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ポール・マッカートニーのソロ名曲ベスト40選

Rolling Stone Japan / 2021年1月30日 10時0分

ポール・マッカートニー(Photo by Robert R. McElroy/Getty)

昨年12月には、ロックダウン中に全て自分で作詞作曲&録音した『マッカートニーIII』で全英チャート1位を獲得。いまだ創作意欲の衰えぬポール・マッカートニーのソロワークを振り返る。お馴染みの大ヒット曲、サイケな逸品、パンク、フォーク、ディスコ、ありふれたラヴソングまで、ビートルズ後の代表的なソロ楽曲をリストアップした決定版ランキングをお届け。

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「ビートルズの功績には誇りを感じている」とポール・マッカートニーは、1978年にローリングストーン誌のインタビューで語っている。「とても大きなことを成し遂げた。僕らが多くの人々に大きな幸せをもたらしたと皆が口々に言ってくれるが、その通りだと思う。ただの社交辞令だとは思わない」とマッカートニーは述べた。

1970年のマッカートニーのソロデビューが、ザ・ビートルズの終焉を決定づけた。しかしビートルズ解散後に始まった彼のソロキャリアは、世界中の人々へ幸せを拡散しようと活動を続けたビートルズのヴィジョンを最も忠実に継承している。「Maybe Im Amazed」「Jet」「Band on the Run」などのヒット曲から、「Monkberry Moon Delight」といった隠れた名曲にまで、マッカートニーの溢れ出るインスピレーションや強い願いが込められている。

ローリングストーン誌によるベスト40のランキングは、歌詞に問題があるとして放送禁止になったロックンロール曲「Hi, Hi, Hi」がトップ10入りしていたり、世界的に売れた「My Love」がランクインしていないなど、論議を呼ぶかもしれない。リストアップした楽曲はポップから、フォーク、パンク、ディスコまで多岐に渡る。またありふれたラヴソングの中にも、歴史に残る本当に素晴らしい作品があるのだ。

※編註:本記事は2017年9月に初公開された。

40位「Magneto and Titanium Man」(邦題:磁石屋とチタン男)
収録アルバム『Venus and Mars』(1975年)

ジャマイカでの休暇中に、子どもたちのために買ったコミックスにインスパイアされて書いた作品。マーベル・コミックのスーパーヴィランが銀行強盗として登場する陽気な楽曲。ウイングスのツアーステージでは、ルネ・マグリットらアーティストの作品と共に、マグニートーやタイタニウムマンの画像も映し出された。「どれも同じアート作品さ」とマッカートニーは語った。




39位「Ever Present Past」
収録アルバム『Memory Almost Full』(2007年)

マッカートニーは、自分の半分に満たない年齢の人間の溢れるエネルギーを回顧的なシングル曲に込めた。キレの良いギターリフに乗せて、”あまりにも早く過ぎ去ってしまった時を求めて”と歌う。「僕は”ノスタルジア”という言葉は使わず、”メモリー”という言葉を選んだ。イマジネーションを発揮しようと思ったら、まずは過去を振り返るだろう。」




38位「Riding to Vanity Fair」
収録アルバム『Chaos and Creation in the Backyard』(2005年)

見事にエッジの効いた批判的な歌詞に乗せた楽曲を、プロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチが、まるで宙に浮いている気分にさせるサイケデリックなバラードに仕上げた。「この手の曲を書くことは滅多にない」とマッカートニーは、ローリングストーン誌に語っている。「自分が我慢ならないということを、はっきりと伝えてやるのも必要だと思ったのさ」




37位「Mull of Kintyre」(邦題:夢の旅人)
アルバム未収録シングル(1977年)

バグパイプをフィーチャーしたコーラスが印象的な楽曲で、マッカートニーが農場を所有するスコットランド西部の外れにある素晴らしい場所を讃えている。「Mull of Kintyre」と言っても米国のファンにはピンと来ないかもしれないが、シングル曲として英国ではビートルズの「She Loves You」を凌ぐ当時歴代1位の売り上げを記録した(後に記録は、1984年の「Do They Know Its Christmas?」に抜かれた)。



