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北欧ブラックメタル「血塗られた名盤」 メイヘムのメンバーが明かす壮絶な制作秘話

Rolling Stone Japan / 2021年4月10日 10時30分

メイヘム(Courtesy of Ecstatic Peace Library © Jørn "Necrobutcher" Stubberud)

映画『ロード・オブ・カオス』の日本上映がスタートし、メイヘムと北欧ブラックメタルの黒歴史が再び注目を集めている。放火、殺人、自殺……狂乱の日々を過ごしながら、メンバーはどんなことを考えていたのか。その後のブラックメタルに決定的影響を与えた、1994年の1stアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』(邦題:狂魔密儀)が完成するまでの道のりを振り返る。(※US版記事初出:2017年2月9日)

※以下の記事にはグロテスクな表現が含まれています。

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「俺たちは大嫌いな愛と優しさを謳う音楽に拒絶された」と、ヤン・アクセル・ブロンベルクが言う。彼はノルウェーにおけるブラックメタルのパイオニア的バンド、メイヘムのドラマーで、ヘルハマーのステージネームでよく知られている。「作りたかったのは、そういう音楽とは完全に対局のものだったのさ」と彼は続ける。

ヴォーカルのアッティラ・シハーは強いハンガリー語訛りの英語で次のように言う。「人生には良いこともたくさんあると思う。毎朝太陽が上るし、陽の光は美しいし、自然もあるし、家族もいる。でも、今現在、世界で起きていることに目を向けると……俺たちは戦争と人民を操作する政府だらけの精神病院みたいな場所で暮らしているのさ。だから、その暗闇を理解して受け入れることが俺の人生ってわけだ」

20年以上前のことだ。メイヘムは当時、ヘルハマー、シハー、そして当時のバンドメンバーの心に響く漠然とした不安を放射するようなアルバムをリリースした。これが『De Mysteriis Dom Sathanas』で、オリジナルタイトルは「神サタンの秘密の儀式」といった意味だ。この作品の中で歌われる歌詞は、巨大化する暗闇、底なしの悪の巣窟、異教への恐怖、自らの破滅を語るために帰還する死に損ない等など。(エドガー・アラン・)ポーをサイドディッシュにした(ブラム・)ストーカー的な世界観で、激しく喚くゴシックギターと断末魔のようなドラム、独自の音風景の最前線で、シハーの怒鳴り声、唸り声、オペラチックな歌声というアバンギャルドなヴォーカルコンボが歌詞を吐き出す。このアルバムが一つの世代の過激な音楽の雛形となり、不満を抱えた大勢のヘッドバンガーたちが黒い衣装に身を包みはじめ、文字通りサタンを称賛し始めた。しかし、ここで忘れていけないことは、そんな神話的存在のこのバンドが、当時一度もツアーをできなかった事実である。



1993年8月、同アルバムの発売を予定されていた頃、メイヘムの当時のベーシスト、ヴァルグ・ヴィーケネス(当時はカウント・グリシュナックと言っていた)が、バンドメンバーのギタリスト、オイスタイン・オーシェト(ステージネームはユーロニモス)を23回も刺して殺すという残忍な殺人事件を起こした。ヴィーケネス曰く、原因は契約上のいざこざ。この殺人事件によって事実上バンドは終焉を迎えた。短期間の間に続けざまにブラックメタル・バンドが起こしたノルウェー国内の複数の教会への放火および無関係な殺人事件の報道と相まって、ブラックメタルはギャングスタ・ラップ以後、最も危険な音楽ジャンルという地位を獲得した。ヘルハマーが1994年春にやっと同アルバムのリリースに漕ぎ着いた頃には、メイヘムのメンバーで残っていたのは彼だけになっていた。メイヘムは90年代半ばにメンバーを替えて再結成し、現在ではライブで『De Mysteriis Dom Sathanas』を演奏できるラインナップで、血塗られた過去と音楽を分離している。



メイヘムはこのアルバムの楽曲をライブ演奏するワールドツアーを2015年に開始し、ライブ録音盤『De Mysteriis Dom Sathanas Alive』をリリースした。これはノルヒェーピングで行われたスウェーデンのブラック・クリスマス・フェスティバルでの音源で、同アルバム収録全曲の初ライブ演奏が記録されたのだった。

