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村井邦彦とともにアルファミュージックの創設期を振り返る

Rolling Stone Japan / 2021年5月6日 15時30分

村井邦彦

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年4月はアルファレコード特集。第3週は、アルファミュージックの創設者である作曲家・村井邦彦のリモートインタビューの内容とともに、アルファレコードの黎明期を振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは「WE BELIEVE IN MUSIC」。作詞が山上路夫さん、作曲が村井邦彦さんの新曲です。お聞きいただいているのは、2015年9月27、28日に渋谷Bunkamuraオーチャードホールで行われたライブ音源です。このライブのために書き下ろされた曲でした。歌っているのは小坂忠さん、小坂さんの娘・Asiahさん、ギタリスト大村憲司さんの息子・大村真司さん、ドラマー林立夫さんの息子・林一樹さん、村井邦彦さん、そして先日亡くなった村上"ポンタ"秀一さんです。今月の前テーマはこの曲です。

WE BELIEVE IN MUSIC / 小坂忠、Asiah、他

今月2021年4月はアルファミュージック特集。お聴きいただいているALFA MUSIC LIVEは、村井さんが70歳を迎えた2015年に行われたライブでアルファゆかりのミュージシャンが大集結。夢の一夜を繰り広げました。タイトルの「WE BELIEVE IN MUSIC」は、アルファが設立された時のスローガン。今年の3月にこのライブの映像作品が発売されました。今月はそのライブ音源を使いながら、アルファレコードの功績を振り返っていこうという1ヶ月であります。今週と来週のゲストは、アルファミュージックの創立者、作曲者、ピアニスト。現在はロサンゼルス在住の村井邦彦さんにリモートで話を伺えることになりました。アルファミュージックの理想とはなんだったのか? まずこのライブの1曲目の加橋かつみさん「愛は突然に・・・」をお聞きいただこうと思うのですが、その前にライブのオープニングでプレゼンターの松任谷由実さんが登場しています。アルファミュージックの作家契約第一号の彼女が、始まる前にライブの説明をしてくれました。その話からお聞きください。

プレゼンターMC(荒井由実)
愛は突然に・・・ / 加橋かつみ

この曲を書いた時、松任谷由実さんはまだ高校生でした。加橋かつみさんが歌わなければ荒井由実はいなかったということになります。この日のライブは、松任谷正隆さんが演出と構成を担っているんですが、彼がどれくらい時間を割いたのか? 村井邦彦さんはこの日のライブのことをこのように振り返っています。

(インタビュー)

村井邦彦(以下、村井):ものを作るときにって最終的な目的というものは相談しながら作ってますから、何回も会議をやってどうしていこうかという話をするわけです。僕の頭の中にあるもの、誰が出てくれるかというのも最初は分からないわけですから、会議していくうちに誰が出ることになったとか増えていって。山本潤子さんなんかとても期待していたんだけど、残念ながら声が出ないということで出られなくて。そういうプロセスを経て出来上がったものですから、最初からこういう風にしようと思ったわけではないんです。ただ、話し合いの中で僕らがやってきたことはどんなことはなんだったのか、歴史的なことに皆の興味が向かっていくわけです。ちょうど僕はその頃、アルファの歴史を月刊テリトリーという同人誌にずっと書いていたんです。それは後に本になって、『村井邦彦のLA日記』という題でリットーミュージックから出版されるんですけど。それの元の原稿を松任谷正隆くんに読ませたら、そのストーリーに沿ってやろうということになっていって。それに加えて、僕のアイディアで、アカデミー賞ではその年に亡くなった映画関係者のことを皆に知らせるシーンがあるんですけど、ああいうのやりたいっていうことを伝えたら、彼もぜひやろうと言ってくれて。あと、ユーミンが「村井さんの70歳の色は紫色だよ」って言ったので、舞台の床には紫の絨毯をひきましょうとか、テープリールにアルファマークが入っているものを舞台につけようとか、そういうものをどんどん会議で積み重ねていって。合計20回近く会議をやっていましたね。