36位「Temporary Secretary」
収録アルバム『McCartney II』(1980年)

テープレコーダーによるフリーフォームのインプロヴィゼーションを駆使したアルバム『McCartney II』に収録された、妙にキャッチーなエレクトロポップ曲。一時雇用の職を求める少し変わった男について歌っている。「実験的な試みだったんだ」と、後にマッカートニーは語っている。「当時は、自分が何か画期的なことをしているなんて意識はなかった」




35位「Ive Had Enough」(邦題:別れの時)
収録アルバム『London Town』(1978年)

超軽快な「With a Little Luck」に続くウイングス後期の作品で、強い口調の歌詞にマッチしたギターが印象的だ。辛辣な言葉をシャウトするマッカートニーの歌声を聴くと、後にコラボレーターとなるエルヴィス・コステロが既に念頭にあったようにも思える。「Ive Had Enough」は、米国ではどうにかトップ40に入ったが、英国でのセールスは不調だった。「いつも上手く行くとは限らないさ」とマッカートニーは肩をすくめた。




34位「Early Days」
収録アルバム『New』(2013年)

ビートルズでは実際に誰がどの曲を書いたのか、という長年の論争に関して、マッカートニーの中では決着が付いていると誰もが思っているかもしれない。ところが大間違いだ。「僕の中のメモリーチップには、2人が一つの部屋に座って”I Saw Her Standing There”や”One After 909”を一緒に作っている姿がはっきりと記憶されている」とマッカートニーは、2014年のローリングストーン誌のインタビューで語っている。「ジョンと僕が一緒に曲を作り、一緒に演奏し、一緒にレコーディングしたことは、事細かに鮮明に覚えている。決して消え去るものではない」と彼は言う。アルバム『New』(2013年)のハイライトと言える「Early Days」は、ビートルズの歴史をねじ曲げようとするリビジョニストへのフラストレーションが根底にある、と彼は説明した。「奴らが僕から奪おうとしてもできない。僕はそんな時代を乗り越えてきた。苦しみを笑いに変えねばならないことが何度もあった。気が狂いそうになるのを止めるために」と歌う。そんな状況を、今世紀に彼が作った楽曲の中で最も感動的で、ほろ苦く甘いフォークバラードに仕上げるところが、ポール・マッカートニーらしい。恨み節などではなく、親友の思い出に対する愛に溢れている。




33位「The Back Seat of My Car」(邦題:バック・シート)
収録アルバム『Ram』(1971年)

ソロとしての初期のヒット作と同様、「The Back Seat of My Car」もまたビートルズの楽曲になっていた可能性がある。マッカートニーは1969年に本作の初期のバージョンを披露している。それから2年後、オーケストラをフィーチャーした壮大なバージョンがアルバム『Ram』の最後を飾った。「ティーンエイジャーの曲だ」とマッカートニーは2001年に語っている。「恋人同士の2人が未知の世界へと踏み出そうとしている。僕はいつでも弱い者の味方だ」



32位「Flaming Pie」
収録アルバム『Flaming Pie』(1997年)

マッカートニーはビートルズの『アンソロジー』プロジェクトの勢いを、アルバム『Flaming Pie』へと持ち込んだ。タイトルは、ジョン・レノンがかつてビートルズの由来について語ったジョークから来ている。タイトルトラックとなる本作は、一風変わったロックンロール曲で、ニューオリンズ調のピアノによるブレイクダウンとトリップしたような歌詞が印象的だ。マッカートニー曰く、アルバムの売れ行きは「全く気にしない」という。「誰もがヒット作を出したいと思うあまりに、楽しむことを犠牲にしてしまっている」




31位「Say Say Say」
収録アルバム『Pipes of Peace』(1983年)

ビートルズ作品の版権を巡って対立するまで、マッカートニーとマイケル・ジャクソンは仲の良い友人同士だった。「マイクは素晴らしく、いい奴だ!」とマッカートニーは、快活な本作をリリースした年に語っている。当時、マイケル・ジャクソンが絡んだ作品は全てヒットした。本作品も例外ではなく、6週間に渡り1位の座を守り続けた。




30位「Fine Line」
収録アルバム『Chaos and Creation in the Backyard』(2005年)