現在(2017年当時)、彼らは北米ツアーの最中で同アルバムの曲だけを演奏している。法衣風の衣装に身を包んだギタリストのテロックとグール、オリジナル・ベーシストのネクロブッチャー、その中でひと際目立つ腐った肉体の生ける屍のような病的な衣装のボーカリスト、シハーが、壮大でシアトリカルなステージを披露する。この異世界のような体験にシハーは鳥肌が立つ。特に自分がこのステージに立つまでの道程を振り返ったときに。

1991年4月、ヴォーカリストが自殺

80年代のほとんどをバンドのサウンド向上に費やし、度重なるメンバーチェンジを繰り返したメイヘムは、90年代に入ると自分たちらしい確固たるグルーヴにたどり着き、メンバーも安定する。当時はボーカリストのデッド(本名:ペル・イングヴェ・オリーン)、ユーロニモス、ネクロブッチャー(ヨルン・ストゥッベルト)、ヘルハマーというラインナップだった。このメンバーに固定する以前、彼らはデスメタル寄りのEP『Deathcrush』(邦題:破滅死)をリリースしており、1991年にはデビュー・フルアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』の試聴盤をメタル系メディアに発送していた。「究極の事件が起きない限り、もうこれ以上遅らせることはない」と、当時ユーロニモスはSlayer Magazineに話しており、まだ3曲を追加で作っている最中とも明かしていた。ユーロニモスが言うリリースを遅らせるに足りる”究極の事件”とは「例えばヘルハマーがまた失踪するとか、デッドがギグで深く切りすぎたとか、俺がアルバニアでパスポートを失くしたとか」だった。

このとき、ユーロニモスはヨーロッパ本土での直近のツアーを念頭に置いて発言したのだが、ヘルハマーはこのツアーが耐え難いほど辛かったと記憶している。「本当にひどかった。実際、俺の人生で最悪の経験があれだ」とヘルハマー。彼らはバスではなく、機材を列車に積んで、ヨーロッパ大陸に広がる頑丈な鉄道網を使って移動することにした。ヘルハマーはお金を盗まれたこと、夜に宿がなかったことなどを今でも覚えている。トルコではライブ会場に機関銃を抱えた警察が突撃してきて彼らを抑え込んだ。「あんなことは二度とできないよ」とヘルハマー。

ステージでは別の種類の恐怖が起きていた。デッドの顔には白黒の化粧が施されており、この死を想起させる見た目は「死体ペイント」として知られるようになった。そして、デッドが衣装を土に埋めて死のアロマを漂わせていたというのが通説だった。「ステージには棒に突き刺した豚の頭部があったし、俺は奇妙なナイフで自分の腕を切り、コーラの瓶を割っていた」と、書籍『Metalion: The Slayer Mag Diaries』に収録されているSlayer Magazineのインタビューで、ある夜のギグについて語っている。「そこにはチェーンソーもある予定だったが、楽屋に取りに行ったら会場のオーナーが帰ったあとだった。おかげで残忍さが足りなかったね」



そんな状況でもお構いなしに、メイヘムはこのツアー中に新曲の試運転の機会も得た。1990年にドイツで録音されたライヴ・アルバム『Live in Leipzig』には、のちに1stアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』に収録された4曲を、デッドがライブで歌っているパフォーマンスが収められている。しかし、それが彼の運命だったのか、デッドがスタジオで歌った曲は1曲だけだった。1991年4月、彼は手首と喉を切り裂いたあと、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺した。遺書の最初の一文は「血で汚してすまない」だった。

ユーロニモスは当局を呼ぶ前にデッドの写真を撮影し、これがネクロブッチャーのトラウマとなり、バンドを脱退した。ネクロブッチャーが抜けたあとを埋めるためにユーロニモスはヴィーケネスを呼んだ。それまでの彼はユーロニモスのデスライク・サイレンス・プロダクションズのレコード・レーベルに所属していたワンマンバンド、バーズムとして、ブラックメタルのアルバムを複数枚レコーディングしていた。

サウンドを刷新した二人のメンバー

同じく1991年、ユーロニモスはハンガリー在住のデッドのお気に入りシンガー、シハーにタイプで打った手紙を送った。その手紙には彼が手紙を書こうと思った動機が2つ書かれていた。一つは80年代半ばにシハーがトラッシーなブラックメタル・グループ、トーメンターで録音したアルバム『Anno Domini』をリリースする機会があること。もう一つはデッドが書いた歌詞をスタジオでパフォーマンスしてほしいこと。「彼らは俺の曲を気に入ってくれたし、最高だったよ」とシハーが言う。

