしないといけない。エド、お前はこの服を着ろ。アル、お前はこれをやれ」みたいなさ。バンドがスタジアムでショーをやるようになってから、エドは時々アルからドラムスティックを投げつけられてたらしいよ。ただ突っ立って弾くんじゃなく、もっとステージ上を駆け回れっていうメッセージなんだって彼は言ってたけどさ。

僕はエドが有名になる前から彼のことを知ってる。他のメンバーが彼の結婚に反対したときは、友人として彼から相談を受けたよ。「テッド、俺はどうすべきだと思う?」と聞かれて、僕はこう言った。「周りのやつらの言うことなんか気にするな。彼らが君の生き方に口を出す権利なんてない。君が今すぐここを出ていくと言うなら、僕もついていく」。その夜に、僕はヴァレリー(・バーティネリ:エドの最初の妻)と初めて会ったんだけど、「テッド、本当にありがとう」って言われたよ。まるでバンドが彼の結婚の是非を決めようとしているみたいで、僕はこう言わずにはいられなかった。「君の人生だ。メンバーに口出しなんかさせるな」。あのときのことは、彼もずっと覚えてるみたいだった。それ以来、僕と彼は友人どうしになり、誕生日には互いに電話をかけるようになったんだ。



―エドと意見が対立したことはありましたか?

テンプルマン:僕らが唯一争ったのは「Jump」を巡ってだ。僕はあの曲が好きじゃなかったし、今もそうだ。

―今でも「Jump」が嫌いだと?

テンプルマン:好きになれないね。自分でプロデュースしてるんだから馬鹿みたいだけど、あのキーボードが最初から気に食わなかった。エドが真夜中に電話をかけてきてこう言ったんだ。「テッド、君に聴かせたい曲があるんだ。今から行くから」。彼は夜中の3時にポルシェでセンチュリーシティまでやって来て、僕を拾ってスタジオまで連れていった。「これを聴いてくれ」。そう言って彼がかけたのが「Jump」だった。ドンが手伝ってたから音は申し分なかったし、僕は「いいんじゃない」って返した。翌朝、僕はデイヴに歌詞を書くように言った。マーキュリーのバックシートで彼が書いた歌詞を読んで、僕は思わず「これはひどい」って口にしてしまった。ピーター・クック&ダドリー・ムーアっていう2人組のコメディアンがいるんだけど、燃え盛るビルに閉じ込められた男に「グズグズするな 僕たちが広げたこのブランケットの上に飛び降りろ」って呼びかける曲があるんだ。だから僕はこう言った。「『Jump』っていうフレーズはやめよう。誰かに飛び降り自殺を勧めてるように聞こえる」。すると彼はこう言った。「いいや、このフレーズは決まりだ。意味が2つあるんだよ」。それは事実で、「チャンスに賭ける」っていう意味の他に、ある女の子をモノにするっていう彼の個人的なメッセージが込められてたんだ。

でも僕は、トレンドだったあのキーボードのサウンドが好きになれなかった。No.1ヒットになったんだから僕が間違ってたんだろうけど、今でもあの曲は聴かない。僕が考える彼らの魅力は、ヘヴィメタルバンドでありながらポップな曲を書けるところだったけど、あれは完全に一線を越えてしまっていた。アリーナを満員にするようなバンドの曲みたいだと思ったけど、実際にあれはあちこちのアリーナで試合前に流れるようになった。要するに、僕が間違ってたってことさ。

―あなたの好きなヴァン・ヘイレンの曲は?

テンプルマン:「Panama」と「Aint Talkin Bout Love」だね。

―どちらも優れたギターソングですね。

テンプルマン:彼がお粗末な曲を書いたことなんてほとんどないよ。

最大の強みはポップセンス

―「Eruption」に加えて、エディはクールなインスト曲もたくさん残しています。「Spanish Fly」や「Sunday Afternoon In the Park」「Cathedral」「Little Guitars」などがそうですが、彼は曲を一人で完成させてからあなたに聴かせていたのでしょうか?