レディオヘッドのプロデューサーとして有名なナイジェル・ゴッドリッチは、アルバム『Chaos and Creation in the Backyard』でマッカートニーにそれまでの殻を破らせた。アルバムではマッカートニーが、ほぼ全ての楽器を演奏している。結果、ピアノをメインにした軽快でクラシックな楽曲が生まれた。




29位「FourFiveSeconds」
アルバム未収録シングル(2015年)

マッカートニーがかき鳴らす、どこか感情に訴えかけるようなアコースティックギターをフィーチャーした、リアーナとカニエ・ウェストのデュエット曲は、マッカートニーにとって過去数十年で最大のヒット作となった。「Spies Like Us」以来となるトップ10ヒットで、ポップミュージック界はまだ彼を必要としていることが証明された。彼自身はほとんど歌っていないものの、「FourFiveSeconds」は完全にマッカートニーらしい楽曲に仕上がっている。シンプルなコード進行から中間部は教会オルガンのブレイクダウンを挟み、静かに攻撃的なジャブを繰り出す。”All of my kindness is taken for weakness”というリアーナのため息は、彼女がアップル・コアを解体しようとしているようにも聞こえる。若き共演者たちというよりも、マッカートニー自身の声を代弁しているようだ。2人のスターを凌ぐには、よっぽどパワフルな音楽的存在感が必要とされるが、マッカートニーは見事にやってのけた。



28位「Goodnight Tonight」
アルバム未収録シングル(1979年)

ディスコミュージック時代におけるマッカートニー最大のヒット作で、ウィングスの最後を飾る第7期ラインナップによるグルーヴの効いた作品。当時はアルバム『Back to the Egg』を制作中だったが、本作は同アルバムに収録されなかった。「僕らは全部ボツにした」とマッカートニーは振り返る。「1週間後に聴き返してみて、”これはすごいじゃないか”と思ったのさ」




27位「Angry」
収録アルバム『Press to Play』(1986年)

かつて「Helter Skelter」を叫んでいたマッカートニーだが、80年代のほとんどはパッとしなかった。しかし、ピート・タウンゼント(Gt)とフィル・コリンズ(Dr)を迎えたプロトグランジで彼は、人種差別やマーガレット・サッチャーに対する怒りを爆発させた。「アパルトヘイトに対する当時の英国政府の対応は、とにかく酷かった」とマッカートニーはローリングストーン誌に語った。「正気とは思えない。彼らは全く懲りないのだろうか?」




26位「Heart of the Country」(邦題:故郷のこころ)
収録アルバム『Ram』(1971年)

ビートルズ解散後のビジネス上の争い事は、マッカートニーを精神的に蝕んだ。彼はリンダとスコットランドへ向かい、郊外で暮らし始めた。田舎でののどかで楽しい暮らしを歌った作品だ。「ある種の逃亡生活だった」と彼は、数年後に振り返っている。「子どもの頃から自然が大好きだった。でも忙しくて、少年時代のように自然を楽しむ時間がなかったんだ」




25位「Waterfalls」
収録アルバム『McCartney II』(1980年)

タイトルは、英サセックスにあるマッカートニーのコテージに由来する。アルバムのハイライトとも言える荘厳なバラード曲だが、アルバム自体のセールスは不発に終わった。熱心なファンなら、14年後に同じタイトルでリリースされたTLCによるR&Bのヒット曲を聴いて、懐かしさを覚えただろう。2つの楽曲には、中心となる比喩表現と主要な歌詞の一部に共通点が見られる。「”もしもし?”という感じだったよ」とマッカートニーは、後に不快感を表している。



24位「Hope of Deliverance」(邦題:明日への誓い)
収録アルバム『Off the Ground』(1993年)

「ラテンアメリカの雰囲気に乗せた世界へ向けたメッセージソングだ」とマッカートニーは表現している。シンコペーションによる軽快なリズムに合わせたロビー・マッキントッシュとのスパニッシュギターのソロの掛け合いは、緊張感すら感じさせる。米国ではヒットしなかったものの、冷戦後の東欧では作品の持つ楽観的な雰囲気が新鮮で、深い共感を呼んだ。