シハーがブダペストでトーメンターを結成したのは1985年。当時はまだ共産主義国だったかの地に、彼の友人が密輸したメタルバンドのテープに触発されたのだった。ブラックメタルというジャンル名は、気骨と面白さが同居するヴェノムの1982年のトラッシュ・アルバム『Black Metal』から来ている。このアルバム以降、セルティック・フォロストやバソリーといったグループが、このジャンルに拳で殴打するような暴力性と、クラシック音楽に触発された邪悪なクオリティを加えていった。トーメンターが取り入れたのは華美に装飾が施された段階のブラックメタルと不気味な雰囲気で、これが顕著に現れているのが「Elizabeth Bathory」という曲だ。この曲は処女の血の風呂を浴びていたハンガリー王国の伯爵夫人バートリ・エルジェーベトを歌っている。当時の彼らは700〜1500人の観客の前で演奏していて、シハー曰く「メイヘムと同じくらいの観客数だった」。しかし、ユーロニモスがシハーに手紙を書いた頃にはメタルから卒業して、プラズマ・プールというグループでEBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)やインダストリアル・ミュージックに傾倒していた。



シハーは『Deathcrush』を聞いた。彼に言わせると「あれは『うん、いいね』って感じだった」らしいが、初期段階の『De Mysteriis Dom Sathanas』の楽曲を聞いた時点ではプラズマ・プールと仕事をすることになっていた。「俺は『なんだよ、これ、最高じゃないか』って思った。新しい音楽が生まれるって分かったね。未来を予見した音だった。モダンで、相当ダークで、クールだった」とシハー。ちなみに、プラズマ・プールはその後1年半、活動がなかった。

『De Mysteriis Dom Sathanas』の新しさの一部は、ソーンズ(Thorns)というバンドを率いたノルウェー人ギタリスト、ブラックソーンことSnorre Ruchとの音楽実験に起因していた。ノルウェーのブラックメタル・シーンにとってブラックソーンの存在は非常に大きい。彼こそがチャンキーなチャグコードに、ルーズでダークなサウンドという、スラッシュメタル/デスメタルのギタースタイルを最初に始めたのだ。「俺はクラシックのオーケストラを聞いていて、この音楽にときどき出てくる音調の進行にドラマとペーソスが詰まっていると思ったのさ。マイナーコードで試してみて、のちにユーロニモスから教えてもらった高速ピッキングを加えてみた。このおかげで不協和音のコードも音調の進行も増えたんだ」とブラックソーンが説明する。



「ユーロニモスはそういうプレイにとてもインスパイアされた。というのも、1988年に彼と一緒にツアーしたとき、ギター間のそういう衝突が気に入っていたんだ」とヘルハマーが言う。「ユーロニモスはソーンに夢中になり、ブラックソーンと出会ったときに大きく変化したんだ。アプローチもスタイルも激変したね」

ブラックソーンは3カ月ほどメイヘムのメンバーだった。これはユーロニモスが『De Mysteriis Dom Sathanas』でブラックソーンのギターをレコーディングした少しあとのことだったが、それ以前に彼の影響は広がっていたのである。「ソーンズは完全に休止状態になり、ユーロニモスと俺が互いのバンドでセカンドギターをプレイするということがしばらく続いた。でも、それが俺のサウンドをメイヘムに融合させる方向に発展したから、ソーンズをキャンセルするに至った。メイヘムは『上手く行っているバンド』で、ソーンズはそうじゃなかったから、メイヘムの方が面白いと思ったわけだ」とブラックソーン。ソーンズのデモテープ『Grymyrk』に入っていたインストのリード曲「Lovely Children」からのリフ2つが、メイヘムの「From the Darkest Past」に援用されているが、「数カ月後、メイヘムの内部ケミストリーが最悪になってしまい、俺はもう居る気が失せたね」とブラックソーンは振り返る。



