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岡林信康とともにフォークの神様と呼ばれた当時を振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年3月12日 16時20分

岡林信康

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年3月の特集は、岡林信康特集。第2週は、URC時代からCBSソニー時代の岡林信康についての話を本人へのインタビューとともにお送りする。

復活の朝 / 岡林信康

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、岡林信康さんの「復活の朝」。2021年3月3日に発売の23年ぶりの新作アルバム『復活の朝』のタイトル曲。今日の前テーマ曲はこの曲です。

関連記事:岡林信康とともに紐解く、コロナ禍で生まれた23年ぶりのアルバム

2021年3月の特集は「岡林信康」。1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。日本語のフォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在となった方です。彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」。1960年代終わりから1970年代にかけての激動の政治の時代を象徴する人ですが、本人の意識や意図とは別に祭り上げられてしまった面の方が大きかったかもしれません。1970年代の初め、岡林さんは東京を引き払って京都の山村に移住するんです。今も音楽活動と農作業を並行しております。1980年代には新しいポップスを目指し、1990年代には日本の伝統音楽と取り組んだ。まさに孤高の軌跡です。彼は何を求めて、何と戦って、どう自分自身であろうとしたのか? 今月は5週にわたって本人のインタビューを交えてお送りしようと思っています。


田家:今週は第2回、1969年に発足したURCレコード、その後に移籍した1973年からのCBSソニー時代。アルバムで言うと、『わたしを断罪せよ』、『見るまえに跳べ』、『俺ら いちぬけた』がURCでの3枚、CBSソニーでは、『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』の2枚です。先週の話は、ビクターからのデビュー曲「友よ」で終わっておりました。続きからお聴きいただきます。曲はURCでの1枚目のアルバム『わたしを断罪せよ』の中の「友よ」をお聴きください。

(インタビュー)

田家:先週は「友よ」の話で終わっているんですが、この曲には色々な思い出がおありになるでしょうね。

岡林信康(以下、岡林):あの歌ほど色々な解釈や味わいをされたことはなくて。それはある意味で歌の理想だと思う。学生運動のデモ行進の行進曲になったり、北海道のある駐屯地では隊員の愛唱歌になっていた。右と左の人があの歌を好きになってくれたし、かたや政治に興味のない若い人たちがキャンプファイヤーを囲んで歌ったり。

田家:青春の歌ですね。

岡林:俺は歌ってそういうもんやと思うし、その人なりの自由な感受性で味わって歌ってもらえたらいいと思うんだけど。でも、あんたはどちら側の人間なんだ? って言われたりして嫌になってきて、あの歌をずっと歌わなかったのよ。それとあの歌は、夜明けが来て新しい朝が始まれば、すべての問題は解決してバラ色になるという幻想がある気がして。でも、そうじゃなくて夜が明けても黄昏は来て、また夜になる。朝はまた来る。それを何回も繰り返すのが人生という旅だ、という気持ちもあったので。今回のアルバムに収録されている「友よ、この旅を」は、「友よ」の補足というか。

田家:アンサーソングのようなものなんですね。

岡林:ある人が「岡林さん、今回の『友よ、この旅を』で昔の『友よ』を成仏させましたね」と言っていて。良い言い方だと思って、使わせてもらおうかと。



(スタジオ)

田家:1969年に発売のURCでの1枚目のアルバム『わたしを断罪せよ』の中の「友よ」です。僕自身、健康的な明るい歌を歌えるような状況ではなかったと言っていましたが、そういう時代がありました。そんな希望的な歌を歌える世の中ではなかった。夜明けというのは1日の時間の流れでは必ず来るものですが、もっと色々な意味で使われた。”日本の夜明け”や”世の中の夜明け”みたいな意味ですね。岡林さんがこの曲で「夜明けが近い」と歌ったことで、幻想を振りまいている。そんなに状況は楽観的ではない、簡単に「夜明け」なんか来ないんだ、と批判されたんですね。本人には何の罪もないんですが、そういう時代だったんです。今回の新作アルバム『復活の朝』には、続編のような「友よ、この旅を」が入っていて、「友よ」を成仏させたと。どう成仏させたのかは、アルバムをお楽しみください。

田家:岡林さんは実家が教会で、大学は同志社大学の神学科。高石友也さんと出会って、自分で歌を歌うようになりました。その頃の話も訊いております。お聴きいただく曲は、はっぴいえんどがバックバンドを務めたアルバム『見るまえに跳べ』から「今日をこえて」です。

(インタビュー)

田家:そもそもの音楽との出会いが高石友也さんがきっかけなわけでしょう。当時の出来事をどう振り返っていますか?