23位「Listen to What the Man Said」(邦題:あの娘におせっかい)
収録アルバム『Venus and Mars』(1975年)

ヴァン・マッコイの「The Hustle」には及ばないかもしれないが、マッカートニーの「Listen to What the Man Said」はセッションプロのトム・スコットによる熱いサックスをフィーチャーした魅力的で洗練されたグルーヴで、ディスコ時代の幕開けに彼がしっかりと適応していたことを示している。「”The Man”は神とも取れるし、色々な解釈ができる」とマッカートニーは言う。「夏にピッタリの曲だ。」




22位「Monkberry Moon Delight」
収録アルバム『Ram』(1971年)

不気味な深夜のファンタジー。エキゾチックな曲調のハードなピアノのリフに乗せて、「鼻の上に乗っているのはピアノだ」とマッカートニーが唸る。「抽象画のようなものさ」と彼はローリングストーン誌に語っている。「おい、あれはコカインか?」と聞かれて「いいや、彼の鼻の上に付いているのはピアノさ。シュールレアリズムの絵画を見たことがないのかい?」といった感じだ。




21位「You Gave Me the Answer」(邦題:幸せのアンサー)
収録アルバム『Venus and Mars』(1975年)

マッカートニーに「一緒に踊っていただけませんか?」と言われれば、なかなか断れないだろう。「You Gave Me the Answer」は、ビートルズ時代の「Honey Pie」や「Your Mother Should Know」といった昔懐かしいミュージックホールの雰囲気を彷彿させる。ルディ・ヴァリー張りのソフトシュー・クルーニングで「君は愛に対する永遠の答えを僕にくれた。僕は君を愛している。君も僕のことが好きなんだね」と歌う。



20位「Here Today」
収録アルバム『Tug of War』(1982年)

レノンの死を受けて書かれた感動的な作品。ジョージ・マーティンがプロデュースした繊細なバラードで、明らかにビートルズのサウンドを意識している。胸にジンと来るストレートな歌詞は、マッカートニーが亡き友と会話しているようだ。「彼が亡くなる直前に、僕らは語り合うことができた」とマッカートニーは1993年に振り返っている。「彼と仲直りできた気がするんだ」




19位「With a Little Luck」(邦題:しあわせの予感)
収録アルバム『London Town』(1978年)

最もメロウなマッカートニーが聴ける。リンダのコーラスとヨット・ロック調のシンセサイザーに合わせ、”2人が力を合わせれば、できないことなどない”と優しく囁く。実際に、この曲は文字通りヨットの上でレコーディングされた。プレジャーボートのフェア・キャロル号に24トラックのスタジオ機材を積み込み、バージン諸島の沖合に停泊してレコーディングが行われたという。




18位「Coming Up」
収録アルバム『McCartney II』(1980年)

70年代も終わりに近づく頃、マッカートニーはスコットランドの農園に引きこもり、テープレコーダーで遊んでいた。「あらゆるテクニックを試したが、半分は忘れてしまった」と彼は、本作について振り返った。超ハイな感じのグルーヴと早口で風変わりなヴォーカルが印象的な楽曲だ。レノンもこの曲のファンの一人で、彼は「Coming Up」を聴いて再び音楽を作ろうという気になったという。




17位「Juniors Farm」
アルバム未収録シングル(1974年)

ウィングスがテネシー州レバノン滞在中に、近くのナッシュビルにあるカーリー・プットマン・ジュニアの農場でレコーディングしたヒット作。カーリー・プットマンは、ジョージ・ジョーンズが歌った名曲「He Stopped Loving Her Today」の作者として有名なソングライターだ。ところが「Juniors Farm」はカントリーというよりもグラムロックに近く、歌詞にはエスキモーやトドといった極めてサイケなキャラクターが登場する。



16位「Nineteen Hundred and Eighty Five」(邦題:1985年)
収録アルバム『Band on the Run』(1973年)