自殺したデッドのダークすぎる歌詞

『De Mysteriis Dom Sathanas』におけるブラックソーンの一番の貢献は、デッドの歌詞の編集だった。当時を振り返って「デッドは歌詞をいくつか書いていて、4曲分のヴォーカルも録っていたし、歌詞やアイデアを書いたメモも遺していた。俺の仕事は彼が遺したものをヴォーカルアレンジがまだの新しい楽曲の中で活かすことだった。できるだけそのまま残すように努力した。大変だったのは、尺の長い楽曲に短めの歌詞をフィットさせることだったよ。どうやったかは覚えていないけど、デッドの歌詞が良いと思ったのは覚えている」と語る。

ヘルハマーは「デッドは暗い性格だった。だから彼の歌詞もかなり身の毛がよだつし、ダークで、不気味だった。彼の性格が反映されていたよ。結局、彼は自殺したわけだ」と言って笑い、「つまり、それほどってこと」と締める。

Slayer Magazineのインタビューでデッドが、『De Mysteriis Dom Sathanas』の収録曲「Funeral Fog」「Freezing Moon」「Buried by Time and Dust」「Pagan Fears」を作ったとき、彼の感じたことを反映したと説明している。「『Funeral Fog』の説明をすると、これはカルパチア山脈の中腹にある伝説的な沼沢地シューロック・ベイシンのことで、ここには恐ろしい迷信がたくさんあって、奇妙な生き物がこの場所を呪っていると信じられていた。満月に照らされた濃霧から想像し始めた。この霧は地面から立ち上っていて、静寂の中で悲しげに漂っている。そして地元の人々の命を消滅させ、彼らの魂を神サタンに捧げるんだ」と。

この投稿をInstagramで見る Mayhem Official(@thetruemayhem)がシェアした投稿 生前のデッドの写真

「Pagan Fears」は「過去は死なないが一部が色あせた現実の中に残る」という考えを描いており、タイトルトラックはある本から得た「尋常じゃない悪魔の集会」のことだと説明した。彼がこの本を読んでいないのは明白で、自分でも書き直したいと言っていた。「この歌詞はまだ悪魔レベルが低いし、悪魔の強大なパワーを表現していない」とまで言っている。Slayer Magazineの他のインタビューでは、「メインストリームの意気地なしクソ野郎」が見つける前にこの本を見つける必要があると言っていた。「独自の調査をやって世界中で探すつもりだ。あの本は本当にダークで、死よりもダークなんだよ」と。

今、その本についてたずねるとヘルハマーは笑って「最新の『死霊のはらわた』を観たか? あれにあの本が出ていたんだぜ」と言った。サム・ライミ監督が最近リブートしたフランチャイズ系ホラー映画で、悪魔を召喚するネクロノミコンを見つけた不運な男のストーリーだ。「デッドはこれと同じようなネクロノミコンに関する歌詞を書いていた。人間の肉体に入り、血液に書き込まれる。彼は確実にこの本の存在を知っていたと思うよ」と言ったヘルハマーは、そのあとにこの本はトロンヘイムのニーダル大聖堂の地下に埋葬されるはずだったと冗談を飛ばす。この大聖堂は『De Mysteriis Dom Sathanas』のジャケットの教会だ(実際は、一時ノルウェーの王だった聖人オーラヴの墓の上に11世紀に建てられた大聖堂である)。

『De Mysteriis Dom Sathanas』収録曲で、デッドが歌詞を書いていない曲が「Cursed in Eternity」だ。これは『Deathcrush』時代の歌詞を書いていたネクロブッチャーが歌詞を担当している。「あの頃、俺は読書にハマっていて、儀式を行うシャーマンについての本の中にあったシャーマンが唱える言葉を読んだ。これは呪いの言葉だったよ」とヘルハマー。そこでその本が何かたずねると、急に話題を変えるように「あのな、教えるつもりはないんだよ。リスナーの想像力を狭めたくないから。どこからアイデアを得たのかをあんたに教えただけで暴露しすぎなくらいだぜ」と言い放つ。

同アルバムの楽曲の多くが作曲にユーロニモスをクレジットしているが、このアルバムのアートワークにユーロニモスとヘルハマーの写真しか使われていないこともあり(ヘルハマー曰く「アッティラの写真を持っていなかったから」)、リリース後にメンバーは誰が何を作ったのかを説明することになった。ネクロブッチャーが作ったのが「Freezing Moon」「Pagan Fears」「From the Dark Past」で、彼とヘルハマーがリフを作ったのが「Buried by Time and Dust」。「この曲ではヴァルグがベースで面白いプレイをして、これがユーロニモスをインスパイアしたんだ」とヘルハマーが付け加えて、「当時の俺たちは著作権や印税、ビジネスの仕方に無知だったから、ユーロニモスの名前だけクレジットしたんだと思う。今だったら曲作りの分け前は違っていたはずだ」と説明する。



