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追悼チック・コリア ジャズの可能性を広げた鍵盤奏者の歩み

Rolling Stone Japan / 2021年2月15日 8時30分

チック・コリア、1977年撮影(Photo by Dick Barnatt/Redferns)

さる2月9日、チック・コリアが79歳で死去。マイルス・デイヴィスをフュージョン革命へと誘い、リターン・トゥ・フォーエヴァーなど時代を変えた数々のバンドを結成した鍵盤奏者の歩みを振り返る。

【画像を見る】チック・コリア、ジャズの歴史を変えたレジェンドの素顔

50年以上にわたるキャリアでジャズの領域を広げたキーボードの巨匠、チック・コリアが希少がんで他界した。彼のFacebookページの投稿で訃報が確認された。享年79歳だった。

「チックは人生やキャリアの中でずっと、新しいものを生み出し、アーティストとして本領を発揮する際に得られる自由と喜びを大切にしていました」と、遺族は声明を発表した。「多数の業績と数十年にわたる全国ツアーを通じて、彼は数百万人に感動と刺激をもたらしました」

「今までプレイした中で、チック・コリアは最高の即興ミュージシャンでした」。コリアと共演したこともあるジョン・メイヤーはInstagramにこう投稿した。「彼ほどオープンで臨機応変な人はいませんでした。周りのミュージシャンが新しい提案をするたびに、アプローチを変えてきた。こちらが間違った音を出すと、彼は即座に悟り、あたかも『君は気付いてないかもしれないが、すべての音に価値があるんだ』と言わんばかりに、それをモチーフにして演奏したものです。いろいろな意味で、彼の死は計り知れない損失です」

マイルスへの影響、未来へのメッセージ

60年代初期、コリアはすでにトップクラスのピアニストとして名を馳せ、スタン・ゲッツやハービー・マン他多数のミュージシャンと共演した。60年代後期にはマイルス・デイヴィスのバンドに参加し、『ビッチェズ・ブリュー』といったアルバムの中で、トランペット奏者がコンテンポラリーな電子音楽へ方向転換するのに重要な役割を果たした。マイルスとの共演後には、革新的なエレクトロ系バンド、リターン・トゥ・フォーエヴァーを結成。フュージョン全盛期を代表する心に響くダイナミックな作品を残した。続く数十年はあまたのプロジェクトに参加し、ヴィブラフォン奏者ゲイリー・バートンとの洗練されたデュオに始まって、時代を牽引したエレクトリック・バンドにいたるまで、幅広い才能を発揮した。2020年の最新アルバム『プレイズ』では、クラシックやビバップ、その他数々の要素を交えながら、多様なスキルと自身が受けてきた音楽的影響を披露した。



「私の旅にお付き合いいただき、ともに音楽の光を明るく灯してくれた方々に御礼を申し上げます」。彼は家族を通じて、Facebookにこんなメッセージを寄せている。「演奏や作曲、パフォーマンスをたしなむ方々には、ぜひ続けていただきたいというのが私の願いです。自分自身のためでなくても、他の人々のためにぜひそうしてほしいのです。世界がより多くのアーティストを求めているからという理由だけでなく、ひとえに楽しみが増えるからです」

「そして、長年ともに過ごした家族のような素晴らしいミュージシャン仲間へ。君たちから多くを学び、ともに演奏できたことは天からの贈り物であり、栄誉でした。私は可能な限り創作の喜びを、心から敬愛するすべてのアーティストとともにもたらすことをつねに心掛けてきました――それが私の人生を豊かにしてくれたのです」

数奇な歩みとフュージョン革命

コリアは1941年6月12日生まれ、ボストン近郊出身(本名はアルマンド・アンソニー・コリア。生涯続くチックというニックネームは、彼の叔母が頬をつねって「生意気な子ね(Cheeky)」と呼んでいたことに由来する)。彼の父親はディキシーランド・スタイルのジャズトランペット奏者で、息子にピアノの手ほどきをした。もっとも、コリアは幼少期にドラムも演奏していた。彼は一時期コロンビア大学とジュリアード音楽院に通ったが、すぐに学校をやめてゲッツやマン、ブルー・ミッチェルといった名のあるミュージシャンたちとギグをするようになる。60年代後期にはすでにバンドリーダーとしての才能を発揮し、1968年にはベースにミロスラフ・ヴィトウス、ドラムにロイ・ヘインズを迎えてアルバム『ナウ・ヒー・シングス、ナウ・ヒー・ソブス』をリリース。モダンジャズ・ピアノ・トリオの新たな金字塔を打ち立てた。