ウィングスが出した最高のアルバムのラストを飾る魅力的な曲。マッカートニーの弾く疾走するバールーム・ピアノが印象的なSF大作で、「1985年には誰も生き残っていなかった」という歌詞から始まる。「そのフレーズだけ何カ月間も温めていた」とマッカートニーは後に振り返っている。「誰も生き残っていないと言ったのは、198…6年だっけ? 結局その通りにはならなかったけれどね」




15位「Silly Love Songs」(邦題:心のラヴ・ソング)
収録アルバム『Wings at the Speed of Sound』(1976年)

愛を語る夢想家だという批評を何年間も受けながら、マッカートニーはディスコ曲でスマッシュヒットを放った。「何が悪い? 教えてくれ」と、ノリの良いベースラインと分厚いストリングスに乗せて歌う。5週間に渡ってナンバーワンの座を守り、年間チャートのトップを取ることで、最後に笑ったのはマッカートニーだった。




14位「Bluebird」
収録アルバム『Band on the Run』(1973年)

珠玉の楽曲が多く収録されたアルバム『Band on the Run』の中にあって、「Bluebird」は自由を追い求めたファンタジーだ。ポールとリンダが仲むつまじく、そよ風の中を自由に飛び回っている。陽気なブラジルのボサノバギターに、ナイジェリアの器楽奏者レミ・カバカによるソフトタッチのパーカッションが印象的な楽曲。本作で聴けるようなビタースイートなメロディは、マッカートニーにしか書けないだろう。




13位「Every Night」
収録アルバム『McCartney』(1970年)

「僕は全く出歩かないんだ。クラブへ出かけるくらいなら、家で寝ていた方がましだ」と1970年4月にマッカートニーはローリングストーン誌に語っている。美しいアコースティック曲で、さまざまな模様が複雑に浮かび上がる。目的もなく、「考えるのをやめたい」とマッカートニーが歌う。しかし彼がリンダと一緒に家に籠ると決めた時、陽の光が雲の間から顔を出す音が聴こえるのだ。



12位「Let Me Roll It」
収録アルバム『Band on the Run』(1973年)

マッカートニーには珍しく、激しくブルージーなギターとリバーブを効かせたヴォーカルの荒削りな曲。「Let Me Roll It」はレノンの模倣だ、とたびたび指摘されてきた。しかしマッカートニーは、一貫して否定し続けている。「そんな作り話は別として、僕とレノンとの間には、考え方や曲の作り方などたくさんの共通点があることを忘れないでほしい」




11位「Beware My Love」(邦題:愛の証)
収録アルバム『Wings at the Speed of Sound』(1976年)

「僕らはできるだけハードな曲を作ろうとしている」とマッカートニーは、アルバム『Wings at the Speed of Sound』を制作していた時期に語った。そうして、強烈で展開が印象的なロック曲が完成した。マッカートニーのシャウトとジミー・マカロックによる激しいギターが、のんびりとした楽曲の並ぶアルバムの中でも際立った存在になっている。




10位「Venus and Mars / Rock Show」
収録アルバム『Venus and Mars』(1975年)

「ウィングスは基本的にツアーバンドだ。だからビートルズの続きなどではなく、新たな一つのバンドなんだ」とマッカートニーは、1976年にローリングストーン誌に語っている。とはいえ、当時の彼が関わるもの全てには必ず「それ」が付き纏った。ウィングス・オーバー・アメリカ・ツアーのオープニングは毎晩、「Venus and Mars」から「Rock Show」へと続くメドレーで観客を圧倒した。美しいアコースティックギターのメロディから、一転して激しいロックへと展開する。歌詞では「ロック・ショー」とオランダの「コンセルトヘボウ」で韻を踏み、当時間違いなく最高のアリーナスターだったジミー・ペイジまで登場する。




9位「Another Day」
アルバム未収録シングル(1971年)

マッカートニーは、60年代後半から70年代前半にかけて多くの素晴らしい楽曲を書いている。本作は、その中でずっと温められていた曲の一つ。本作は、1969年にビートルズの『Let It Be』セッション中に初めてお披露目されたものの、初めてレコーディングされたのは、1970年後半のアルバム『Ram』向けのセッションだった。そして、マッカートニーのソロとしてのキャリア初のシングル曲となった。マッカートニーが得意とするストーリー仕立ての楽曲で、ドラムのデニー・シーウェル曰く、「ニューヨークシティ版”Eleanor Rigby”」だという。リンダの哀愁を帯びたコーラスが、主人公の若い女性を生き生きと表現している。