1992年から1993年にかけて行われたセッションで、ユーロニモス、ヴィーケネス、ヘルハマーからなるメイヘムは、ベルゲンにあるグリーグホールに集結し、ノルウェーのフィルハーモニック・オーケストラと一緒にレコーディングを行った。スタジオはこの建物の2〜3階上にあったが天井が低かったため、これでは自分のサウンドがミュートしてしまうと思った。そのため、ヘルハマーはメインホールに向かった。そこには5ピースのドラムキットが設置されており、彼はこのホールのサウンドをとても気に入ったのである。「(エンジニアの)ピッテンに『俺のドラムも下に移動したい』って言ったんだ」とヘルハマーが言う。当時彼はジャズの大ファンで、バディ・リッチにインスパイアされていた。「ピッテンは『はぁ、お前マジか?』と言ったから、俺は『ああ、マジだ』と答えたよ。それで彼は理解してくれて、二人でマイク用のケーブルをエレベーターの昇降路を経由してホールに出した」とヘルハマーが説明する。二人はろうそくを何本か灯し、ライトを落とした。そうやって『De Mysteriis Dom Sathanas』にメタル界で最もパワフルなドラムサウンドが加えられたのである。

アッティラ・シハーの実験的な歌唱スタイル

最終的に1993年になってバンドはシハーを呼び寄せ、彼は当時の妻と一緒にやってきた。ノルウェーはシハーには上流階級に見えたが、空港に迎えに来たメタルヘッドを見るやいなや、彼は驚いた。鎖帷子を着てヴィーケネスが登場したのだ。「オスロで少し遊んだ。あの頃、警察官はみんなの様子を監視していたし、みんな困窮していてサバイバルが大変だった。シーン自体は非常に小さくて、地下に埋もれていたよ」とシハー。バンドメンバーはシハーと宗教や政治に関する考え方を話し合ったが、シハーが興味を示したのはユーロニモスとヴィーケネスのレコードコレクションをダビングすることだった。

シハーが言うには、「あれはクールだったし、良い時代だった。それにかなりの緊張感もあった。みんな、炎を見てなぜか興奮していた。このアルバムは長い時間をかけて作られたもので、俺が最後に参加したわけだ。だから少しリハーサルを行ってからベルゲンに向かったんだ」ということらしい。

トーメンターでフロントマンを務めて以来、シハー自身が「ダーカーヴォイス」と呼ぶ、かなり実験的な歌唱スタイルを新たに生み出していた。彼はスキニー・パピーの音楽にどっぷりハマっていて、『Too Dark Park』『Last Rights』というアルバム2作品に夢中だった。そして、同グループのシンガー、ニヴェック・オーガのハスキーな怒鳴り声からインスピレーションを得ていた。また、カレント93のダークなバラッドの歌い方、ディアマンダ・ガラスの実験的な物悲しい歌声、クオーソンらのメタル・ヴォーカリストが大好きだった。クオーソンは初期のブラックメタルのパイオニアだったバソリーでフロントマンをしていた。一方でメジャーなシンガーだと、オジー・オズボーン、ロブ・ハルフォード、イアン・ギラン、デイヴ・バイロン(ユーライア・ヒープのフロントマン)なども好きだった。しかし、シハーの声帯が生み出す声は、ディープで生霊のような低いしわがれ声で、それが時としてヘヴィな喉歌スタイルに近づくのだった、この喉歌スタイルは彼が10代の頃に旅行したモンゴルで耳にした歌声で、このときは一緒に行った友だちとビールを飲んでから修道院に忍び込んだという。シハーの歌声は、デッドのストレートなアプローチの歌声とは全くの別物だった。

「シハーのヴォーカルは斬新で、完全に倒錯した奇妙なものだった」とヘルハマーが言う。「気味の悪い上にダイナミックだった。大好きにはならないけど、魅了されるには十分だ。彼が何をしているのか、異なる声で何を歌っているのかを理解するには時間が必要だが、彼の声が彩りを加えているんだよ」と。