田家:プレゼンターが次の方を紹介しながらアルファの歴史を辿っていくという演出が素晴らしくて。ああいうトリビュートコンサートって、今まで日本になかったなと思ったんですね。

村井:それは松任谷正隆が歴史に興味を持ってくれて。本当に時間を使ってますよ。彼は出演アーティスト一人一人にインタビューをして、それを基に脚本を書いて作ってますから。会議は20回くらいだけど、松任谷正隆が使った時間も考えたら、相当時間使ってますね。やっぱりいいものを作る時って、皆が熱意を持って注ぎ込んでやらないといいものができないと思うんです。

(スタジオ)

田家:ライブは2015年9月27、28日に東京は渋谷のBunkamuraオーチャードホールで行われました。この日は村井さんの古希をお祝いすることももう一つのテーマではあったんですが、単なるお祝いのコンサートという感じではなかったんです。出席者は、毎週紹介しておりますが、そういう人たちがプレゼンターとして所縁のミュージシャンを紹介する。そんな流れでした。そして、最後にはアルファに所縁のある人たちが、これまで亡くなった関係者を追悼するシーンがあったんですね。こういう洗練されたトリビュートコンサートは初めてだと思ったんですが、村井さんの仰ったように一朝一夕でできたものではなかったですね。村井さんはロサンゼルスにお住まいで、今回はこうしてリモートで参加されているんですが、生放送でインタビューすると、挨拶とか天気、そちらのコロナの状況は? みたいな話から始まります。録音番組なので、そういった部分はカットして肝心なところだけお聞きいただいております。

田家:ライブは2015年だったわけで、あれから丸5年半経っています。その間には色々な事があって、出演者の方が他界されたりコロナがあったり、村井さんも去年から新しい試みとして小説をお書きになってます。リアルサウンドというWebサイトで『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』という連載小説。これがおもしろいんです。主人公は川添紫郎(浩史)という人で、1960年に東京の六本木に伝説のレストラン「キャンティ」を作った方。アルファミュージックの創立は1969年の5月です。加橋かつみさんのソロアルバムのレコーディングはパリで行われて、川添象郎さんという有名なプロデユーサー、でロックミュージカル「HAIR」を日本に呼んだ、サブカルチャーの生みの親も参加されていました。川添さんが、日本にいる村井さんにパリに遊びに行かないかと電話をかけたところから始まっている。つまり、アルファミュージックの発端に川添象郎さんがいて、小説の川添浩史さんはお父さんなんですね。村井さんが思春期の頃から憧れていた方で、アルファミュージックのバックボーンがここにあるんだ、という連載小説なんですよ。今回のインタビューは、村井さんから小説の話もさせてほしいという事でその話もお聞きしました。インタビューの後は、加橋かつみさんがパリでレコーディングした、正にこれがなかったらアルファミュージックは存在しなかったかもしれないという曲「花の世界」をお聞きください。

(インタビュー)

村井:これはもうコロナと直結してますね。コンサートとか音楽ができないんです。ですから、いろいろ考えたんですけども、このアルファミュージックライブとも関連があるんですが、歴史を考えて。アルファミュージックを僕が作る前に何があったのか? 僕のメンターとも言える、こういう人がやっていることを僕もやりたいと思った人が、川添象郎さんのお父さん・川添浩史さんです。1913年生まれで僕より30歳くらい歳上ですね。僕は川添浩史さんを、高校一年から大学を出て2000年くらいまでの若い時期にしか見てないのね。今になって彼のやったことをずっと考えると、アルファの大元になったのは彼が考えてきたこと、やってきたことなんだなっていう風に思ってくるわけです。

田家:今仰った川添浩史さん、小説の中では紫郎さんという名前ですが、彼がパリに留学したのが1934年なんですね。川添親子がもしいなかったら、アルファミュージックは誕生していなかったと言えますか?