8位「Hi, Hi, Hi」
アルバム未収録シングル(1972年)

マッカートニーは自身の紳士的なイメージを逆手に取り、セックス、ドラッグ、ギターの生活を讃える曲に仕上げた。シングルがリリースされるとすぐに、BBCから放送禁止にされた。たとえマッカートニーといえども、「ベッドに横たわって俺のボディ・ガンを待っていろ」などと誘えば、ただでは済まされなかったのだ。マッカートニーはローリングストーン誌のインタビューで実際に歌い、「ボディ・ガン」ではなく「ポリゴン」の完全な聞き間違いだ、と主張した(その歌詞の方がはるかに良い!)。また、コーラス部の「Were gonna get hi, hi, hi」は、「ナチュラル・ハイについて歌っていると誤解されやすい」と彼は言うが、誰もそうは思っていない。しかし、マッカートニーの最も愛されるロック曲の一つであることは間違いない。




7位「Junk」
収録アルバム『McCartney』(1970年)

「Junk」は元々、ビートルズの『White Album』用に作られた楽曲だった。ビートルズのアルバム『Anthology 3』に、素晴らしいデモバージョンが収録されている。しかし、マッカートニーのソロバージョンの方が絶品だ。ジャンクショップのショーウィンドウを覗き込む若者が、自分が年老いて忘れ去られていく将来の姿を垣間見る。マッカートニーが飾らない自分の言葉で音楽を作って行こう、という決意が感じられる。「僕はどちらかと言えば、デモテープの状態のまま手を加えない方が好きなんだ」とマッカートニーは、1974年のローリングストーン誌のインタビューで語っている。「ドアの開く音、テープレコーダーを操作する音、後ろで誰かが笑う声などが聞こえてもいいと思う」




6位「Jet」
収録アルバム『Band on the Run』(1973年)

70年代のロックは、どこかしらデヴィッド・ボウイに似てしまうものが多かった。ただしマッカートニーだけは、「Jet」のヒットによって見事にボウイを超えることができた。ナイジェリアでレコーディングした本作は、堂々たるホーンのファンファーレで始まり、グラムロック調の激しいギターとオーバードライブをかけたシンセのグルーヴに、勢いのあるコーラスへと続く。後に分かったことだが、「Jet」はマッカートニーの飼い犬の名前だったという。歌詞はマッカートニーの作品の中でも不可思議な内容で、宇宙旅行や婦人参政権論者についての謎の言葉が並ぶ。「自分でもはっきりと説明できないんだ」と彼は後に語っている。「謎めいているから、気に入っているんだ」




5位「Uncle Albert / Admiral Halsey」(邦題:アンクル・アルバート〜ハルセイ提督)
収録アルバム『Ram』(1971年)

マッカートニーがソロとして初めてナンバーワンに輝いた傑作。色々な楽曲やサウンドエフェクトの断片を繋ぎ合わせ、5分間の作品にまとめている。展開の多様さと興味深いサウンドを聴いていると、もっと長い曲のように聴こえる。「とても解放された気分だった。周りの何人かは焦っていたと思うよ」と彼は、2001年に語った。マッカートニーの実のおじさんであるアルバート・ケンドールをモデルにした本作は、ジョージ・マーティンとニューヨーク・フィルハーモニックのサポートにより、明らかにビートルズ風の楽曲に仕上がっている。アルバム『Ram』の他の楽曲は激しくけなしていたレノンですら、良い作品だと認めていた。



4位「Live and Let Die」(邦題:007 死ぬのは奴らだ)
アルバム未収録シングル(1973年)

ウィングス時代の最もハードで毛色の異なるロック曲で、同名のジェームズ・ボンド映画向けに書き下ろした楽曲。ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンが、映画音楽を担当している(マッカートニーが007に出演するのではないか、という報道もあったが、本人は「馬鹿げた話だ」とローリングストーン誌にコメントしている)。マーティンが、スピード感のある派手なオーケストレーションと、中間部の落ち着いたレゲエの構成のアレンジをサポートした。英国と米国の両方でトップ10入りし、マッカートニーの最大のヒット作の一つとなった。今日に至るまで本作品はスタジアムやアリーナのセットリストに組み込まれ、曲の終わりには派手な花火が打ち上げられる。