この投稿をInstagramで見る Mayhem Official(@thetruemayhem)がシェアした投稿 アッティラ・シハーの近影

「一度このアルバムはかなり不快な悪臭を放つと言ったことがある。だってヴォーカルがすべてを台無しにしたから。でも、実は俺、ちゃんと聞いたのが『Freezing Moon』
だけだった。他の曲のヴォーカルは完璧だったよ」と、ヴィーケネスが2005年に語っている。「俺の耳はデッドの声に慣れていたし、ヤツの歌い方に慣れていた。だから変えたくなったのさ。アッティラは自分の『芸術としての品格』にこだわっていて、デッドと同じ歌声は望んでいなかったんだ」

シハーは他のメンバーが、自分にかなりの自由を与えてくれたことを覚えている。抽象的な意味でも、具体的な意味でも、自由度を与えることで彼らしいヴォーカルにしようとしたわけだ。彼が歌録りしたスタジオは窓のカーテンを閉めた真っ暗な状態で、数本のろうそくだけが光源だった。シハーはこれを漆黒の闇と呼ぶ。「歌いながら踊れるようにハンドマイクを持っていたし、この暗闇の中で好き勝手してもよかった。誰にも見えないから。真っ暗な部屋でトランス状態だった。人に見られたら取り繕ってしまうし、思う存分変身したかったから、他の誰にも見られたくなかったのさ。いつもと違う自分を出すことができた」と当時を振り返ってシハーが言う。

とは言っても、バンドメンバーも彼らの友人もリスニングルームにいたし、ブラックソーンは歌っている最中のシハーが「奇妙で、完全にイッちゃってる動きをしていた」のを覚えている。それを言葉で表してくれと頼んだら、彼は「海藻の飛行機」と言った。

「殺人犯」と「被害者」が並ぶレコード

レコーディングから少し経って、シハーはハンガリーに戻った。祖国ではあと1年で電気工学の学位を取得できたので、彼は大学の勉学を優先したのである。「試験がもうすぐで、この学期を落としたくなかった。俺の計画では次の学期を休んで、あとで戻るつもりだったんだ。ユーロニモスはツアーの計画があると言っていたし、俺も楽しみだったからさ」とシハー。

彼は連絡をずっと待っていたが、ユーロニモスからはずっと音沙汰がなかった。そして、ユーロニモスの友人から彼が殺害されたと教えられた。しかし、シハーは雑誌でその事件のことを読むまでガセネタだと思っていたのである。「『なんてこった。だからこの2週間、誰も電話にでなかったんだ』と納得したよ」と当時を思い出してシハーが言う。「マジで『常軌を逸している』と思った。

「それを聞いて俺の精神状態はどん底まで落ちた。そんなふうに知り合いを亡くすのは……ユーロニモスとは深いつながりではなかったけど、けっこうな期間、連絡を取り合っていたし、互いに気に入っていた。だから、友人を亡くすのと同じ感覚だったよ。それに加えて、最高のアルバムが完成しているのに、それを出せないとなった。当時、レコードをリリースするのは本当に難しくて、特に俺の場合はハンガリーの古い体制が陥落する直前の90年代初頭だったから。『10年間やってきて、やっとアルバムに参加して、やっとリリースできるはずだったのに』と悔しかった」

シハーの手元にあったのは、スタジオでラフミックスを施した5曲が入ったテープだけ。これはのちに数量限定版EP『Life Eternal』としてリリースされたが、シハーが完成版のアルバムを聞いたのはそれから1年以上経ってからで、それまでバントメンバーとは音信不通になっていた。

この投稿をInstagramで見る Mayhem Official(@thetruemayhem)がシェアした投稿 生前のユーロニモス(写真右)

その頃、ヘルハマーはノルウェーでバンドの立て直しに奔走していた。1994年、ヴィーケネスはユーロニモス殺害と教会への放火で懲役21年の判決を受けた。しかし、ヴィーケネスは教会の放火は無罪、ユーロニモス殺害は正当防衛と主張した。また、ヴィーケネスをユーロニモスの自宅まで車に乗せたブラックソーンは、殺人事件の共犯者として8年の実刑判決を受けた。この間、シハーの連絡先を知らなかったヘルハマーは彼に連絡できなかったのである。結局、バンドの唯一のオリジナルメンバーとなったヘルハマーは「このアルバムのリリースは俺一人の肩にのしかかった」と当時を説明する。