岡林:何か一つが違ってたら全く違った人生があったんやろうなあ、という感じやな。綱渡りみたいな。よく五体満足でここまで来たなと(笑)。たまたま牧師の息子で、後を継ぐために大学も行ったんだけどどうもわからなくなって。ある神学校の先生に会うために東京に行ったんだけど、その人がアメリカに行っていていなかったのよ。それで姉のアパートに転がり込んでたら、姉が通ってるキリスト教会に山谷の牧師さんが来て、大変面白い話をしたと言っていて。で、その牧師さんに会いに山谷に行ったわけね。牧師さんは「ああだこうだ言ってないで、お前も働け。そうしたら何か分かるかもわからん」と。そこから山谷との関わりができたんだけどね。高石ともやは立教大学の学生で、大阪の釜ヶ崎という山谷と似たような場所にいたという話を聞いて。……おかしいよな。俺は同志社大学で山谷で、彼は立教大学で釜ヶ崎で。それで彼の歌を聞かなくちゃいけないような気がして聞いたのよ。自分で歌を作って気持ちをぶつけるというのは、気持ちええだろうなと始めたのね。

田家:気持ちいいだろうな、というのが先だったんですね。

岡林:もし東京の神学校の先生がアメリカに行っていなくて会えていたら、どうなっていんだろうなと。

田家:山谷にも行かなかったでしょうし、高石友也さんにも……。

岡林:高石にも興味持たなかっただろうしね。そういう色々考えると、ちょっと怖くなるな。綱渡りしてきたようなね。

田家:その時はフォークソングをやろうとは思わなかったという。

岡林:全然なくて。俺と似たような変な経歴で歌を作ってる人がいるって言うから、面白いなと思って。それで俺もやろうと思ったのは、すごいよなあ(笑)。



(スタジオ)

田家:URCからの2枚目のアルバム『見るまえに跳べ』から「今日をこえて」。『わたしを断罪せよ』にも収録されているんですが、こちらの方はバックバンドをはっぴいえんどが務めております。URCというのはアンダーグラウンド・レコード・クラブの略称で、自主制作のレーベルでインディーズの走りです。そのきっかけになったのは、岡林さんの「がいこつの唄」、「くそくらえ節」というシングル盤がビクターから出せなかったことなんですね。フォーククルセダーズの『イムジン河』も発売中止になって、自分たちのレーベルを作って、商業主義では紹介できない歌を世の中に送り出すんだ、ということで、高石音楽事務所が中心になって始めたレーベルです。きっかけが岡林さんとフォークルだったわけで、まさに1970年代のフォーク・ロックの歴史の第一歩そのものとなった人です。

田家:次は、インタビューに続いて「自由への長い旅」をお聴きください。

(インタビュー)

田家:これも一つの出会いの不思議ということでいうと、はっぴいえんどとの出会いがありますよね。

岡林:そうだね、俺はずっと弾き語りをやってて、ボブ・ディランなんかのことを知って、彼の「ライク・ア・ローリング・ストーン」に痺れまくって。俺も弾き語りというのにある種の行き詰まりも考えていたので、ロックをやりたいなあと思って。当時は関西に住んでいたけど、関西にいいバンドがなかった。皆グループサウンズの延長みたいな。それで、東京にはとてもいいバンドがあるということを知って、はっぴいえんどを知って、僕も東京に移り住んで彼らとやり出したわけです。

田家:はっぴいえんどと出会うのと岡林さんが東京に移るのは、ほとんど一緒の時期なんですね。はっぴいえんどと会わなかったらどうなっていただろう、と考えたりもしますか?