村井:言えますね。まず、僕が初めて外国に行ったのが1969年のパリなんですが、その時に川添浩史さんのお友達のエディ・バークレーというレコード会社の社長のところで仕事をしたんです。そこの会社から「My Way」という曲の音楽著作権を買ったんです。これがアルファの最初の音楽著作権ですからね。その後、1970年には川添浩史さんは亡くなってしまう。もし彼がご存命だったら、たぶんその後も一緒に仕事したと思うんです。レコーディングスタジオで、フランスの技術を使って日本で音源を作れないかということを、亡くなる寸前まで相談していたんです。

田家:1969年の4月から5月の期間には、加橋かつみさんがパリでソロアルバム『パリ1969』をレコーディングしました。川添象郎さんは先に向こうにいらして、村井さんのところに電話で遊びに来ないかと言われたと聞いているんですが、パリにどんなことを期待して向かわれたんですか?

村井:とにかく、それまで行く機会がなかったんですけど、彼から聞いてる話や本を読んでパリに興味はありましたから、これはいい機会だからぜひ行ってやれと思って。当時は作曲家として売れっ子でしたから忙しかったけど、全部の仕事を断って2ヶ月くらいパリで遊んでたわけですね。その最中に山上路夫さんと一緒に音楽出版社を作りたいという相談もしていたので、「My Way」の権利を取得したり。アルファミュージックっていう名前をつけたのもパリですよ。エディ・バークレーと契約するのに、会社の名前がないと困るから、なんでもいいから会社の名前をつけてくれってことで。川添象郎と相談して、アルファミュージックと名付けて契約したんです。

花の世界 / 加橋かつみ

(スタジオ)

田家:加橋かつみさんのソロデビューアルバム『パリ1969』の1曲目で、詞が加橋かつみさん、曲が村井邦彦さん。この曲を書いているということで、パリに来ないかとプロデューサーの川添象郎さんから誘われてパリに行って色々な事が起こって、アルファミュージックが始まりました。音楽出版社という会社の在り方は、今でもそんなに誰もが知っているものではないかもしれません。出版社というと本や雑誌の出版を思い浮かべたりする。でも渡辺音楽出版とかフジパシフィックミュージックとか色々な会社があります。著作権を管理する出版会社で、アルファミュージックも最初は音楽出版社として始まって、作家契約の第一号がユーミンだった。パリで村井さんに音楽出版をやらないかと持ち掛けたバークレー・レコードの社長エディ・バークレーさん。川添浩史さんのお友達という事で話が来たわけですね。

バークレー・レコードは、シャルル・アズナヴールとかダリダとかフランスの音楽会社では老舗で、重鎮のような方がバークレーさんです。そのときに権利を買った4曲のうちに、フランク・シナトラが歌って大ヒットとなった「My Way」があった。作家契約の第一号のユーミンの前に、アルファミュージックがアーティスト契約をしたグループがいた、それが赤い鳥でした。つまり、歴史から言うとユーミンの前に赤い鳥があった。赤い鳥は1969年のライトミュージックコンテストで1位。2位がオフコース、3位には入らなかったけれでもチューリップの前身が入賞しました。赤い鳥はそのコンテストで、「私たちはプロになりません」と言っていた。それを説得してプロの道に引き入れたのが村井さんです。ライトミュージックコンテストの優勝のご褒美に赤い鳥はロンドンに行くことになっていて、村井さんも「じゃあレコードを作ろうよ」という事でロンドンに向かうんですね。その時の話も伺っております。お聞きいただく曲は、赤い鳥の「翼をください」。

(インタビュー)

村井:音楽出版社の仕事というのは、ライブで得られる収入以外に一番重大な収入だという認識を持っていたわけですね。だから、音楽出版社という仕事はしたいなと、作曲し始めた頃からずっと思っていたんです。

田家:アルファミュージックの柱が二つあって、一つは作家の自由な発想で音楽を作る。もう一つは国際的な音楽ビジネスをやる。その二つは、パリに行かれた時にはもう考えていたんですね。

村井:その通りです。

田家:でも、それを個人でやるというケースは当時の日本には無かったわけで大変だったんじゃないですか?