ヘルハマーはミスティカムに在籍する友人ロビン・マルムグレンに協力を求め、アルバムのアートワークを作るために初期のコンピューター・プログラムを使用した。ヘルハマーにはかなり高尚なアイデア、例えば羊皮紙に歌詞をカリグラフィーで書く、ホイルにバンド名をスタンプする等があった。しかし、予算の問題でもっとシンプルなデザインになった。ブラックソーンからもらった大聖堂の写真がクールだったので、これをジャケットに使うことにした。また手元にあったバンド写真は、自分、ユーロニモス、シハーが写った影のあるものが数枚で、まともなポートレイト写真は自分とユーロニモス二人だけが写ったものが1枚だけだったのである。そのため、アルバムにクレジットされたのが彼らだけとなった。またクレジットが抜け落ちているその他の理由として考えられるのは、ヘルハマーの説明によると「殺人犯と被害者が同じレコードで演奏しているという理由で、ユーロニモスの父親がこのアルバムのリリースを拒絶していた」ためらしい。

しかし、ヘルハマーはそれを無視してアルバムをリリースした。今ではユーロニモスの家族とは連絡が途絶えている。ヴィーケネスは2009年に仮釈放されたが、グリーティングカードを交わしたことがあったとは言え、出所後は二人とも一切言葉を交わしていない。ヘルハマーはこう言う。「何年も前に起きた事件だから悪感情は一切ない。彼のことは許している。あれは片方がもう片方を殺したかったってだけの話で、実はユーロニモスもヴァルグを殺したがっていた。俺は二人がバカを言い合っているだけと思っていて、実際にヴァルグがユーロニモスを殺すなんて夢にも思っていなかった。

「もちろん、ユーロニモスがいなくなったのは大きな損失だった。でもヴァルグが殺されていても大きな損失には変わりなかったはずだ。二人とも同じくらい素晴らしいミュージシャンなんだから。あれ以来、いくつもインタビューを受けているけど、俺は彼のことを一度も悪く言ったことがない。だって、あれは互いに敵対する二人の男が二人だけの戦争を起こしたという、個人的な事件だと思っているからね。ヴァルグを嫌う理由も責める理由もない事件なんだよ」

バーズムのアルバムをリリースし続け、論議を醸している哲学に傾倒しているヴィーケネスは、この記事のためのインタビューを辞退した。

映画化にはメンバー全員が否定的

『De Mysteriis Dom Sathanas』がリリースされたのが1994年の春で、このアルバムの影響力の大きさは瞬時に明らかになった。アルバム収録曲はクレイドル・オブ・フィルス、インモータル、エンペラー、ベヒーモスなど、ブラックメタル界きっての雄たちによってカバーされてきたのである。

「あれは画期的だった」と、ベヒーモスのフロントマン、ネルガルが言う。「出たばかりのときは嫌う人が多かった。最大の理由はアッティラの斬新なヴォーカル。もっと伝統的なブラックメタルらしい音を求めていたわけだよ。でも、あのアルバムでのアッティラのヴォーカルは完全に革命的で、今でもそれは変わらない。このジャンルがここまで成長した理由でもあり、俺は強く魅了された。これを聞くと、彼の声が異世界のような効果を生み出している様を、文字通り感じることができる。死人のようで、あっちの世界から聞こえるようなサウンドだよ」

1995年前後、ヘルハマーはネクロブッチャーと再タッグを組み、『Deathcrush』時代のシンガー、マニアックに声をかけ、ブラスフェマーというギタリストと共にメイヘムを再結成することにした。ブラックソーンが引き続き参加してくれることを願ったが、収監されていたために無理となった。1998年、ミラノのフェスティバルでシハーと偶然会い、バンドは『De Mysteriis Dom Sathanas』収録の「From the Dark Past」を一緒にプレイしようと持ちかけた。このとき、シハーは音楽ファンの間でのあのアルバムの影響力の大きさに初めて気付いたと言う。「ファンたちは完全に夢中だったし、イタリア人の友人たちも『De Mysteriis Dom Sathanas』にハマっていた。いつもあれは良いレコードになるとは思っていたけど、あのレコードから影響を受けたというバンドに会うようになって、あのアルバムのパワーと深遠さを初めて自覚したんだ」とシハー。そして、彼は2004年、公式にメイヘム加入を発表した。それ以降、2007年の『Ordo Ad Chao』、2014年の『Esoteric Warfare』(邦題:エソテリック・ウォーフェア~密儀戦乱)をリリースしている。