岡林:はっぴいえんどというよりも、ロックをやらなかったらどうなってただろうというのはあるね。はっぴいえんどとやり始めた頃は、はっきり言って本当にウケなかったのよ。東京ではウケ出してたんだけど、東京以外は散々なもので。それとね、岡林の弾き語りならコンサート主催したいけど、ロックはいらないっていうことを言われたりもして、コンサートやってくれる人がいなくなったのよ。だから、はっぴいえんどとコンサートをやった数は本当に少ない。弾き語りの時は年に100本近くやってたんだけど、はっぴいえんどとは15本とか20本くらいで終わったんちゃう? それで毎晩新宿のゴールデン街で飲んだくれるわけだが、こんなことしてたら死んじゃうかなと思って。それが田舎に引っ込むという原因の一つだね。はっぴいえんどとのライブがウケなかった。後になってから、彼らは売れていったのよ。

田家:確かに。当時のはっぴいえんどは知る人もいないくらいでしたもんね。

岡林:今考えたら、1960年代末にはっぴいえんどはああいうサウンドでアルバム作ってたってすごいな。10年ぐらい時代の先行ってたんちゃう?

田家:岡林さんははっぴいえんどの演奏で歌っていて、自分の歌が違って聞こえたり、気分がそれまでと変わったりしました?

岡林:歌い方で言えば、メロディを丹念に追うという歌い方ではなくて、シャウトしてしまう。これがロックか! って思ったね。でも残念なのが、PAは今ほど良くないしアンプもスピーカーも良くないから、茂(鈴木茂)のギターがやたらうるさいなとか、大滝のリズムギター下手くそだなとか思って(笑)。ちゃんとした音響システムでやれば良かったと思うんだけど、もう怒鳴るしかないというか。今のような音響システムで彼らとやってみたかったなあ。



(スタジオ)

田家:1970年にURCから発売された2枚目のアルバム『見るまえに跳べ』から「自由への長い旅」。バックははっぴいえんど、ピアノははちみつぱいの渡辺勝さんですね。後世語られる歴史と現実がどうだったかの間には、多々違いがあったりします。はっぴいえんどは確かに歴史を変えたのですが、当時はほとんどウケなかったという事実は、やはり当事者にしか語れないことでもありますね。岡林さんも弾き語りの時は年に100本近くライブをやっていたけど、はっぴいえんどとやったら途端に数が減った。こういう現実もありました。これは、ボブ・ディランがロックバンド編成でエレキギターを持ってフォークのコンサートに出た時に、当時のフォークファンから帰れコールがあったのと同じことでしょうね。

田家:続いては岡林さんに「フォークの神様」と呼ばれていた時のことをどう思っているのか、伺っております。曲は、アルバム『見るまえに跳べ』から「私たちの望むものは」。

(インタビュー)

田家:岡林さんと言えば、いまだにキャッチフレーズ「フォークの神様」がついていますが、そう呼ばれ始めたときのことはどう思われますか?

岡林:誰が言い出したんだっていうね(笑)。あのね、フォークの神様だからロックをやっちゃいけないんですよ。まして、演歌なんてとんでもないんですよ。そこが窮屈というか、なんか狭い檻に閉じ込められた嫌な重苦しいものは感じたな。

田家:半分は弾き語りの神様みたいな意味だったんでしょうね。

岡林:歌の神様って言ってくれるんならええよ。フォークだとそこに限定されるから。

田家:でも、松本隆さんがはっぴいえんどで岡林さんのバックバンドをやっている時に、「私たちの望むものは」を歌っている時の岡林さんを神だと思ったことがあるよ、と言っていましたよ。

岡林:(笑) 。というより、トランス状態に入っている人を見たんちゃうんかな。そういう瞬間は何回かあった。トランス状態に入ってしまって。



田家:「私たちの望むものは」は、どういう状況で書いたか覚えてますか?