村井:そうですね、でも最初から運よく「My Way」が当たったりしましたし、最初のアーティストは赤い鳥ですぐ売れてきたり。最初の作家もユーミンですからね。ユーミンが売れるまで3,4年かかっていますけど、とにかく最初から上手くいったんです。上手くいかなきゃ潰れちゃうんですけど(笑)。

田家:スローガンのWE BELIEVE IN MUSICは、当時からあったんですか?

村井:1970年か1971年にはその標語を使ってましたね。その頃、アルファはスクリーン・ジェムズ・コロンビアというアメリカのキャロル・キングなどをやっているところと提携したんです。そこにマック・デイヴィスというエルヴィス・プレスリーの曲を書いている作詞家がいて、その人が「I BELIEVE IN MUSIC」という曲を書いたんですよ。それを聞いて、こりゃいいなと思って標語にしたんです。

田家:今話に出た赤い鳥が最初のミュージシャンで、1969年のライトミュージックコンテストで優勝したけどプロにはなりたくないと言って。それに対して村井さんが何度もプロになったら? と仰ったという話があります。ポルシェで後藤さんの自宅に行かれたというのも実話ですよね? その時は彼らが売れるだろうと思われていたんですか?

村井:ヒットするとは思ってないんです。この人たちは優れたコーラスグループで、日本の中で一番いいコーラスグループだと思うから、なんとかこの人たちを世に出したいという考えですよ。

田家:ロンドンで赤い鳥がプロになるのを賛成か伺う時に、メンバーに目を閉じて挙手させて多数決を採った。村井さんが「3人いるから君たちはプロになるんだ」と仰ったんですよね?

村井:本当に覚えてないですね。本当の話かなって今になって思うんですけど(笑)。でも説得したことは確かですよ、ロンドンの中華料理屋で「あなたたちくらい上手く歌える人はいないんだから是非やってみたらいいと思う」という話をしたのは覚えてます。でも、多数決の話はなんか伝説みたいだ(笑)。

田家:「翼をください」はシングルでリリースされましたが、アルバムは英語で、というのはどういう目算だったんですか?

村井:最初から外国で売ってやろうと思っていたんですよ。ですから、ロンドン録音の『Fly with Red birds』はイギリス人の友人のプロデューサーにやってもらって、当時ヒット作が多かったトニー・マコーレーという方もオリジナル曲を提供してくれて。どれかの曲、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」かな? それはイギリスでシングル発売になってますね。残念ながら大きなヒットにはならなかったけど。アルファは、第一弾の赤い鳥、それから続いた「須磨の嵐」という前衛邦楽をやるんですけど、最初から海外市場を意識してずっとやり続けていたんです。それの積み重ねの極まったものがYMOのヒットになるわけです。

田家:先ほど名前が出た山上路夫さんとはどんなお話をされていたんですか?

村井:あまり作曲家、作詞家、あるいは作品というのが重要視されていない気がしていたんです。僕たちが子供の頃から聞いていた欧米の曲って色々な人が歌っていて。例えば「ナイト・アンド・デイ」なら、フランク・シナトラが歌っているけど、フランク・シナトラの「ナイト・アンド・デイ」とは呼ばずに、コール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」っていうわけですよ(笑)。だから村井邦彦・山上路夫の書いたなんとかっていう曲まで持っていきたいもんだね。じゃあ自分たちで音楽出版社作らないといけないんじゃないかな、というところから始まりました。

田家:小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』のエピソード1は1971年の話ですが、ここでカンヌのMIDEM、音楽出版見本市に「翼をください」のカセットテープを持って行って、皆に聞かせたという話がありましたね。