ところで、メイヘムの伝説が広まった背景には、1998年に出版されたマイケル・モイニハン、ディーデリック・ソーデリンド著『Lords of Chaos』(『ロード・オブ・カオス復刻 ブラック・メタルの血塗られた歴史』)に因るところが大きい。この本は、バンドでの死、ノルウェーのブラックメタル・シーン界に広がった教会放火の波に焦点を当てている。現在、ジョナス・アカーランド監督がこの本の映画化が進めているのだが、彼はかつてはバソリーのメンバーだったことがあり、その後はミュージックビデオ監督としてマドンナ、レディー・ガガなどのMVを撮影してきた。ローリー・カルキンがユーロニモス役で主演することは決まっているが、ヴィーケネス、デッド、ネクロブッチャー、ヘルハマー、ブラックソーンなどの配役は今後決まる予定だ。

ネクロブッチャーは2015年にこの映画を避難する声明文を出し、彼はこの作品を止めるためなら何でもすると公言した。それから2年経過した現在、製作会社から一切の連絡がないとネクロブッチャーが言う。「俺たち、クルー、関係者の知らないところで連絡を取るという姑息なやり方だった。それは間違ったやり方だ。バンドの映画を作るんだろ? じゃあ、最初に連絡するのはバンドのメンバーで、バンドの音楽を使用する許可を得るべきだ。俺たちが監修しないからって、最後に連絡するってのは間違っている」

ブラックソーンも「今となってはあの本がクソだってことはノルウェーのブラックメタル界で有名な話だと思うし、俺たち全員、映画化に関しては懐疑的で否定的だ」と加勢した。

メイヘムの架空の出来事がメタリカの曲「ManUNkind」の最新ビデオに登場した。これを見たシハーは不安を感じ、他界したメタリカのベーシスト、クリフ・バートンをフィーチャーしたビデオをメイヘムが作っているかのような構成に見えると思ったらしい。メタリカに対するリスペクトは失っていないとしながら、シハーは「映画については少し異論がある。だって俺たちバンドの話が元になっている映画だから。それこそ、何だそれ?って感じ」と述べる。

映画化の責任者であるアカーランドにコメントを求めたが、彼は辞退すると言ってきた。



ここ何年間もメイヘムは『De Mysteriis Dom Sathanas』の全曲をライブで演奏したことがあったが、シハーがバンドに戻ってきて、ギタリスト2人のラインナップになった今、初めて完全な形でこのアルバムをライブで再現できると感じている。ネクロブッチャーが素っ気ない声で「バンド活動っていうのは、アルバムをリリースして、それをプロモーションして、ツアーに出る。あのアルバムは唯一ツアーがないままにリリースした作品なんだよ」と言う。

するとヘルハマーが「あのアルバムはプレイしていてすごく気持ちいい」と続け、自分の昔のドラミングを覚え直さなくてはいけなかったと言い、「本当に楽しいね。みんな、あのアルバムを理解して、喜んでくれるから、彼らにとっても意味のある作品になっているわけだ」と喜ぶ。

ブラックソーンも、昨秋、トロンヘイムの大聖堂の近所で行われたギグに3人目のギタリストとして参加したとき、昔プレイしたパートを覚え直さなくてはいけなかった。「あの楽曲を演奏したのが20年以上前で、今の俺のギターの腕前は鈍っているから、一番ストレートな『Freezing Moon』を選ぶしかなかった」と。そんな彼は現在ソーンズの新作を準備中だ。「法衣とアッティラの祭壇のせいでステージは儀式的な空気感で溢れていたけど、それが非常に奏功していた。出番以外は観客に混じってライブを観たけど、俺が観た中で一番のライブだと思う」

シハーが続けた。「ライブのときはいつも死んでしまったあいつらのことを考えている。本当にマジカルな体験で、ステージのエネルギーも雰囲気も大好きだね。それに心のどこかで常に感情を揺さぶられるんだ」と。

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