3位「Too Many People」
収録アルバム『Ram』(1971年)

ソロとしての2ndアルバムがリリースされる頃、マッカートニーはあらゆる事に苛立っていた。まず自分の愛すべきバンドが分裂し、周囲からはマッカートニーに非があるかのように責められた。彼は自分のフラストレーションを痛烈な批判の曲に込めて、ニューヨークでレコーディングに臨んだ。「あれは君の最初の過ちだ。君は幸運を掴み、ふたつに引き裂いた」と、ジョン・レノンを直接的に攻撃した。「彼のお説教には少しイライラさせられていた」とマッカートニーは1984年に告白している。しかし楽曲のとてつもなく甘いメロディは、マッカートニーが自分の魅力をいつでも武器として利用できることの証明だった。「本当に当たり障りのない曲だ」と2001年に語った。「ちょっとした皮肉さ」




2位「Band on the Run」
収録アルバム『Band on the Run』(1973年)

マッカートニーがソロとして上手くやって行けるかどうか今なお疑問に思っている人がいるならば、「Band on the Run」が決定的な答えとなるだろう。ビートルズからの脱却を図るための、軽快なロックンロール組曲だ(”もしも僕らがここを抜けられたら”というフレーズは、ジョージ・ハリスンが会議中に呟いた言葉から来ているという)。しかしマッカートニーは衝突や制限されることに文句を言いながらも、楽しそうに叫んでいる。最終的に世界中が彼に味方して、本作は米国のポップチャートで1位を獲得した。以降、誰もマッカートニーを軽視する者はなくなった。




1位「Maybe Im Amazed」(邦題:恋することのもどかしさ)
収録アルバム『McCartney』(1970年)

ポール・マッカートニーは、ロンドンのセント・ジョンズ・ウッド(7 Cavendish Avenue)にある自宅のピアノを弾きながら、飾り気のない純粋なラヴソングを作った。その頃の彼はビートルズの将来がどうなるか見えない中で、新しく仕入れたスチューダー製の4トラック・テープレコーダーを使って、さまざまなアイディアを試していた。「Junk」や「Teddy Boy」のように、ビートルズのアルバム用に数カ月〜数年前から温めていて、最終的に1970年のソロアルバムに収録された素晴らしい楽曲もある中で、本作は完全な新曲だった。自分のライフワークだったバンドが崩壊するのを目の当たりにした喪失感と、彼を支えてくれる妻リンダの存在の大きさを歌っている。「Maybe Im Amazed」は特別な存在だった。だからアルバムの他の楽曲のようなDIY的なやり方ではなく、偽名を使い家族を伴ってEMIのアビーロード・スタジオを借り、正式なスタジオ機材を使用してレコーディングした。レコーディングもプロデュースも、さらに全ての楽器演奏も一人でこなし、リンダがコーラスを付けた。

「僕らは大いに楽しんだ」とマッカートニーは、その年(1970年)にローリングストーン誌に語っている。「自分たちの作業は内密に進めて、どの企業にも接触しなかった。盛り上がったよ」と。「Maybe Im Amazed」は間違いなくアルバム『McCartney』のハイライトだと言える。アルバムは1970年に、ビートルズの映画『Let It Be』が公開される数週間前にリリースされた。ところが本作は、ラジオで頻繁にオンエアされていたにもかかわらず、シングルとしてはリリースされなかった。その後、ウィングス名義でリリースしたライヴアルバム『Wings Over America』から1977年にシングルカットされたバージョンが、チャートのトップ10入りした。その後、長年に渡り彼が経験してきた数々の絶頂期の中でも、ソロとしての初期の成功は特別なものと言える。控えめだが、栄光の第二幕の始まりとしては完璧なスタートだった。




【関連記事】ポール・マッカートニー×テイラー・スウィフト対談「誰かをそっと支えるような曲を書きたい」


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