村井:その頃はね、カセットテープはまだないんだよ(笑)。当時の音楽出版社はカセットがないものだから、ダイレクトカットのディスクを持って歩いていたんだね。あるいはドーナツ盤とかLP。カセットはその翌年くらいにできたんですよ。

田家:その頃は「翼をください」を海外に売り込もうという意識があったんですね。

村井:なんでも海外に売ってやろうと思ってたんだよね(笑)。

翼をください / 赤い鳥

(スタジオ)

田家:1971年1月に発売になった赤い鳥の「翼をください」。思わずカセットと言っていましたが、小説には確かにカセットとは書いてありません。赤い鳥は当時、後藤悦治郎さん、平山泰代さん、新居潤子さん、山本俊彦さん、大川茂さんの5人組でした。後藤さんと平山さんは結婚されて、山本さんと新居さんも結婚されます。ロンドンでプロになるかどうかを皆に訊いて、5人のうち3人が挙手したからプロになると。これはステージで後藤さんが話したりもしていたんですが、本人はこれを覚えていなかった(笑)。もし誰も手を挙げていなかったらどうなっていたんだろう、と考えると、村井さんがプロにしたと言ってもいいんじゃないでしょうか。こういうのが伝説と言ってもいいのかもしれません。

地球はメリー・ゴーランド / GARO

田家:今流れているのは、GAROの1971年のデビュー曲「地球はメリー・ゴーランド」。この曲は瑞々しくて新鮮でしたね。他はハードロックやブルース的な日本のロックが多かったんですが、こういうハーモニーが新鮮でした。アルファミュージックの歴史のそばで必ず語られるのが、マッシュルームレーベル。1971年に設立されたロック系の専門レーベル、日本では1969年にURC、日本語のフォークとロックの走りのようなレーベルが生まれていましたが、マッシュルームレーベルはロックに特化していた。立ち上げたのは、川添象郎さんと内田裕也さん、ミッキー・カーチスさん、京都のロック史の伝説、今は美術家の木村英輝さんの5人だったんです。アルファミュージックは出版社ではあったんですが、マッシュルームはレーベルとしてレコードを作っていた。そこからGARO、小坂忠さんらがデビューしました。小坂忠さんのバックには細野晴臣さん、松任谷正隆さんがいてプロになっていく。川添象郎さんがマッシュルームレーベルを立ち上げる前に、「HAIR」を日本で上演しているんですが、「HAIR」には加橋かつみさん、小坂忠さん、パーカッションの斎藤ノヴさん、GAROの大野真澄さん、柳田ヒロさんも役者やミュージシャンとして関わってます。つまり、「HAIR」から始まったレーベルがマッシュルームレーベルだったと言っていいでしょう。村井さんの話の後にお聞きいただくのは、小坂忠さんの「ほうろう」です。

(インタビュー)

村井:「HAIR」が終わって僕と川添は別行動していて。ある日、川添が僕に「ミッキー・カーチス、内田裕也たちとレコードレーベルやりたいんだけど」と話して。川添象郎のキャリアってステージなんでしょ、ラスベガスのショーの舞台監督やプロデューサーやったり、ジェイムズ・ジョイスの音楽劇で欧米で公演したり。ライブステージのキャリアが長い人ですから、レコードのことはよく分かんないというんですよ。それでクニ(村井邦彦)がやってよ、と頼まれて、社長をやったということですね。

田家:小坂忠さんは日本の「HAIR」でのオーティションを受けて、はっぴいえんどには大滝詠一さんが加わったという経緯がありますが、「HAIR」のオーティションをTBSの倉庫みたいな場所でやって、そこには中学生のユーミンが来ていたという話もありましたね。

村井:今年になってから、『モンパルナス1934~キャンティ前史~』のために色々な人にインタビューしてるんですけど、去年の暮れか今年になって初めてユーミンから聞いたんですよ。ユーミンが「HAIR」の人のところに行き来していたのは見ていたんだけど、オーディションに立ち会っていたのは初めて知って。色々な人の話聞くと、昔のことって面白いですよ。