テンプルマン:「Spanish Fly」は僕の自宅で生まれた曲だよ。僕はクラシックギターを弾くんだけど、スペインで買ったRamirezのギターをエディがリビングで適当に弾いてたんだ。アコースティックギターでタッピングをやっている彼を見て、すごく面白いと思った。それを曲にしたのが「Spanish Fly」なんだ。「Little Guitars」はたしか、エディが持ってた小ぶりなギターにちなんだ曲だったと思う。彼のアコースティックな曲と相性が良かったんだ。彼はフラメンコギターも弾きこなしていたけど、決してスタンダードなプレイには終始しなかった。あのタッピングをやると、それだけで彼のカラーになるんだ。



―エドがこの世を去るまで、あなた方は交流を続けていました。それだけに、彼の死はショックだったと思います。

テンプルマン:彼がシダーズの病院に入院している間、ドン・ランディーと僕はよく電話をかけて、彼を笑わせようとしてた。しばらくしてから自宅に移ったんだけど、それ以降のことは話したくない。彼が経験していたであろう苦痛を思うと辛いから、記憶を封印しているんだ。だから彼が新車を見せにやってきたときのことが、エディとの最後の明るい思い出なんだよ。彼が初めてまともな車を買ったときと同じようにね(笑)。僕が住んでるセンチュリーシティまで、わざわざ見せにきたんだよ。僕の自宅はある独立コミュニティの中にあるんだけど、その出入り口にいる門番が僕に電話してきて「自分はエディ・ヴァン・ヘイレンだと自称している男が来ているんですが、追い払いましょうか?」って言うから、「それは本人だよ、僕が保証する」って言ってやったよ(笑)。

―ギターの神様と見なされていた彼が、フレンドリーで気取らない人だったというのは微笑ましいですね。

テンプルマン:そうだね。バックステージで知らない人から話しかけられても、彼はちゃんと応じていたからね。彼は自分のことをギター・ゴッドと呼ぶような傲慢さとは無縁の人物だった。むしろそんなふうに言われることを嫌ってたよ。メトロポリタン美術館に彼のギターが展示されたとき、僕は彼に手紙を書いたんだ。「エド、僕は君が史上最高のギタリストの1人だと思ってる。メトロポリタン美術館に君のギターが展示されたことも納得だ。君に負けないよう、僕は自作の車でインディアナポリス500での優勝を目指すから、達成したときには君もこんなふうに祝ってくれ」っていう内容のね(笑)。彼はそういうやり取りが好きだったんだ。エディはすごくスマートだった。単にギターの天才っていうだけじゃなくてね。

―彼は音楽の歴史にどのように貢献したと思いますか?

テンプルマン:どうだろうね。いろんな面で才能を発揮した彼は、すごくユニークな存在だった。アラン・ホールズワースやクラプトンなんかも名ソロを残しているけど、エディは素晴らしいソングライターでもあった。それに加えて、彼は耳に残るリフや独創的なソロを数多く生んだ。彼は単なるテクニシャンじゃなかった。誰も考えもしなかったようなアイデアを考えつき、そして実践した。目にも留まらぬタッピング、目を剥くような超絶技巧、そういう他の誰も真似できないことをやってのけるだけじゃなく、絶えず新しいことに挑戦し続けてた。決してひけらかすためじゃなくてね。ソロがどれもメロディックなのは、彼が元々ピアノを弾いていて、音楽的な素養を身につけていたからだ。彼は鍵盤の腕前もかなりのものだったからね。時々スタジオでスタインウェイのピアノを弾いていたけど、まるでプロのピアニストのようだった。

彼は独自のアプローチを確立していたと思う。だからこそ彼のソロや、デイヴと一緒に書いた曲は今も色褪せていない。曲のコード進行は、彼が一流のソングライターであることを証明している。無意識のうちに人々を惹きつけるメロディックなソロ、それが彼のトレードマークだった。ディープ・パープルのソロにさえも、彼のようなメロディセンスは感じられない。ジミー・ペイジのアプローチとも異なる。彼の最大の強み、それは曲をポップに仕上げられるセンスだったと思う。誰もが彼らの曲に夢中だったからね。まるで興味のないタイプの音楽であっても、人は真に優れたポップチューンの魅力には抗えないんだ。


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