岡林:あれはフランスの五月革命かな? あの時の手記のようなものが出版されたんよな。

田家:壁の落書きが本になりましたね。

岡林:その時に「私たちが望むものは」というフレーズがあったのよ。そこに触発されて、俺も自分たちが望むものは? ということで書いてね。ある人から、なんで私たちなんだ、私じゃねえのかって言われてね。歌の中に私たちが望むものは、決して私たちではなく私であり続けることだって書いてるのよ。それを読まんと言うから、頭にくるわけね。

(スタジオ)

田家:『見るまえに跳べ』から「私たちの望むものは」。当時の僕らには、あたかも聖書の一節のように聴こえたのは確かです。学生運動のアジテーションなどでも、”我々は~”と皆言っていました。岡林さんが今も昔も他のアーティストに比べて唯一無比なものは生き方でしょうね。色々な音楽をやってきましたが、そこに生き方という太い幹があって、脈々と流れているものがある。時代とどう向き合ったか? どう向き合わざるを得なかったか? 政治の時代というのは1970年代のはじめに潮が引くように消えてしまいました。学生運動は、学生側の停滞、敗北で終わったわけで。岡林さんはそこに巻き込まれたと言っていいでしょう。若者たちが自分たちの思うようにならない鬱憤を岡林さんにぶつけた、という面もありました。その中で、彼は東京を引き払ってしまうんです。それが、1971年の3枚目のアルバム『俺ら いちぬけた』です。

田家:続いて、当時のことも伺っております。次にお聴きいただく曲は、そのアルバムから「申し訳ないが気分がいい」。

(インタビュー)

田家:なかなかあの時代を知らない人に説明しにくいところがあるんですけど、1960年代の終わりと1970年代の鬱屈とした挫折感のようなものの捌け口に岡林さんがなった場面はありましたもんね。

岡林:そういう重圧感も感じたから、あそこで一旦やめて田舎に引っ込むしかなかった。あのまま続けてたら死んでたと思うよ。

田家:引っ込むって決めた時は、何か清々しいものがあったりしましたか? それとも悲壮感みたいな。

岡林:それはそうやね。清々したというか、全部背負っているものを捨てる、これでもう2度と歌えなくなってもいいし、人気がなくなってもいいしって。ある種の清々しい気持ち。次に俺がやることを見つけられたという喜び。田舎に行って田植え稲刈りの生活をとりあえずやってみるんだ、それで何が見えてくるのかというのも楽しみだし。だから、変な悲壮感みたいなものはなかったな。次に行けるんだっていう気持ち。

田家:京都の綾部という場所はどうやって見つけたんですか?

岡林:色々な役場に行って、離散した人で田んぼや畑を売ってくれる人いませんかって訊いてまわったのよ。和歌山も行ったし、岐阜も行ったし。中津川にも住んだんだけど、結局そこは畑田んぼを譲ってくれる人がいなかったのよ。それでもっと辺鄙なところに行ったらあるんじゃねえかってことで綾部の市役所に行ったら、たまたま俺の村に田んぼも畑も売りたがってる人いるよっておっさんがいたのよ。住んでみたら、冬は雪が積もって身動きできないし、エライところに来たなあって思って(笑)。



(スタジオ)

田家:次のインタビューは、CBSソニーから出た復活アルバム『金色のライオン』。プロデュースが、はっぴいえんどを解散して作詞家になる前の松本隆さんなんです。お聴きいただくのはアルバムの中の「26ばんめの秋」です。

(インタビュー)


岡林信康

田家:『金色のライオン』の松本隆さんをプロデューサーに、というのは岡林さんの希望だったんですか?

岡林:そうやね。2年くらい歌を書かずにいたんだけど、なんとなく歌ができてきて。それを当時のURCレコードの生き残りの高木くんが松本くんを連れてきてくれたのかな。俺はあの時に歌が一曲できてて、タイトルがつけられなくて困ってるんだって言って歌ったら、松本くんが一回聴いただけで「それは"26ばんめの秋"だ」って言ったの。

田家:それが「26ばんめの秋」なんですね。

岡林:俺はその時にね、正直言うとジェラシーを感じた。こいつすごいな、と。俺がどう考えてもタイトルつかなかったのに、一回聴いただけで"26ばんめの秋"ってすごいタイトルよ。あれ以外のタイトルは考えられないもん。こいつひょっとしたら天才ちゃうかな、ってジェラシー感じてね。そいつがその後、芸能界のど真ん中に突っ込んでいってヒットメイカーになったっていうのは、あいつの才能からしたらどうってことないなと思ってる。

田家:「26ばんめの秋」ができた時は、アルバムは完成していたんですか?