田家:小坂忠さんはモンキーズファンクラブから生まれたバンド、ザ・フローラルでシングルを二枚出していて、その全四曲全てが村井さんの作曲なんですよね。

村井:そうなんですよ、人間の縁ってわからないものですね。

田家:わからないものだなって思いますね。ユーミンの名付け親が、シー・ユー・チェンさん。彼のバンドのザ・フィンガーズは元々インストバンドの印象だったんですが、歌入りのデビュー曲「愛の伝説」も村井さんが手掛けていたんですよね。

村井:そうなんですよね。なんだか繋がってくるんだよね、ザ・フィンガーズのギターのお兄さんも高橋幸宏さんのお兄さんだしね。シー・ユー・チェンもザ・フィンガーズにいたんだよね、確か。

ほうろう / 小坂 忠

(スタジオ)

田家:お聞きいただいている小坂忠さんの「ほうろう」。演奏しているのはティン・パン・アレイ。この曲の作詞作曲は細野晴臣さんで、細野さんと小坂忠さんはエイプリルフールを結成、そこに松本隆さんがいました。エイプリルフールが解散して、細野さんは小坂忠さんをボーカルにした新しいバンドを考えていたのに、小坂さんは「HAIR」のオーディションに受かってしまって、ちょっと離れたところに行ってしまった。そこに大滝詠一さんが現れて細野さんらとはっぴいえんどを組む。そういう人間関係がアルファミュージックには流れているんですね。小坂忠さんは、エイプリルフールの前にザ・フローラルというバンドを組んでいて、そこには柳田ヒロさんもいた。そのザ・フローラルのシングル盤4曲の作曲は村井邦彦さんでもある、驚きましたね。ユーミンという名前を付けたのはシー・ユー・チェンさんというミュージシャンですが、彼のいたバンドのザ・フィンガーズの歌入りのデビュー曲も村井さんが曲を書いていた。一朝一夕どころじゃない、色々なことがこの辺から始まっているという当時の話です。連載小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の間には、改めて当時のことを伺う取材対談も行われていて、ユーミンは「HAIR」のオーディションを年齢で受けられなかった。村井さんはそのことを今年になってその対談で初めて知ったという話ですね。

ひこうき雲 / 荒井由実

田家:荒井由実さんの「ひこうき雲」が今流れております。今月は、人間関係の説明が色々な形で登場することが多いですが、『モンパルナス1934~キャンティ前史~』は、村井さんが高校生の頃から心酔していた川添浩史さんの物語です。川添梶子さんという奥様も出てくるのですが、この人も伝説の女性です。タンタンと呼ばれていて、週刊誌では六本木の夜の女王と書かれていたのですが、イタリア語とフランス語と英語を話す国際感覚の豊かな方で。イタリア人と一度結婚したのですが、ご主人のDVから逃げて川添浩史さんと出会ったというようなことも『モンパルナス1934~キャンティ前史~』に書かれてます。そうだったんだ、というエピソードの連続であります。エピソード1は1971年1月のカンヌの見本市に村井さんと川添梶子さんと親友の女性が旅をしているという話で始まっています。村井さんは見本市に行って、梶子さんはご主人の川添浩史さんを亡くした1年後の失意にある状態の旅。そこから時代を遡って、川添浩史さんの青春時代に入っていく。驚いたのが、ユーミンの2枚目のアルバム『MISSLIM』のピアノの前に座っているジャケット写真。これはその時に梶子さんと一緒に旅している親友の女性、花田美奈子さんのものだった。そういうのも改めてわかったりするお話でありまして、ユーミンについて村井さんはこんな話もしています。

(インタビュー)

村井:花田美奈子さんが作った、当時有名な政界人、財界人、文化人が集まる銀座の文壇バーのラ・モールっていうがあって。彼女が持っていたピアノを川添梶子さんが預かっていたんだね。

田家:ユーミンと最初に契約しようと思われた一番強く感じた作家性、可能性というのはどんなものだったんですか?