マイルスとの活動は、正規のスタジオアルバムを1枚も出さずに一過性に終わったバンド、ロスト・クインテットから始まった。「本当に大失敗だった」と、マイルスは同バンドについてこう語ったこともあるが、その前にマイルスが組んだ5人組バンドの野心的なポストビバップと、思い切って抽象的にしたフリースタイルのインプロビゼーションを取り入れたという点でずば抜けていた。このバンドでコリアは、当初懐疑的だった電子ピアノを演奏している。彼はその後も『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』『ジャック・ジョンソン』『オン・ザ・コーナー』など、マイルスの名だたるアルバムに参加した。

1972年、コリアはリターン・トゥ・フォーエヴァーを結成。バンドの第2期には――ベースにスタンリー・クラーク、ドラムにレニー・ホワイト、ギターにビル・コナーズ(後任はアル・ディ・メオラ)――ジョン・マクラフリンのマハヴィシュヌ・オーケストラやウェザー・リポートと並んで、当時のジャズロック・ムーブメントを牽引した。前衛的で華やかなサウンドはジャズ界のみならず、バッド・ブレインズのメンバーやリヴィング・カラーのヴァーノン・リードなど、ロックアーティストにも大きな影響を及ぼした。



「鳥肌が立ったよ」。リターン・トゥ・フォーエヴァーの1973年の名盤『第7銀河の讃歌』のタイトルトラックを作曲したときのことを、コリアはこう振り返っている。「ものすごくエキサイティングだった。仕上がりも完璧で、誰もが興奮していた。あの曲が新しい方向性を示し、そこから膨らんでいった。演奏する会場も前より広くなって、観客はバイブを感じてくれた。俺たちが紡ぎ出す音と観客の受け止め方が相まって、相乗効果が生まれた」

「彼のおかげでフェンダー・ローズが認められた」

駆け出しのころは技巧派プレイヤーとして名を馳せたコリアは、同時に創意あふれる作曲家/バンドリーダーでもあり、新しいアイデアにひるむことは決してなかった。アヴァンギャルド・ジャズを追求した大所帯バンド、サークル。ラテンミュージックに影響を受けたアップビートな楽曲を収録したアルバム『マイ・スパニッシュ・ハート』。『ナウ・ヒー・シングス』の3人組と制作したセロニアス・モンクの傑作集。エレクトリック・バンドではショルダーキーボードを振りかざし、ダンサブルなポップ風のサウンドを追求した。そしてモーツァルトからビバップの伝説バド・パウウェルまで、さまざまな音楽の英雄たちへのトリビュート曲。同じマイルズ組の出身であるハービー・ハンコックとはピアノデュオを組んで、長きにわたって活動した。

「俺の感じた限りだが、チックと組むのはすごく居心地がよくて安心できる。と同時にものすごく刺激的なんだ」。2015年、ハンコックはこう語っている。「つまり、彼はある種のクッションを提供する……ようこそと出迎える一方で、ちょっとしたスパイスも用意している……それも挑戦しがいのある刺激をね」



「コリアはジャズの在り方を変えた」。彼の訃報を受けて、ヴァーノン・リードはこうTwitterに投稿した。「多くの意味で。彼(とハービー・ハンコック)のおかげで、ジャズでもフェンダー・ローズが認められた。彼は文字通り、あらゆるスタイルの達人だった。彼はその領域に達していた。ただひたすら驚異的なミュージシャンだった」

「私が思うに、誰かのために音楽を作ることで私たち全員の中に自然にそなわっているものが刺激される」2020年にコリアはJazz Times誌にこう語っている。「誰もが持っている、生まれながらの感覚。プロになる必要はない――ただ1人の人間として生きて、想像力が働くままに心を解放するだけでいい」

From Rolling Stone US.



最新作
チック・コリア『プレイズ』
https://jazz.lnk.to/ChickCorea_Plays


第63回グラミー賞ノミネート作品
チック・コリア・トリオ『トリロジー2』
https://jazz.lnk.to/ChickCorea_Trilogy2

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