岡林:まだ完成してない。2、3曲できてたくらいかな。それで松本隆のプロデュースが決まって、じゃあ俺も頑張って曲作るからアルバム作ろうやって言ってね。2年ほどブランクがあった気がするんだけど、そこからなんだかんだバーっと歌を書いた気がするね。



田家:これは松本さんの記憶なんですが、『誰ぞこの子に愛の手を』を出した後に岡林さんが松本さんの住んでいた、たまプラーザに行かれて、松本さんのところに電話したんですって。駅にいるって言うから、松本さんがそこまで来たならうちにおいでよって言ったら、俺はこれから演歌に行くから松本には会えない、と言ってお帰りになったと。

岡林:あのね、俺が『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に突如演歌をやりたくなったやんか。松本くんのところに遊びに行った時には、「月の夜汽車」っていう曲だけ出来ていたのよ。俺が演歌やったら、松本は猛反対するやろと思っていたし、クソ味噌に言うんじゃないかと思って歌ったら、あいつがサイコーだって言ったのよ。それでびっくりして、松本プロデュースでソニーから演歌アルバム出そうかっていう話になりかけていたんだけど、その時に俺はひばりさんと出会ってしまったのよ。交流もできて、演歌をやるなら日本コロンビアしょって言われた。松本の家の近くまで行ったんだけど、俺はそれを松本に言えなくて帰った。それを電話で言うたかもわからんな。

田家:なるほどね。

岡林:プロデュースして欲しかったけど、俺はコロンビアに行くから無理だと。会うと未練が出てくるから、俺はこのまま帰るよって言ったと思う。

田家:なるほど。この話の続きはまた来週しましょう。

(スタジオ)

田家:岡林さんが京都の綾部に引っ込んで、畑仕事をするようになって生活環境も変わり、聴く音楽も変わって、こういう音楽が好きな自分もいると思って演歌をやることになるんです。「月の夜汽車」は、美空ひばりさんが歌ってシングルにもなります。松本隆さんのこの話は、私が松本隆さんの50周年の企画の連載の取材で聞きました。そういうことだったんだな、というのを今日初めて知りました。1975年、岡林信康はCBSソニーで2枚目のアルバム『誰ぞこの子に愛の手を』を作った後に、日本コロンビアに移籍して演歌をやるようになります。この話はまた来週。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」岡林信康特集Part2 URC、CBSソニー編、1969年のアルバム『わたしを断罪せよ』から、1975年のアルバム『誰ぞこの子に愛の手を』までの時代をたどってみました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1969年から1975年の6年間、この頃は1年が10年分くらいに感じられたとても激しい変化の時代でしたね。政治の季節が終わって、音楽の時代になっていくわけです。フォークやロックがアマチュアの手を離れて、商業化していく時代でもありました。そして、アマチュア時代の政治的なメッセージや社会的なことを歌うフォークが好きだったフォークファンの矢面に、岡林さんが立たされたんですね。裏切ったとか逃げたとか叩かれて、田舎に引っ込んでしまいました。

1971年の日比谷野音で行われた「狂い咲き」の3枚組ライブアルバムがありますが、これがほぼ最後のライブになります。でも、1973年に『金色のライオン』を出した後に東京・晴海国際貿易センター新館でオールナイトライブをやっているんですが、これも2枚組ライブアルバムになっています。1973年12月31日に行われたもので、アルバム『金色のライオン』のドラムは松本さんですが、このライブでも松本隆さんドラム・細野晴臣さんベース。このライブは、「狂い咲き」をしのぐ傑作だと僕は思ってます。機会があったら聞いてみてください。次回は、フォークの神様が演歌になった話です。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
OFFICIAL Facebook : @FMCOCOLO
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→cocolo.jp/i/radiko

<リリース情報>



岡林信康
アルバム『復活の朝』

発売日:2021年3月3日(水)
価格:3000円(税抜)
=収録曲=
1. 復活の朝
2. 蝉しぐれ今は消え
3. コロナで会えなくなってから
4. 恋と愛のセレナーデ
5. お坊ちゃまブルース
6. アドルフ
7. BAD JOKE
8. 冬色の調べ
9. 友よ、この旅を

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