村井:音楽が新しかったんですよね。非常に西洋音楽っぽかったということと、詞が鮮烈によかったですね。少女の若い感性のいいところがすごく出ていた。この人は大したもんだから絶対に契約しようと思っていました。

田家:当時はキャロル・キングのアルバム『つづれおり』が世界的にヒットしていて。その出版権もお持ちだったわけでしょう?

村井:そうです。先ほどお話したスクリーン・ジェムズ・コロンビアのサブパブリッシャーをやっていましたので。キャロル・キングの『タペストリー』をプロデュースしたルー・アドラーたちと仲良くしていましたからね。

田家:当時の日本にはまだ、シンガー・ソングライターという言葉はなかったですもんね。キャロル・キングを通してシンガー・ソングライターという肩書があることを知って、僕らにもその言葉が浸透していったという経緯があるので、荒井由実さんのデビューにシンガーソングライターとしてキャロル・キングと重ね合わせる部分はありましたか?

村井:もちろん重なる部分もあるんですけど、当時はそういう種類の音楽を表現する言葉がなくて、しばらく経ってからニュー・ミュージックとか言われるようになったんです。だから当初は、これはカテゴリーで言うとどういうカテゴリーに入るんだろう? ロックじゃないし、フォークでもないし、と皆も困ったんですね。それで付けたのが、横光利一とか川端康成とかの新感覚派からとって新感覚派音楽と書いて売り出したんですけどね。

海を見ていた午後 / 荒井由実

(スタジオ)

田家:荒井由実2枚目のアルバム『MISSLIM』のから「海を見ていた午後」。あのジャケットのピアノが川添浩史さんの奥さん梶子さんの親友、花田美奈子さんのピアノだった。ジャケットは川添梶子さんの家で撮影されたというのも改めて知りました。『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の取材対談のなかで、二人の出会いはどこだったのかというのも改めて確認していて。加橋かつみさんのアルバムのレコーディングスタジオでアルバムのプロデューサー・ディレクターである、引き合わせたのはフィリップス・レコードの名デイレクター、本城和治さんだった。今、もう1970年代に当たり前だと思って始まっていたことが、実はこんなに色々な人間関係や経緯があるんだということが明かされているという小説でもあります。そして、そういう話が載っている対談。小説は小説として単行本に対談は対談としてまとまるそうです。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」アルファミュージック特集Part3。日本のポップミュージックの流れを変えた音楽制作会社アルファミュージックの特集。2015年のライブ「ALFA MUSIC LIVE」の映像作品が今年3月に発売されました。それを使いながらの特集です。ゲストには、現在ロサンゼルスにお住まいのアルファミューージックの設立者、村井邦彦さんをゲストにお送りしました。流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

コロナ禍になって一番の危機感は、色々なものが切り離されていっているなということですね。人と人の関係、国と国や世代と世代もそうですね。若い人と年寄りはなかなか交われないということになっている。音楽というのは点じゃありません。いくつもの点が集まって線になっていて、点と点の間には色々なストーリーがあって音楽になっている。特に日本の音楽は村井さんも仰っていましたが、戦前と戦後に何がつながっているのかが切られている。戦前から欧米に負けないような音楽を作ろうとしていたり、日本の音楽を世界に広めようとしている人もいた。そして、アルファミュージックやキャンティに集まってきた人たちはそういう人だったんだというのが、小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』で、とても劇的に読ませてくれます。そういう答えがここにあるんだというお話です。そういう背景があるからアルファミュージックがあり、今の日本の音楽もあります。今週と来週は本当に説明が多いので、あの人はなんだっけ? と思われた方は、タイムフリーで何度もお聞きください。Web版「Rolling Stone Japan」には文字起こしもされています。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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